忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

思索の道程  モラル・ハラスメントに対する認識



 『モラル・ハラスメント』という言葉で検索してみると、その専門的な著作は4,5冊ほどしか出てこない。日本人の手になるものは香山リカの『他人を傷つけずにはいられない』くらいで、しかもこれは前掲した『モラル・ハラスメント』の要約に近い本と言われている。
 まだまだ認知度の低いモラル・ハラスメントだが、被害者関係のブログが増えてるところを見ると、現象自体は明らかに増加の傾向にあると思われる。ここでは前掲書から、モラル・ハラスメントそれ自体に対する認識部分を引用してみる。

「モラル・ハラスメントの暴力は相手の心を支配し、自分の思うように操るという形でふるわれる。そういった行為には魅力があり、かなり多くの人間が惹きつけられる。反対にその暴力をふるわれることを考えると恐怖を覚える。
 その結果、普通の人々はモラル・ハラスメントの加害者を見ると、羨ましいと思うことさえある。というのも、そういった人は並外れた力を持っていて、いつも勝者の側に立ってるように思えるからだ」

「一番強い者がより多くのものを享受し、苦しみは他人に押しつける。その反対に、被害者のことはあまり問題にされない。被害者は弱く、世慣れていない人間だと見なされ、それだけで軽く扱われる…。
 そうして、他人の自由を尊重するという口実のもとに、状況がいくら深刻でも社会全体がモラル・ハラスメントに目をつぶってしまうのだ。確かに他人の意見や行動に口を出さないというのは現代の風潮である。私たちはそれが不愉快で、道徳的に非難すべきことのように思われても、何も言わずにいることが多い。

 また私たちは権力を握っている人間が嘘をついたり、他人を操ったりしているのを見ても、そのことに対してはびっくりするほど寛容になっている。目的が手段を正当化するのだ。
 だがそれはどこまで受け入れてもよいことなのだろうか? していいことと悪い事の境界線が判らなくなって、他人のすることに無関心になっている。だが、それによってモラル・ハラスメントの共犯者になっているのではないか? 寛容になるのもよいが、それにはっきりと定められた限度を設定する必要があるのではないか?」

「モラル・ハラスメントの暴力とは、それがいくら恐ろしくても心の領域でふるわれるものである。また、現在の社会や文化はこのタイプの暴力を大目に見る傾向にあり、その結果、モラル・ハラスメント的な行為は広がりつつある。
 それに加えて、私たちの時代はそれがどんなものであれ、基準を設けるのを拒否する時代である。そういったなかでモラル・ハラスメントの基準を設定することは、他人の権利に対する侵害だと見なされる。そんなことをしたら、逆に自由を束縛すると思われてしまうのだ」

「被害者がセラピスト、とりわけ精神分析医のもとに相談にいった時、話を判ってもらえなかったということが多い。だが分析医がそういった態度をとるのもしかたがない。精神分析は患者の心的装置、すなわち、患者の心に起こったことだけを問題にして、現在患者がおかれている状況は考慮に入れないからだ。
 その結果、医師は被害者を加害者に対するマゾヒスト的な共犯者だと考えがちで、そう考えることがどんなに重大なことか判らないのである。
 仮に患者を助けたいという気持ちがあったとしても、道徳的な価値判断をしないという理由から『加害者』と『被害者』という言葉を使うことをためらい、結果として被害者の罪悪感を増大させて事態を悪化させてしまうこともある」

「私の目的は加害者の罪を問うことではない。そうではなく、ほかの人間にとって加害者がどれほど危険な存在であるかを知らせることによって、現在や未来の被害者が身を守れるようにすることである。
 加害者の行動が抑うつ症やほかの精神病から自分の身を守る防衛措置だとしてもーそれはまったくそのとおりなのだがーだからと言って、これほど『変質的』な、すなわち凶悪な行為が許されてよいはずはない。

 加害者はそのひとつひとつを見れば、取るに足らない言葉や態度を通じて被害者を苦しませたり、操られたという屈辱感を抱かせたりする。いや、もっと重大なことには、被害者のアイデンティティーを破壊して、死に追いやることさえあるのだ!
 またモラル・ハラスメントの加害者は被害者にとって直接危険であるばかりではなく、まわりの人々にも間接的な影響を与える。加害者の行為に触れることによって、まわりの人々は善悪の判断基準を失い、他人を犠牲にしても自分さえよければ何をやってもいいというふうに思う恐れがある。これは重大な問題である。
 このような考えから、この本のなかではモラル・ハラスメントがどういうものであるか理論によって説明した部分は別にして、そのほかの部分では意図的に『被害者学』の立場にたって、すなわち被害者の側に立って話を進めている」

