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作品を読む  『超時空要塞マクロス』  ①バルキリーとスタジオぬえ



 白の機体の主人公機、というと『超時空要塞マクロス』を思い出す人も多いだろう。エルガイムに負けず劣らず、シャープな線で華奢な印象のバルキリーは、その一方で大空を軽やかに飛翔する「軽やかさ」を身につけていた。

 さてこのバルキリーをデザインしたのは、TVシリーズの演出・監修にも携わった河森正治である。河森といえば「AIBO」の何代目かや『サイバーフォーミュラ』のフォーミュラカーのデザイン、また昨今、パチスロと提携して有名になった『創聖のアクエリオン』のデザインと監督である。
 このバルキリーのデザイン特徴は二点ある。それは「現用戦闘機に酷似していたこと」と、「ガウォーク」の形態があるということである。この「ガウォーク」とは、「足と手が生えた戦闘機」である。これが非常に画期的だった。

 このガウォークのデザインで面白い話がある。河森正治はスキーに遊びに行って、スキー場でガウォークの形態を思いついたそうである。…そう言えば、直滑降の姿勢に似てるかもしれない。
 実は河森正治とともに、河森が所属していた先輩である宮武一貴も案として持っていたという話が残っている。河森はスキー場で二本足のガウォークのデザインをしたのだが、宮武は四本足のガウォークを考えていたという。結果的には帰ってきてから、河森案が通った。

 宮武という人は、長いことSF界で極めて有名なイラストレーターとして名をはせた人である。特に有名なのは、ハインラインの代表的傑作とされる『宇宙の戦士』に出てくる「パワードスーツ」の表紙デザインである。
 このハインラインの「パワードスーツ」が、全ての『パワードスーツ』ものの原点である。また、この宇宙の戦士を最近映画化したのが、『スターシップ・トゥルーパーズ』である。実に原作発表から、50年近くたってからの映画化だった。

 ちなみにこの「パワードスーツ」は、『起動戦士ガンダム』の「モビルスーツ」の語源であり、また『攻殻機動隊』で有名になった士郎正宗の代表作に出てくる『アップルシード』の「ランドメイト」の原点でもある。
 そもそも日本の「SF」というもの自体の浸透には、このスタジオぬえの及ぼした影響を抜きには語れない。特に一般的にSFを浸透させたアニメの部門では、『マジンガーZ』などの透視図なども覚えがあるのではないだろうか。あれはぬえによるイラストである。

 また『ゼロテスター』のメカデザイン、有名なところでは『宇宙戦艦ヤマト』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』のデザイン協力をしている。また『勇者ライディーン』は、「ライディーン」を除いたメカデザインの全てを手がけている。
 また特筆すべきは、『聖戦士ダンバイン』の「ダンバイン」かもしれない。この『ダンバイン』では、ファンタジー作品という路線は決まっていたものの、主人公メカの路線は難航していた。それを昆虫型のデザインを起こし、あの世界観を作りあげたのは宮武一貴のデザインに負っている。

 スタジオぬえは『ガンダム』のSF考証、脚本にも携わった松崎健一が主体となったグループであり、そこに小説家の高千穂遥(『クラッシャージョウ』『ダーティーペア』)や、宮武、SFイラストの巨匠ともいえる加藤直行氏などが集まったメンバーである。
 そして『超時空要塞マクロス』とは、このスタジオぬえによる、初めてのオリジナル企画アニメだったのだ。このいわば「大御所」であるぬえに、河森はどういう形で関わっていったのか。

 ぬえは会誌『クリスタル』を毎月発行し、「クリスタル・コンベンション」というファンとの月例交流会を開いていた。まだ「SF」というものが珍しく、若く、未知で新しい世界だった頃の話しである。その頃は「SF愛好家」というものが、ごく少数だったのだ。
 この「クリコン」に参加していたのが、当時まだ慶応の学生だった河森正治たちだった。ちなみにこの参加者には、「ブチデザ」で有名になる出渕裕や、タイムボカンシリ-ズのキャラデザインや、『グイン・サーガ』『吸血鬼ハンターD』のイラストで有名な天野喜孝が入っていた。

 そして河森と一緒にこのクリコンを通して、スタジオぬえの事務所に出入りするようになったのが、慶応の四人組である。それは河森正治に加え、この『超時空要塞マクロス』でキャラクターデザインを手がけ一躍人気デザイナーとなる美樹本晴彦、同じく『マクロス』で脚本家デビューする大野木寛。そして『さすがの猿飛』や『ギャラリーフェイク』で有名な、細野不二彦がいた。
 それまでスタジオぬえというのは、通好みの「本格SF」を主体とするグループだった。それはアニメの現場から、「ぬえのデザインは線が多すぎて、アニメートしづらい」という苦情が出るほどのものだったのである。

 このスタジオぬえが、若い慶応のボンたちと生み出したのが『超時空要塞マクロス』という作品なのである。それは大胆なSF設定と、バカバカしいほどの軽さ、そしてスピーディーなメカアクションが加わった革新的な作品となったのである。
 その象徴機でもあるバルキリーは、この「リアル」と「軽さ」の双方を表現している。それまでのSFアニメには、「アニメらしい」戦闘機が求められたが、このバルキリーは当時の現用戦闘機F-14トムキャットがモデルとして使われている。ここまでリアルな戦闘機デザインというのは、それまでのメカアニメにはなかった。

