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作品を読む  『超時空要塞マクロス』  ③デ・カルチャな80年代



 つきつめて言うと、『マクロス』とはどんな物語であったのか? それに答えるならば、それは『70年代以前のマジメ文化から、80年代のポップカルチャーに出会って驚く』という物語であると、僕は言うだろう。

 戦闘種族として巨人に進化し、男女に分かれて宇宙戦争を繰り広げていた宇宙人。その宇宙人の船が地球に墜落し、地球はそれを『マクロス』として改造する。
 しかしワープの失敗でマクロスは都市をまるごと一つ艦内に抱え込んでしまう。巨大戦艦マクロスは、内部に一般市民の暮らす大衆消費都市を抱きかかえたまま、おしよせる宇宙人の攻撃に応えつつ宇宙空間を地球に向けて帰還する。…というのが、物語の概要である。
 
 このマクロス内部に、巨人族(男)のゼントラーディーは三人の斥候を艦内に侵入させる。そこで生まれながらに兵士としてのみ鍛えられ、生きてきた三人が目撃するのは、めくるめく明るさと軽さに満ちた80年代的な都市型消費生活だったのである。
 この宇宙人たちの言葉に「デ・カルチャ!」という言葉がある。意味としては「Oh my God!」と「What’s!?」を足して混ぜたくらいの感じではないだろうか。その宇宙人語の語源としては、「カルチャ」=文化に接頭語がついたものらしい。

 しかし全ての人間が兵士になるためのクローンである宇宙人たちには、「文化」というものがない。だから「カルチャ」はもはや「失われたもの」として、慣用句に残っているだけなのだ。
 しかしこの斥候たちが目にしたマクロス艦内の「都市生活」こそ、まさに「デ・カルチャ」に満ちたものだったのである。そこには歌があり、色彩があり、商品と広告があり、そして男女の恋愛があった。それは全て斥候たちにとって、「未知なる」初めての刺激だったのである。

 この享楽と明るさとラブ・ロマンスに満ちたスペクタクルな都市生活が、全ての「文化」を代表するわけではない。例えば学問の営為や、芸術、農耕技術や民俗的生活様態なども、無論、「文化」である。しかし作品『マクロス』のなかの、「デ・カルチャ!」の対象はそういうものではない。
 あくまでその「デ・カルチャ」な対象は、スーパーアイドル、リン・ミンメイに象徴される歌や音楽、きらめくライトと美少女の微笑み、スクリーンのなかで演じられるラブ・ストーリーといった、感覚的で享楽的な文化生活こそが「デ・カルチャ」の対象となったのである。

 このマクロス艦内にあった生活様式は、まさに80年代ポップカルチャーの様式であり、それこそが「デ・カルチャ」の対象だったのである。そして重要なことだが、このマクロス艦内の生活に馴染んでいくうちに、三人の斥候はすっかりこの80年代的消費生活にハマっていくのである。
 考えてみれば、軍隊的な生活様式しかないところから、明るく楽しいマクロスへとやってきたのである。ここで得た享楽的生活に比べれば、元のゼントラーディー軍での暮らしは、「暗くて、マジメで、つまらない」生活であることに間違いはないのだ。

 監督の河森正治と、ある年配アニメ監督との対談で(確か宮崎駿ではなかったかと思うが、記憶が定かではない)、相手の監督がこう言っていた。「マクロスの艦内で、無重力になって色んな食べ物がフワフワ浮いたりしてますよね。ああいうのを見ると、『ああ、あの食べ物はどうなるんだろうか』とか、我々の年代だと、そういう事が気になるんですよ」
 考えてみればマクロスというのは、一つの巨大戦艦の内部なわけであって、食料は何処から調達しているのかとかは、とにかく謎である。謎であるが、「ふんだんに消費しても大丈夫」というくらいに物は溢れており、そこでは食料難や物資不足に苦しむ市民の姿はない。マクロス市民は縦横に都市型消費生活を楽しんでいる。