「セラピストが精神分析医であった場合、そちらの立場から言えば、ナルシズムを傷つけられた患者に対して、いわゆる好意的中立(患者に対して中立性を保たなければならないという分析家の態度)からくる冷淡な態度は望ましくない。
 フロイトの弟子であり、友人でもあった精神分析医のフェレンツィは、心的外傷とそれを分析する技法に関してはフロイトに反対し、1932年にこう書いている。
『精神分析の現場で患者に対してそういった冷たく、職業的で偽善的なよそよそしい態度を示すと、患者は自分の殻に閉じこもってしまう。分析家の態度に患者が感じるものは、以前ーつまり子供の頃に感じて患者を病気に追いやってしまったものと本質的に違わない。それを患者は全身で感じるのである』

 セラピストが冷たく沈黙を守っていると、モラル・ハラスメントの被害者は加害者からコミュニケーションを拒否された状況を思い出し、治療の現場でもう一度傷ついてしまうのだ。
 モラル・ハラスメントの被害者の救済を考えることは、私たち精神分析医にとっても、これまでの知識や治療の方法を問題にするきっかけとなる。私たちは全知全能の立場にたつのではなく、もっと被害者の立場にたつ必要があるのだ」

 好意的中立の立場が被害者を傷つけるのは、治療者だけでなく周囲の反応も同じことである。これはDVの被害者や、おそらくは被虐待児童などにも言える。
 力ある者に惹かれ、個人の自由を尊重するという価値観に隠れて、真に傷ついた者、弱い立場にある人たちへの共感や顧慮をなくすことは、最終的には我々の社会を住みにくいものにする。それは誰の身にもふりかかることなのである。
PR

作品を読む  探偵小説の類縁



 世界最初の名探偵は、E・A・ポーの書いた『モルグ街の殺人事件』に登場したC・オーギュスト・デュパンである。デュパンはそのほか二編の短編に登場する。『マリー・ロジェの謎』と『盗まれた手紙』の二つの物語である。

 このデュパンはその後に大きな影響を与えることになるが、特に明確なのは世界で最も有名な探偵シャーロック・ホームズと、世界で最も有名な怪盗アルセーヌ・ルパンであろう。
 シャーロック・ホームズ初登場の『緋色の研究』では、ホームズはその後の精力的な探偵像より、むしろコカインをくゆらせるデカダンな教養人として登場している。これはデュパンが明確な仕事ももたない「高等遊民」として登場したことに直に影響を受けている証であり、そのデカダンな気質も似た人物造形を受けていたのだった。

 もう一方のルパンだが、これは明確にその名前が似ていることが指摘できる。しかし実はルパンとデュパンの関連はそれに留まらない。実はデュパンの三作目『盗まれた手紙』は、実は「手紙を盗む」話であるという点で、怪盗の物語の原点にあてる「泥棒小説」なのだ。
 さらに言うと、ホームズにも実は泥棒する物語がある。とくに唯一の恋愛的な挿話となった『ボヘミアの醜聞』は、「隠された手紙を見つける」という点で、『盗まれた手紙』と全く同じ設定を持っているのだ。

 ここでデュパンとホームズは、全く異なる方法でその「隠された手紙」を見つけ出す。デュパンは「判りにくい場所に隠す」という常識の裏をかいて「木を森に隠す」式に隠された手紙を、隠した人間の心理を読んで発見する。
 対するホームズはトラブル発生を装い、その隠された手紙を「隠した本人に引き出させる」。その隠す心理を読むのではなく、隠した本人に間接的に問い尋ねるという方式だったのである。

 しかし何故、「探偵」が「泥棒」もするのだろうか? 探偵の探りあてる「真実」とは、実は「犯人」の作りだした虚構でもある。ここで探偵は、犯人と向かい合い、その知性でもって「覆い隠されたものを暴きたてる」。
 その「覆われたものを暴く」行為は、泥棒が「隠された財産」を見つけ出す作業にも等しい。それは「人の目の、さらに向こう側を見る」視線なのである。それは「視線の競い合い」と言っていい。