 例えば宇宙から地球に帰還するというシチュエーションならば、『機動戦士ガンダム』のホワイトベースも、同じ位相にあった。しかしホワイトベースではサイド7の一般人を乗せているために食料に気を使い、なかでは老人が子供の食料をかすめる、というような描写さえなされていた。
 しかし『マクロス』にはそのような深刻な物資難というものはない。ばかりか、戦争を請け負ってる兵士たちの生活それ自体にも、ある意味での「真面目さ、深刻さ、暗さ」などが見られないのである。

 例えばシャアやグフの攻撃に慄きの声を上げるアムロ達の「戦場での兵士」が受けた心理というのは、見た目以上に過酷なストレスを本人たちに与えている。アムロの精神が段々おかしくなっていく描写が初期の頃にされているのは、当時はそういう研究はまだ一般的では知識として広がってはいなかったが、明らかにPTSDの兆候が見られるものとして捉えることができる。
 これに対して『マクロス』の主人公、一条輝はアムロのような深刻さを根本的に抱え込んでいない。戦場に出て、自分もまた柿崎のように撃墜されるかもしれないのだけど、アイドルであるリン・ミンメイとブリッジにいる早瀬美沙との三角関係のラブ・ロマンスを演じたりする余裕があるのだ。

 河森正治はその対談で、「例えば軍隊がああいう描写になっちゃうのは、アメリカ軍が実際に物資が豊富で、ちゃんと週休もらってたりすることを知ってる背景があるからなんですよ」というような事を答えている。
 実際、米軍と言うのは第二次世界大戦の頃から、前線の兵士が休暇をもらって帰還する、ということが普通に行われていた。これは前線に送り込むだけ送り込んで、「食料は現地調達」とかで東南アジアに乗り込んだ旧日本軍と比べると、雲泥の体制である。

 どちらかと言えば『ガンダム』の軍隊内部の描写は、「貧しく辛い」日本軍式の軍隊生活を背景に持っている。これに対して休暇の時はバーに行って酒を飲んだり、「戦闘機乗り」を題材にしたアイドルが慰問的な感覚でヒットを飛ばしてる描写は、アメリカ型のイメージに近いだろう。
 ただし、近年ではベトナムに行った兵士たちが深刻なPTSDを抱えて帰ってきたり、また人材不足を補うために家庭の主婦を前線に送りこむなど、アメリカ軍の体制も「明るく、豊か」とは必ずしも言えない面があることも判っている。

 ただここでは『マクロス』がその意味で、「リアルな軍隊、リアルな戦争」を描いていない、という事を問題にしたいのではない。むしろ重要なのは、『マクロス』が、徹底してそのような意味での「リアル」さをむしろ意識的に排除したということが重要なのである。
 いわばそのように「真面目に」戦争というものを描写し、それに「深刻」に関わるのを70年代的な「暗さ」だと捉えよう。それに対して『マクロス』は、「そんな真面目さより、明るく楽しい80年代の方がよくない?」ということを、対照として前面に出したのである。

 例えば今現在、ネット右翼なる人たちを中心に、「日本も核武装すべきだ」というようなことが『真面目に』語られる時代となった。だがその真面目さはある意味、「祖国のため」や「信念のために」、自爆を含めたテロを行ったりするような『真面目さ』と、同質なものではないだろうか。
 そういう『真面目さ』よりも、不真面目であったとしても『明るく楽しいポップカルチャー』の方がいいだろう、というのが『マクロス』のテーマである。であるがからこそ、敢えてマクロスには物資難だとかが出てこないのだ。むしろそういう「真面目さ」を捨てて、リン・ミンメイにエールを送るようになれば、世の中は案外平和かもしれない。

 最終的に物語は、リン・ミンメイの『歌』という「デ・カルチャ」な武器を敵軍にぶつけ、その動揺を突いて戦争継続派の敵対勢力を撃滅して宇宙人と和平にいたる、という流れとなる。つまり「デ・カルチャ」が、兵器に勝ったのだ。
 つまるところこれは、80年代的ポップカルチャーが、真面目で深刻な70年代以前のハイカルチャーを中心とした「思想」を破ったことを意味している。これは「大衆消費社会」による、「近代国家建設型」の思想との決別と言ってもよいのだ。