 この視線の競い合いを物語の骨子にすえたのが「スパイ小説」である。と言っても、ここで取り上げるのは『007』ではない。
 日本でホームズ物語を翻訳した人に山中峯太郎という人がいる。図書館においてあったポプラ社の児童用ホームズ物語を訳したのはこの人だったのだ。

 しかしこの山中峯太郎と言う人、ただの翻訳家ではない。この人は旧陸軍の軍人で、孫文にも面識があり、その作戦相談にものっていたというような経緯をもった人物であることが知られている。 
 その山中氏が戦前に『少年倶楽部』に連載した人気小説に、『敵中横断三百里』というものがある。これは日露戦争時の実録秘話をもとに書かれた小説で、日本軍の斥候がロシアの情報を得るためにその大陸を駆け抜ける一級のスパイ小説なのである。

 この『敵中横断三百里』を幼少期に読んだ世代は、その後『007』シリーズが輸入された時、「こんなの山中峯太郎に比べると…」という感想を持ったとSF作家の横田順弥は書いてる。なにせ本物の将校が書いていたものである。迫力は満点で、これは後に映画になりビデオも出ている。
 またこの山中峯太郎の人気シリーズに「本郷義昭もの」がある(この名前が仮面ライダー『本郷猛』に結びついていることは指摘するまでもない)。これは『亜細亜の曙』『大東の鉄人』等の作品に登場する陸軍将校を主役にしたシリーズであるが、こちらは舞台はアジア、特に南太平洋がその舞台になっている。

 つまりこれは以前にあげた末広鉄腸の『南洋の大波瀾』『あらしのなごり」等の、日本人が東南アジアの民族を助け活躍するという物語に類する系列とみることができる。しかし山中峯太郎の南太平洋認識も実に適当で、現地民は「土人」か「黒人」で、インドもアフリカもごっちゃである。これは明らかに「幻想の南方」なのだ。この意味でスパイ小説が南方幻想と結びつく接点があるのが判る。
 探偵小説→スパイ小説→南方幻想のラインの一方で、泥棒小説が南方幻想に結びつく経路もある。同じポプラ社のルパンシリーズを翻訳したのは、実は『吼える密林』などの南方冒険小説を書いていた南洋一郎なのである。

 そもそもホームズの生みの親コナン・ドイルが、探偵小説だけではなく『失われた世界』等の冒険小説も書いていたことは有名である。この意味で探偵小説(泥棒小説)→冒険小説→南方幻想のラインがあると言っていい。
 そもそも冒険小説とは、密林に覆われた原始世界の『謎』のベールの「覆いをはがし」、そこにある「隠された財産」を入手する物語である。この意味で考えればスパイ小説が、機密というベールの「覆いをはがし」、その重要情報という「隠された財産」を入手する物語であることも類縁していると言える。

 探偵小説の類縁としてこうして見ることによって、泥棒小説、冒険小説、スパイ小説が相互に関連していることが判るだろう。それは近代化や大戦という共通基盤をもとにした、ある種の共通した『知性』の物語だったということが言えるのである。

 

思索の道程  モラル・ハラスメントの破局



 よく判らない攻撃と支配を受け続けた被害者は、精神的に追い込まれる。その結果、被害者はもがくような行動をとるが、その時の加害者の反応を見てみよう。引用は前掲書『モラル・ハラスメント』から。

「モラル・ハラスメントの加害者は被害者を支配下におく。だが、ここで被害者がその支配に抵抗すると、加害者の心には憎しみがわきおこる。これまでは利用価値のある『モノ』にすぎなかった相手が、突然、危険な存在になるのだ。この危険はどんなことがあっても遠ざけねばならない…。こうして加害者は被害者にモラル・ハラスメント的な暴力をふるいはじめる。
 加害者の心に憎しみが表れるのは、被害者がほんの少し自由を取り戻そうとして行動に出たときだ。状況がはっきりとはつかめないものの、被害者は目に見えない相手の攻撃に歯止めをかけようとする。『こんな状況はもうたくさんだ!』被害者はそう宣言するのだ」

「だが相手が自分に距離を置こうとしていると感じると、加害者はパニックに陥り、それまでよりも激しい攻撃を加えていく。
 相手が自分の考えを表明したら、それは放ってはおけない。すぐに黙らせなければならないのだ!