 ジャーナリストの大宅壮一はその昔、「一億総白痴時代が来る」と述べて物議をかもした。これはテレビ時代の到来を前に、書籍を中心にした教養主義的な世界の衰退を警告した言葉だったのである。しかしこの「一億総白痴」は、1957年に書かれたものであり、まだテレビもカラー化されず、テレビそれ自体も普及する以前に言われた言葉だった。
 さて大宅の言ったようにテレビの普及によって、国民は本を読まなくなっただろうか? あるいは国民は白痴化したのだろうか? これは正直、一概にはなんとも言えない部分もあるだろう。

 しかしネット右翼のような人物達は、逆説的によく「本を読んでる」と思うことがしばしばある。通史が出来てなくて自由主義史観系の書物に偏っているなどの傾向はあるが、細部のディテールには実に詳しい。彼らは「マジメ」なのである。
 さてこれに対してもう一つ、「萌え」を中心キーワードに据えた「ヲタク文化」が存在する。彼らの多くは善良で、なるべき他人を傷つけたりするような言動を好まず、自分の好きなものに、自分の好きなように肩入れするだけの人たちである。

 「萌え」を選んだ人々は、ある意味で「デ・カルチャ」な人々なのだ。マジメで深刻なゼントラーディより、マクロス艦内の80年代ポップカルチャーの延長線上にある「ヲタク」文化を選んだのだと言ってもいい。
 この「ヲタク」文化が、今や世界に広がっているというのは実に興味深いことなのだ。「ヲタク」文化はポップで可愛くて、無害で、優しくて柔らかい。それが海外の「ヲタク」文化観なのである(だからそのなかには「鬼畜系」美少女ゲームとかは含まれない)。

 これは言ってみれば海外の人たちが「デ・カルチャ!」な衝撃に当てられた結果と見てもいい。民族対立や各地の紛争、宗教問題などを抱える外国に比べて、「日本」という島国はそういう『真面目』な問題に当てられにくい。
 そういう深刻な対立を「ヲタク」文化は、柔らかく解消する。美少女に萌えて、コスプレして、DVD買って幸せなら、民族も宗教も関係ない。そんな「デ・カルチャ」な暮らしのほうが楽しい上に、平和的じゃないだろうか。

 西欧中心で教養主義的な真面目なハイカルチャーに対して、デ・カルチャなヲタク文化が今や時代を席巻している。これを「一時的な流行」と見るか、それとも「新しい文化形態の到来」と見るか。
 その是非も、予想にも言を述べることはできないが、少なくとも今現在に『超時空要塞マクロス』を見返すとき、それがある種の時代の予言となっていたことに不意に気づかされるのである。
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特撮最善線  超特撮論  四、自我と倫理  ④



 
 藤兵衛=「おやっさん」とは、つまり単純に言って「父性」の存在を意味している。それは社会秩序に基づく道徳、権威、思想の確固たる存在性、体系性を象徴している。そしてこの藤兵衛の位置の変化は、権威の失墜、世界描写の変化といった社会状況の変貌と連動している。

 最も顕著なのは、60年安保で岸信介が退陣した後の首相、池田隼人の選挙戦である。それまでの選挙戦は、政策の表明とその相違が主な争点であった。大まかに言えば日米関係と憲法改正が、与党野党の大きな争点となっていたのである。
 アジアに危機があったとき、米軍に協力する形で自衛隊の参戦が認可される日米安保条約に対して、与党は推進、野党は反対の立場を取った。またそれに伴う自衛隊の認識問題で、憲法9条に係わる自衛隊の存在を認可するために、与党は憲法改正を野党はその反対を表明した。

 主たる争点はそのような極めて政治的な態度表明の問題に係わっており、そこでは逆に「倫理的な態度」を問題にする意味で政治思想が生きていた。野党の支持基盤が都市の労働者層であったのに対し、与党の支持層は財界人と農村地帯に置かれていた。
 そこでは与党の立場は現実的にアメリカに対する柔和な妥協点をとりながら、何よりもまず国内の経済基盤を整えようとする一つの態度が見られる。つまりそれは経済的に国民に答えるという点で、少なくとも一つの「倫理」的な選択とも言えたのだ。そのような政治的態度が争点であった50年代の選挙戦に対し、池田首相の当選選挙には全く異なるマス・メディア向けの戦略が取られた。

 それは政策の対立点を保留し、国民に親しまれやすい「人物性」をテレビでアピールすると共に、「所得倍増」などの判りやすいキャッチコピーが使われた。
 つまりその選挙はそれまでの有識者に対して行われたのではなく、「大衆」に向けられたものだったということが理解できる。つまり時代は「思想」という倫理の時代から、「経済」という消費=欲望に向けられた時代へと以降していったのである。

  その決定的転換は70年代におけるマルクス主義の実際的失墜に、その一因が伺えるであろう。68年、チェコにソ連軍が進行したのを皮切に、それまで最も倫理的な思想、倫理国家を体現していると西側諸国の知識人に信じられてきたマルクス主義と社会主義国家が、次第にその幻想性を顕にしてきた。
 ソ連の秘密警察による抵抗者の弾圧の実態が次第にジャーナリズムによって伝えられ、また同時に西側世界に浸透してきた消費社会の到来が社会主義圏に対する幻想をうち崩しつつあった。そして日本において「よど号事件」や「浅間山荘事件」といったマイナスイメージの事件が起こるに連動して、マルクス主義的な社会描写それ自体が、もはや新しい大衆消費社会に見合わないものとして捨てられていくことになったのである。

 64年の新幹線開通と東京オリンピックの開催、そのオリンピック熱に乗じて浸透したテレビの普及は、新しい消費社会の到来を告げた。と同時に、社会が「自己像」を描写する上で、それまでの新聞や著書のような活字メディアから、全く異なる映像メディアが「大衆の幻像」を--新しい時代の社会認識の到来を用意していたのである。
 しかしテレビのような「大衆(マス)」向けのメディアは、映像によって直接的な表現力を持つが、体系的な世界像を脳裏に構築することには不向きである。しかし映像時代の到来は、映像が持つそのような非体系的性格を、映像の力が「忘却」させる時代が来ることも意味していた。そして何より決定的だったのは、それまでの主たる社会理解の綱であったマルクス理論の体系が、現実的に捨てられたことである。

特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ③



 このような「超絶者」を指向したヒーローに「イナズマン」が上げられる。「イナズマン」は超能力を題材にしたヒーローだが、後にはその超能力性はほとんど姿を消し、普通の特撮アクションによって敵を倒す描写がされる。

 しかし原作の石森章太郎が脚本、監督をした作品では、イナズマンは瞬間移動、テレパシー、透視といった各超能力に加え、攻撃技にも「念力パンチ」や「念力キック」といった通常とは異なる描写がなされた。
 この念力パンチは、敵に多くのパンチが一度に浴びさせられるというイメージシーンで撮られており、この能力がその後のイナズマンの基
本になっていたら「イナズマン」という作品はもっと異なったものになっていただろう。

 瞬間移動や透視という能力は、人質救出や敵の基地発見にほとんど不可能な状況を作らないばかりか、「イナズマン」の万能の超人ぶりを全面的に表現する。その時「イナズマン」は、ほとんど「神」に近いような「全能」の存在であることが理解されるだろう。
 しかしこの石森ラインが特別な回であったとしても、初期のイナズマンには「逆転チェスト」「復元チェスト」という万能技が存在した。「復元チェスト」は、敵の超能力によってダムなどが破壊されたおり、その損傷を一瞬にして復元する万能技である。