 この時に加害者の心にわきおこってくる憎しみは、ほとんど憎悪と言ってもいいくらいのものだ。そして、この憎しみは相手に対する侮辱や嘲弄の言葉によって表される。
 モラル・ハラスメントの加害者は直接的なコミュニケーションーつまり相手との話し合いを恐れる。そこで侮辱や嘲弄の言葉で会話を阻むことによって、いっぽうでは話し合いを避け、もういっぽうで相手を傷つけようとするのだ。

 これに対して被害者のほうはどんなことがあっても話をして判りあいたいという気持ちから自分の考えをぶつけていく。だが、そんなことをすればするほど加害者から攻撃され、苦しみのあまりついに感情を爆発させることになる。
 加害者にとってはこれがまた我慢ならない。そこで相手を黙らせようと、ますます攻撃の手を強める。また相手が弱味を見せた場合には、ただちにそれを利用する行動に出る。

 だが被害者に対するこの憎しみは、被害者が反抗したことによって突然わきあがったものではない。もともと被害者を支配している段階から加害者の心のなかにあったものなのだ。
 しかし、これまでは支配と服従の関係を固定する目的で、加害者の心の中でも慎重にそらされ、覆い隠されてきた。それがこの段階になって、急に表面に浮かび上がってきたのである。そうなると、加害者は徹底的に相手を破壊しようとして、さまざまな暴力をふるうようになる。
 ここで大切なのは、愛が憎しみに変わったのではないということだ。そうではない。羨望が憎しみに変わったのである」

「モラル・ハラスメントの加害者は相手のなかに自分が望んでいるものを見つけると、それを手に入れようとして近付く。だが望みどおりにそれが手に入らないと相手を憎むようになる…。憎しみはそういった過程でわきあがってくるのである。
 この憎しみが加害者の心の表面にあらわれると、それは相手を破壊し、消滅させたいという欲望を伴う。また、この憎しみは決して消えることがない。モラル・ハラスメントの加害者は憎しみを持ち続けるのだ!
 憎しみの理由が他人には筋の通らないものであってもかまわない。加害者にとっては相手を憎むのは当然のことで、「だって、そうなのだから、そうするよりしかたのない」ことなのだ」

「この憎しみを正当化するのに、モラル・ハラスメントの加害者は『相手から攻撃を受けたからだ』という論法を使う。相手が攻撃をしてきた以上、自分が相手に行うことは正当防衛なのだ。妄想症の人と同じように、モラル・ハラスメントの加害者には被害妄想がある。
 その結果、相手から攻撃など受けてないのに、先まわりして防衛行動をとり、時には法律を犯すようなことをしたり、また自分にとってそれが有利だと判断すれば訴訟を起こしたりもする。
 モラル・ハラスメントの加害者にとって、うまくいかないことはすべて他人のせいだ。他人はいつも自分を傷つけようと結束して陰謀を企てているのである。

 またモラル・ハラスメントの加害者は『感情の投影』によって、自分のなかの憎しみを被害者のものとし、被害者が自分を憎んでいるのだと想像する。その結果、加害者の目には被害者が暴力的で破壊的な恐ろしい怪物のように映っている…。
 だが実際にはこの段階で、被害者は加害者に対して怒りも憎しみも感じていない。実を言うと、怒りや憎しみを感じることさえできれば、自分の身を守ることもできるのだが、そうはできないのだ。
 いっぽう加害者のほうは、自分の悪意を相手に押しつけ、向こうから攻撃される前にと被害者を攻撃する。加害者にとって、悪意を持ってるのはいつも被害者のほうなのである。このように、モラル・ハラスメントの加害者が相手に憎しみを投影するのは、精神医学的に見れば、より重大な精神病から身を守る方策だと言える」

 モラル・ハラスメントの加害者の攻撃衝動は、実は自己防衛による投影である。その意味では「必要以上に」外界を警戒していると言ってもいい。その自己防衛の心から、加害者は他者の支配しようとするのである。