 また逆転チェストは、敵のどんな種類の攻撃に対しても「逆転チェスト!」と一言叫ぶだけで、全ての攻撃を相手にはね返す無敵技である。初期イナズマンには必殺技というものがなく、むしろこの無敵のカウンター技「逆転チェスト」がイナズマンのメイン技であった。
 イナズマン自身の超能力は単に「発見」されたものであり、あらゆる種類のリスクを負うことも、それを入手するための努力も、ほとんどなされていない。ノーリスクで手に入れた自らの「超常」性を無限に使用し、敵の攻撃には「逆転チェスト!」で反転させる。

 そして全能の超人は敵を高みから見下ろし、「お前の力はそんなものか」と言い放つ。自身も何の努力なしに手に入れた力を、ここまで傲慢に使用できるのは、「イナズマン」がある種の「超越者」であることが寓意されていると考える以外にない。
 しかし「ウルトラマン」や「ゴールドプラチナム」のような超越者は、外部から「到来」したものであるがゆえに「超越者」(「この世界」の論理を越える者)と見做される。「この世界」の住人であると同時に「超越者」であることはできず、それを指向するのは「超絶者」であるということができるだろう。

 「この世界」の住人であると同時に「超越者」であった場合、その存在は何の苦もなく事態を解決してしまい、一切の物語進行の必然性を無に帰してしまうからである。実際、「イナズマン」ではその「超絶者」ぶりが物語進行に難をなしたのか、「逆転チェスト」と「復元チェスト」は封印されていく。
 その入れ替わりのように「ゼーバー」というアイテムが必殺武器として登場するが、この「ゼーバー」登場においても「イナズマン」の超絶者ぶりが依然として残っていることを部分的に見出すことができる。敵のカイゼル総統以下、ウデスパー達も「ゼーバー」の力の凄さに難色を示す描写がなされ、その最も明確な例は、一度心臓停止した人物を「ゼーバー」で甦らせるという描写がなされたことでも判る。

 死者を甦らせることができるのは神か悪魔に限るのであって、少なくとも「人間」のできることではない。この意味で「イナズマン」は、根本的に「超絶者」という要素を本質に抱え込んだヒーローだったということができる。
 この『イナズマン』と『ストロンガー』には、不思議な関連が少し見出されるように思われる。まずそれは「イナズマン」が、初の「肩張り」デザインのヒーローだったことである。イナズマンの肩張りは胸と腕回りのボリュームの増加によってデザインされているが、この逆三角形の体型は「強さ」それ自体をデザインによって強調している。

 この肩張りデザインを受け継いだのが、ラガーマンタイプにボリューム増加した「ストロンガー」だろう。ストロンガーもまた、歴代「仮面ライダー」のなかで最も「力」を誇示したデザインとなっている。またイナズマンに登場する「ウデスパー」の鋼鉄の鎧というデサインは、ストロンガーと戦うデルザー軍団の「鋼鉄参謀」に受け継がれた。
 このようなデザインの継承以外にも、「二段変身」という決定的な要素がこの二人のヒーローを関連づけている。つまり「サナギマン」から「イナズマン」という二段変身が、ストロンガーにおいては「電気人間」から「超電子人間」への二段変身と変形するのである。これは「普通の強さ」から、「超越的な強さ」への段階が存在することを暗に物語っている。

 さらに細かい点ではイナズマンが登場において「俺は自由の戦士、イナズマン!」と名乗りを上げて片手を掲げるポーズを取るくだりが、初期ストロンガーの有名な「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ、悪を倒せと俺を呼ぶ。俺は正義の戦士、仮面ライダーストロンガー!」と名乗るくだりに酷似している。このように「自由の戦士」とか「正義の戦士」などと名乗ってる割に、本人達は自身の「超絶者」たる願望しか持ち合わせていないという点がまたよく似ている。
 逆に言えば、そう「名乗ら」なければ、本人達の「非倫理性」が露見するという事情が彼等に名乗りをあげさせているようにすら見えるのである。つまり本人達が自らの「自我の発露」に務めているにすぎないという本質が、「ヒーロー」という条件の為には隠されなければならないからである。

 また興味深いことだが、「ストロンガー」以前の仮面ライダー達のパワーアップは、ほとんど「特訓」によって得られるものであった。しかし「ストロンガー」だけは全く「特訓」をせずに、パワーアップを果たす。
 このことは「特訓」につきもののトレーナー=立花藤兵衛の位置を変えるのに十分であるし、また特訓という「努力」「教受」「練習」という要素が、すぐに「自我の発露」をするという「ストロンガー」の潜在願望と相いれないものであることも重要である。

 「自我の発露」のもっとも極端な形は、何の努力もせずに、また誰の力も借りずに成されるのがもっとも理想的なのである。その意味で「イナズマン」が同様に、何の「特訓」をすることもなく「ゼーバー」というアイテムで単純にパワーアップしたことが必然的だったことが理解できる。
 「ストロンガー」以前に特訓なしでパワーアップをしたのは、「X」の「大変身」が例として存在する。しかし「大変身」は「超電子ダイナモ」のように外見が変わることもなく、またその能力も「真空地獄車」という新必殺技を身につけるに留まり、むしろスポ根ものの「特訓」の形を潜在的に受け継いでいる。

 ただこの「大変身」においては伊上氏ではなく、村上庄三が書いたことが大きく左右しているようにも思われる。「仮面ライダー」シリーズの「特訓」の形を作ってきたのは伊上勝であり、Xも最初の「Xキック」の際には立花藤兵衛の協力を得ている。
 「ストロンガー」は伊上氏が書いても好戦的性格である、と同時に、「アマゾン」は鈴木氏が書いても温和で倫理的な人物である。しかし伊上氏と鈴木氏や村上氏で、決定的に異なる描写の対象が存在する。それが「立花藤兵衛」である。「ストロンガー」は伊上氏の書く回が少なく、ほとんど伊上作品とは呼べないことは既に前述した。それと連動するように大きく変わったのは「立花藤兵衛」=「おやっさん」の位置である。

 「仮面ライダーシリーズ」通しての協力者である立花藤兵衛は、歴代ライダー達の協力者である同時にその指導者、倫理的な支柱でもあった。しかし「ストロンガー」では藤兵衛は、ストロンガーの指南役どころか、時には足でまといになる三枚目キャラの存在になっている。
 これはストロンガーが「超絶者」であることを考えると、その上位に立つような「指導者」がいることはその欲望にそぐわないということが明確に判る。歴代ライダーは藤兵衛に特訓を受け、怒られ戒められ、そして多くを教えられてきた。

 本郷はオートレースを通して既に指導される立場にあり、一文字は弱気になった時に「仮面ライダーの肩には世界がかかっている。仮面ライダーがそんな憶病者であることは許されないのだ」と戒められる。V3には藤兵衛に加え、一号二号という直接指導者が常に存在し、Xは「お前の先輩達は、そんなことで泣き言は言わなかった」と叱られ、アマゾンはバイクという未知の文明の利器の力を思い知らされる。
 彼等は全て藤兵衛から、何らかの形で指導され、「教え」を受けてきた。しかし「超絶者」たる存在は、何者からも「教えられる」ようなことがあってはならない。そのような「戒め」は、超絶者にとっては邪魔なものでしかないのだ。ストロンガーはこの意味で、藤兵衛から全く何も教わらなかった唯一のライダーなのである。

作品を読む  『超時空要塞マクロス』  ②リン・ミンメイ



 『超時空要塞マクロス』という作品を決定づけているのは、個人的には「バルキリー」でも「マクロス」それ自体でもないと思っている。では、何が『マクロス』の決定的要素なのか? と訊かれれば、それは「リン・ミンメイである!」と僕は答えるだろう。

 巨大ロボットが戦争する、という作品は他にもある。しかし「リン・ミンメイ」は『マクロス』にしか出ないのだ。ではその、「リン・ミンメイ」とはどんな存在であるというのか? 
 リン・ミンメイはアイドルである。この美少女=ちょっワガママなアイドルが、しがない戦闘機乗りの主役とイイ感じになる、というどこまでもバカバカしいファンタジックなラブコメ路線こそが「マクロス」を、『マクロス』たらしめる本質なのである。