思索の道程  モラル・ハラスメント加害者のタイプ



 被害者に続いて、加害者のタイプも引用抜粋してみようと思う。引用元は前掲書『モラル・ハラスメント』から。

「モラル・ハラスメントの加害者は『自分を称賛してもらう』ために他人を必要とする。そこで他人と関係を持つことになるのだが、その関係の作り方は相手を惹き付けるという形で行われる(モラル・ハラスメントの加害者が魅力にあふれているというのはよく指摘されることである)。
 こうして獲物を捕えると、あとは必要に応じて利用できるように、自分の周りにつなぎとめておく。加害者にとって他人は存在しない。その姿を見てもいなければ、その声を聞いてもいない。他人はあくまでも『利用価値があるか』どうかだけなのだ。モラル・ハラスメントの加害者の論理では、他人を尊重するなどという考えは存在しないのである」


「モラル・ハラスメントの加害者ーすなわち『自己愛的な変質者』の問題は、まず第一に自分の空洞を解決することである。この空洞に立ち向かわないようにするために(立ち向かうことができればモラル・ハラスメントの加害者にはならない。実際、加害者にならないような人間はそうしている)、加害者はそこから逃げることを考える。逃げるというのは、他人の存在でこの空洞を埋めることだ。
 その他人とは加害者の内面でいちばんはっきりとした形をとっている人物、つまり母性的な人物である。被害者に対する愛と憎しみはそこから生じる。」

「モラル・ハラスメントの加害者は、自分が持ってないものを持っている人を見たり、人生から喜びを引き出している人を見ると、激しい羨望を抱く。そこで相手の持っているものを自分のものにしようとする。
 その対象は上流社会や知的な集まり、あるいは芸術の世界に入りたいなどという社会的なものであることもある。その場合、加害者はまずそういった世界に導き入れてくれる相手を惹きつけ、その社会に入る力を手に入れる。
 そうして、ひとたびその目的を達すると、今度はその相手の自己評価や自信を揺るがし、自分の価値を高める。そうやって相手のナルシズムを自分のものにするのだ」

「幼い頃に深く傷つけられたという経験から、モラル・ハラスメントの加害者は自己実現(自己の理想を達成すること)ができない。そこで自己実現をはかっている他人、それができるものを持っている他人を羨望の目で見つめることになる。この羨望は結局は破壊に向かう。
 すなわち、誰かに対して羨望を抱いたとき、モラル・ハラスメントの加害者は自分が努力して相手と同じようになろうとはしない。自分のことは脇において、他人の幸福を破壊しようとするのだ。

 そういったことから、モラル・ハラスメントの加害者は誰かが楽しんでいるのを見ると、それがたとえ自分の子供であっても、その楽しみを妨害しようとする。そこには相手に対する愛情はひとかけらも含まれてはいない。
 あるのは羨望にもとづいた強い憎しみだけだ。モラル・ハラスメントの加害者は誰かを愛することができない。そこで、普通の人間であれば他人と持つことができる単純で自然な関係を歪め、相手を破壊しようとするのである」

「相手から自由を奪い、その精神を破壊しようとするのは、自分の身を守るためでもある。楽しんでいる人間、幸福な人間を見ると、モラル・ハラスメントの加害者は惨めな気持ちになって、そんな自分を受け入れることができない。そこで相手を破壊して、その惨めな状況を解消しようとするのだ。
 相手が苦しんでいるのを見れば、それだけ自分が幸福に思える。すなわち自分に自信を持つためにも、加害者は相手を破壊しなければならないのである。
 同じことは『知識』や『能力』についても言える。モラル・ハラスメントの加害者は絶えず誰かの悪口を言っている。そうすることによって、自分が全能であることを確認しているのだ。『他の人々が駄目な人間であれば、自分はそれよりも優れている』というわけだ」

「モラル・ハラスメントの加害者は、まず何よりも他人の人生を羨望する。他人が人生に成功したのを見ると、いやがおうにも自分の人生の失敗を思い知らされるからだ。加害者は自分の『不幸な人生』に不満を持つ以上に、他人の『幸福な人生』に不満を持つ。モラル・ハラスメントの加害者にとって、人生とは複雑で、試練に満ちて、決してうまくいかないものでなければならないからだ。
 その結果、人生に対して持っているこの軽蔑的な見方や慢性的な不満をほかの人々にも押し付けようとする。ほかの人々の喜びを妨害し、世界が悪意に満ち、他人が悪意に満ち、そして相手が悪意に満ちていることを証明しようとする。自分が持っている悲観的な見方を押し付けることによって、加害者は相手を抑うつ状態にする。それから、おもむろに相手を攻撃するのだ」

「モラル・ハラスメントの加害者は自分が子供の頃に経験した被害者の立場から抜け出すために、相手を攻撃しているのだ。ところが、加害者のこうした被害者的な態度を見ると、本物の被害者のほうはそれに惹かれて、同情し、加害者を慰めたくなる。
 これは加害者の攻撃が激しくなって、被害者のほうがさすがに『被害にあってるのは自分のほうではないか?』と気づいて、加害者から離れていくまで続く。
 だが加害者はそうなっても他人に危害を加えることをやめるわけではない。相手に見捨てられると、それによってまた被害者の地位におさまり、自分を慰めてくれる別の相手を見つけるのだ」

「相手を嘲弄したり皮肉を言ったりと、加害者が言葉による攻撃を仕掛ける裏には論争を行って相手に反発させたいという気持ちも含まれている。モラル・ハラスメントの加害者は論争好きなのだ。
 加害者が直接的なコミュニケーションを避けたり、相手との対立を認めないということからすると、これは一見矛盾するように見える。だが、加害者の自己愛的な性格を考えると決して不思議なことではない。加害者は相手を支配下において、相手に反発されても自分が脅かされないという状態を作ったうえで論争を仕掛けるのである。
 またその論争とは自分が勝つためのもので、決してまともな論議ではない。相手を貶め自分が偉く感じられれば、目的は達成されるのだ」

「モラル・ハラスメントの加害者の言葉の使い方でもう一つ特徴的なのは、難しい専門用語や抽象的な言葉を使って、独断的に結論を下すことである。相手はいくら考えても加害者の言ってることがわからない。かといって、嘲弄されるのを恐れて、説明を求めることもできない。その結果、加害者の言うことに反論できなくなってしまうのである。
 加害者の行うこういった議論は冷たく観念的で、聞いてるほうは考えることも反論することもできなくなってしまう。加害者は本来の意味などおかまいなしに会話のなかに専門用語をちりばめ、表面的な知識をふりかざしていかにも物知り顔で話す。そうやって、相手を圧倒するのだ。
 それを聞かされたほうは、あとから思うことになる。『私は騙された。あの人の言ってることにはなんの意味もないではないか。ああ、どうしてあの時、そう言い返さなかったのだろう』と…。
 加害者にとって大切なのは、会話の内容ではなく形式である。相手に理解できないことを言って、相手が議論に疲れてしまえばそれで勝ちなのだ」

 …長い、ちょっと長すぎたな。以前に書いた『闇教育』についてなどとも対照してみると、かなり関連性のある現象だということが判るかと思われる。

思索の道程  モラル・ハラスメント被害者のタイプ



 マリー=フランス・イルゴイエンヌの『モラル・ハラスメント』から、モラルハラスメントの被害者になりやすいパーソナリティを引用してみる。

「モラル・ハラスメントの被害者は素直な性格で、人の言うことを信じやすい。相手が心底から破壊的な人間であるとは想像もできず、なんとか相手の行動に論理的な説明をつけようとし、もしそこに誤解があるなら、それを解こうとする。
『もし私がちゃんと説明したら、相手は理解して謝ってくれるにちがいない』。そう考えるのだ。これは別に不思議なことではない。モラル・ハラスメントの加害者ではない人間にとって、誰かがそれほどの悪意をもって他人を操ろうとするなどとは考えられないことだからだ。

 モラルハラスメントの加害者とは対照的に、被害者のほうは素直に相手の言葉を受け取り、そのうえで弁明しようとする。だが、素直な人間が警戒心の強い人間に心を開いたら、警戒心の強い人間の方が権力を持つに決まっている。加害者の方は被害者に心を開いたりはしない。攻撃を加えながら、ただ被害者を軽蔑するだけだ。
 いっぽうの被害者のほうは、特に最初のうちは加害者の行動に理解を示し、それに適応しようとする。もともと人を愛し、認める傾向にあることから、加害者を理解し、許そうとするのだ。
 『こんな行動をとるのはこの人が不幸なせいだ。私が安心させて、この状態から救い出してあげよう』。母親が子供を守るように、被害者は加害者を助けてあげなければならないと感じる。『このかわいそうな人を救えるのは自分だけなのだ!』そう思うのである」