 しかしこれは昨今の、リアリティ無視の萌えキャラ押しアニメと違い、あくまで「そんな事もあるかもしれない」という範疇でやるのがポイントである。言ってみれば前線の兵士の慰問コンサートに来たマリリン・モンローが、うっかりそのなかの兵士の一人と恋に落ちた…というような。そんなファンタジーがそこにはある。
 しかしマリリン・モンローみたいな「トラックドライバーがすぐにベッドインしたくなる女の子」ではなく、いかにも「80年代アイドル」なところが『マクロス』なのである。そこに「リン・ミンメイ」の醍醐味がある。

 このリン・ミンメイを描いたのはキャラクターデザインの美樹本晴彦である。美樹本のキャラクターは、それまでの「役割」としてのキャラデザ、という一般的なキャラ理解から、突出した「美少女人気」を出したという点を特筆してもいいと思う。
 当時、リン・ミンメイの「キャハッ!」というアクションが問題になった。両手でグーを作り、胸の前で合せて笑うアクションである。あるいは開けた口の前でパーを作り、「ウッソーっ!」という所作。

 こういうミンメイの「芝居」に対して、「やりすぎ」「ブリっ子すぎ」「リアルじゃない」などという意見がアニメファンの間で物議された。しかしその声に対して美樹本晴彦は、「女の子というのはよく観察すれば、無意識的にああいう行動をとってるものんあです」と書いたことがある。ミンメイの「ブリっ子」芝居は、実は観察に基づくものだった。
 興味深いのはミンメイというのは、キャラ案の段階で明確に意識された「ブリっ子」であり、あえて「見え透いてても自分を可愛く見せようとする女の子」が目指されたという点である。これは女性ファンの反感を買うことを予想してなお、あえて「嫌われても」ブリっ子のヒロインを出そうという試みだった。

 もう既に「ブリっ子」という言葉は死語だろうが、80年代のアイドルにはこの「ブリっ子」というのは重要なイメージ戦略であった。あくまで清潔で可愛く、それでいてちょっと小悪魔的に。ミンメイというのはそういうキャラクターであり、また作品内でもそういうキャラクターでアイドルとして成功していくという設定となっていた。
 そのこだわりは例えば、美樹本晴彦の「パンチラ修正」などにもそのこだわりが見られる。これは空中に投げ出されたミンメイを、主人公がバルキリーの手で空中キャッチしようとするシーンで展開された。

 元の原画を描いた板野一郎版では、ミンメイのスカートは空中落下のためにめくり上がり、パンツは完全にマルミエの状態であった。しかしその原画を見た美樹本晴彦は、全部の原画を描き直しを決行した。それは空中落下のためにスカートを翻しながらも、ほんの一瞬もパンティを出さない「清純」ヒロインの牙城を守ったのであった。
 この美樹本のミンメイに対するこだわりは非常に強いものだった。作品の元となるイメージボードというものがあるが、それには「中華料理屋の看板娘」であるミンメイの、細部にわたるキャラ設定が描きこまれていて、これは本編には使われなかったものも含まれている。

 この80年代的なアイドル、リン・ミンメイと、主役がちょっとイイ仲になる。この主役の方は、ほとんどイメージボードなんか存在しない。この「アイドルと恋に落ちる」というのが、いかにも「派手で」「明るく」「楽しい」80年代を象徴する幻想なのである。
 そしてこの『マクロス』という作品は、このリンメイが歌う「歌」…というより、ミンメイが象徴する80年代ポップカルチャーが、「戦争を止める」という作品なのである。それは言ってみれば、「真面目な70年代以前」が、「楽しい80年代」にとって変わられる物語なのである。

 しかし実を言うと、僕が好きだったのは最終的に主人公とくっつく、「おばさん」とか散々言われてた早瀬美沙の方。これは美樹本晴彦の画集を見たとき、水彩画でとても印象的なピンナップが描かれていて、それで一気に惚れ込んでしまったのだった。
 余談だけど、美樹本晴彦のタッチにはめちゃくちゃ憧れた。