「被害者は場合によってはかなり長い間、加害者のすることを受け入れている。だがそれは逆に被害者が活力にあふれているからだ。被害者は不可能なことに立ち向かい、このモラル・ハラスメント的な生活に意味を与えようとしているのだ。『私のおかげで、この人は変わるだろう』。被害者はそう思っている。これが活力にあふれた態度でなくてなんであろう?
 だが被害者がそう考えるというのは、それはある意味で被害者の弱点でもある。被害者は自分の力にいくらかの不安を感じている。劣等感をもっていると言ってもよい。だからこそ、死者を生き返らせるようなこの不可能な仕事に身を投じるのだ。これは一種の挑戦である。
 被害者は強い人間で、また能力にも恵まれている。だがそのことを自分に証明する必要を感じているのだ。被害者を惹きつける段階で、加害者はこの気持ちを利用する」

「モラル・ハラスメントの被害者になるような人間は、誰から見ても喜びにあふれ、幸福そうに見える。そのため人から羨望されることになりやすい。被害者になるような人間は何かを持っていることの喜びを隠せない。また幸福を言葉や態度に表わさずにいることができない。
 だが一般に私たちの社会では、そんなことはしないほうがいいとされている。そんなことをしたら、他人の羨望に身をさらすことになるからだ。私たちの社会では平等ということに高い価値が置かれているため、意識しようとしてまいと、羨望というものは羨望される側が引き起こすと考える傾向にある」

「モラル・ハラスメントの被害者になるような人々は、相手から誤解されたり、相手とうまくやれないことに耐えられない。そこでもしそんなことがあったと感じたら、それを取り返そうとする。また何か問題が生じると、さらに努力を重ねてへとへとになるまで尽くし、それでもうまくいかないと、罪悪感を感じてますます尽くす。
 その結果、心底疲れはて、いっそうの罪悪感を感じる。まさに悪循環だが、ともかく何かがあると『相手が満足しないのは自分がいけないのだ』『相手が攻撃的になるのは自分がいけないのだ』と考えるのである。
 この極端な罪悪感は失敗を恐れる気持ちからきている。こういったタイプの人々にとって、失敗や後悔は大きな苦しみを引き起こすからだ。

 またモラル・ハラスメントの被害者になるような人々は、それがたとえ根拠のないものであっても、他人からの非難に傷つきやすい。したがって、いつも自分のしたことを釈明しているのだが、加害者のほうはこの弱点をつき、被害者の心に疑いをもたせる。
 つまり『もしかしたら、自分は気がつかないうちに相手が非難するようなことをしていたのではないだろうか?』と疑わせるのだ。仮に相手の言ってることに根拠にないように思えても、被害者は最後には自分のしたことに自信がなくなり、『やはり自分が責任を引き受けるべきではないだろうか』と思ってしまう。

 加害者のほうはいつでも非難を他人に向ける。被害者のほうは非難をいつでも自分に向ける。加害者と被害者の関係は『非難』を中心にして完璧な形で成り立っているのだ」

「モラル・ハラスメントの被害者になるような人間には隠れた劣等感がある。この劣等感を被害者はほかのことによって埋め合わせているのだが、自分が過ちを犯したと感じると、その劣等感が表にあらわれる。だがその劣等感は被害者をそのまま悲しみとか倦怠感とかいった抑うつ状態にひきずりこむわけではない。
 被害者はむしろ、この劣等感からくる不安を解消しようとして、社会とつながりを持ち、まわりの人間に奉仕しようとする。それによって劣等感を埋め合わせようとするのだ。だが、被害者は同時に罪悪感を持ちやすい。
 そこでまた劣等感が表にあらわれてきて、それを埋め合わせるために何かの活動に従事する。モラル・ハラスメントの被害者が活力にあふれているのはそのためである。これはすべて被害者の前うつ的(メランコリック)な性格から来ている」

 …残念ながら、僕はこの被害者タイプのパーソナルにドンピシャである。それは被害者の幼少期における、抑圧体験から生じている適応戦略上の偏りが関わっていると個人的には思っている。実は加害者と被害者は、幼少期に抑圧体験を経たという点では似た資質を持っている。
 ただ一応、注意しておくが、僕は被害者だったというのではなく、完全なモラル・ハラスメント被害に合う前に逃げだした、というほうが実情にあっているかと思う。家庭内や職場等の、逃げのきかない場所でのモラル・ハラスメントは相当に辛いものがあると感じられる。

カレンダー

02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

最新記事

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R