日々の事  囲碁の続きに、お酒と『W』。


 今日は午前中、薙刀の合同稽古に行っていた。いやあ、疲れた。ちょっと頑張りすぎたのか、空腹で胃酸が上がってきちゃって、終盤、喉が痛くなってしまった。

 昨日は『のだめSP』を見ていた。コミュで見ると、結構カットが多かったらしい。そうなのか~、やっぱりDVDを待つか。新作も気になるけど。
 けど、大野クンの『怪物クン』も録ったんだな。これは今、見終わった。む~、なんちゅうか微妙なドラマ。大野クンも矢嶋さんもチェ・ホンマンも竜ちゃんもいいけど、ど~も脚本がイマイチだ。稲森いずみのデモリーナは、ちょっと深キョンのドロンジョ様、仲 里依紗のゼブラクィーンと対はるコスプレじゃないだろうか。

 ちなみに今、知ったのだけど「仲里依紗」でずっと「なかざと いさ」と読むんだと思っていた。ホントは「なか りいさ」って読むんだな。『ハチワンダイバー』のヒロインになった時、凄いピッタリのキャスティングだと感心したものだ。
 しかし実はこの『怪物くん』で一番感心したのは、ヒロインの子の演技の上手さだ。奥さんが好きなCMで、「こっぷんか~」とか言ってる子なのだが、『川島海荷(かわしまうみか)』というらしい。まだ16歳くらいじゃないか。けど、異常に上手い。この子はきっと伸びる。

 さて『囲碁によせて』で書いた囲碁の続きだけど…。その後、よく見るとレベルは「10(最強)」まであるのが判った。それで思い切って、レベル10のコンピューターを相手に勝負!
 …で、結果は無残な敗北! やはりレベルを上げると、コンピューターは強かった。とはいうものの、初戦は31目負け。実は10目くらいかと思ってたんだけど、意外に大差だった。結構、いい勝負だと思ってたんだけど。

 レベル3と違って、レベル10はもうミスはしない。ミスに乗じてなんとか勝とうとか思ってると、まず勝てない。実力で、必然的に相手を押せる手順で、相手に勝たなければいけないのだ。
 けど、これは考えてみると、武術にも通じる話だと思った。相手のミスを待ったり、いちかばちかで仕掛けても勝てるようにはならない。それは「運」とか「偶然」に頼った、「賭け」でしかないのだ。本当の強さは、そういう不確定要素にではなく、確実な力同士での競いあいに競り勝つところにある。

 今日、薙刀の稽古から帰ってから、もう一勝負パソコンとやってみた。今回は中盤まで押してるので、「お、これは勝つんじゃないか?」とか思っていたのだが、なんと終盤の詰めで競り返された。「ツメが甘い」とはまさにこの事である。
 結果的には24目差で敗北。しかし、少しは前回よりマシになったか。しかし改めて、ちょっと碁を打つのが面白い。レベル10とタイ(互角)で打つのが、「ちょっと相手が上」な感じでいい感じだ。これくらいが一番面白くやりがいがある。これからは、ヤツが目標だ(ニヤリ)。

 お酒の話。『神渡』は実は、肉料理に合うお酒だった。これはビックリ。モロミを舐めながら『神渡』を呑んでると、いやに美味いことに気づいたのだ。味の濃いものが、どうやら『神渡』には合うのだと気づいた。
 それで次はモツ鍋に合せてみた。これが非常に美味しく、こういうお酒もあるのだと感心した。それで次は麻婆豆腐に合せてみた。これがなんと、凄く美味い。日本酒といえば大体、魚介が合うと思うのだけど、こういう肉料理、味の濃い料理に合う日本酒もあるのだと驚いた。

 それから~、『仮面ライダーW』が面白い。平成ライダーとしてはグンバツだ。やっぱり『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の原作を手がけた三条陸さんをメインライターに据えたのがよかったのだろう。すっごく主人公たちに、好感がもてる。

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