 そして単純に「戦闘機」→「ロボット」に変形するのではなく、「ガウォーク」という途中形態を入れた新しさと空想力。このガウォークは、「リアル」と「空想」の途中形態でもあるのだ。そしてそれは古く重いSFと、新しい感性の融合形態でもあったのである。
 
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思索の遍歴  ロボットと人間  ②ニューラルネットワーク



 人間の行動を模してロボットの動きを論理的に規定しようとしたら、そこから一歩も動けなく「フレーム問題」。しかし現に人間は、いや、あらゆる動物は「論理的に」規定できてなくても、活動し生きている。単純な言い方をすれば、「フレーム問題」を生命体は超克している。

 では、実際の人間はどのような精神活動を行って行為しているのか。そもそも「論理的に」行為を事前にプログラムする「エキスパートシステム」に限界があったのではないだろうか? そう考えるなら、人間の行為を可能にしてる脳活動とは、一体どういうものだろう?
 人間の行為を統御している脳は、1000億以上の脳細胞によって作られている。この脳細胞の数は生まれた時に持ってるものから増えることはなく、人は逆に成人で一日10万個もの脳細胞が死滅していくといわれている。

 一日に10万だと一年で3600万、10年で3億6千万個もの脳細胞が死んでいる計算になる。けど80年生きても30億個程度なわけだから、元が1000億と考えるとそれほど問題ではない。しかしこれは「記憶」とか「学習」を、「増量」でイメージしたくなる場合には、かなり不思議な話ではないだろうか。
 しかし実際には脳細胞は死滅しても、そこから軸索や樹状突起というものを伸ばしていき、簡単に言うと枝分かれして、構造は複雑化していくのである。これが「学習」である。

 この枝分かれしていく脳の神経細胞(ニューロン)は、互いに網の目のように交錯しあい、ネットワークを形成する。この脳の網の目を模して作られたのが、「ニューラルネットワーク」という人工知能のシステムである。
 例によって原理的なことはよく判らないのが、象徴的な次元で話をしてみる。10本のニューロンがあったとして、Aの刺激に対しては1、3、6のニューロンが反応したとする。これを「正解」として、負荷を与える。

 次にBの刺激時には3、7、8のニューロンが反応したとする。これを「不正解」としてまた負荷を与える。こうやって、刺激と成否の応対を繰り返して、コンピューターにケーススタディの学習をさせる。一般的にニューラルネットワークは「パターン認識」に極めて優れているという。
 これを利用した例が、幾つか立花隆の『電脳進化論』(1998年)で紹介されている。約500個のニューロンからなるシナプス総数1万2千個のニューラルネットワークに、100人の違った手による文字を一つずつ与え正しく学習させたところ、たいていの人の手書き文字が読めるようになったという。

 また意外な利用法もある。過去20日間のデータを与えると、その先10日間の株価予想をする、というニューラルネットワークのモデルがあるという。これはかなりの精度で当たっているという話である。
 学習方法としては、過去二年間にわたる株価変動のデータベースに、30日間の値動きをランダムに20セット取り出す。そしてそれを初めの20日間のデータ入力をして、残りの10日間の予想をさせる。それで正解が一致するように「重み付け」をして、合計一万回の学習をさせたのだが、時間は10秒くらいだそうである。

 これを開発した日立中央研究製作所には、実際に幾つかの証券会社から購買の依頼が来たというが、まだ商品化してないのを理由に断ったという。しかし、このシステムにも不測というものはあった。戦争とか政変、海外市場の暴落などの突発的な変動には予測が外れたという。しかしその後の経過を学習させると、また当たるようになったそうだ。
 このニューラルネットワークは、会社の事業内容や政治の動き、海外との折り合いや流行などの「意味」を追って株価予想をするのではなく、単に折れ線グラフ的な変動の数列を学習しているだけである。つまり「予測法」のプログラムを与えるのではなく、生のデータを与えるだけ。

 この日立研究所の主任研究員である山田氏の言葉が面白い。初めは全然ずれていた予想が、段々ピタリと当たってくるのだという。ではコンピューターの方が、「何を」学習した結果、そういう成果が出せるのかと言うと、実はそれが「判らない」のだという。
 『では個々の重みづけの変化というのはどういう意味を持ってるのかということになると、わからないんです。つまりネットワ-クがたしかに学習をしているということは、その成果からわかるんですが、では、ニューロンは具体的にいったい何を学習したのかということはわかりません。  』

 とにかく「学習」するのは判ってるが、何を「学習」したのかは外部には判らないという。しかしまさに、それは「人間の脳」に近い特質と言えるかもしれない。例えば人間の脳の神経細胞を一つを分析してみても、学習した記憶はどこからも出てこない。それは「ネットワーク」の網の中にあるのだ。
 しかしこのことは、ちょっと疑問をもたらさないだろうか? このネットワークが学習した「パターン」は、果たして「正解」なのだろうか? エキスパートシステムには初めから「正解/不正解」がプログラムされている。しかしネットワークが、本当に「正解」を学習しているのかどうかは誰にも判らない。

 この状況は別に、そんな極端な話ではない。例えば言語の使用法や礼儀、マナーなど、人間の社会行動には「なんとなく」全体的なルールが存在しているが、「完全な正解」を持っている人は恐らく何処にも存在しない。
 人は自分で学習した「正解」だけを使って社会行動を送るが、それが本当に「正解」かどうかは実は判らないのだ。あるいは全く誤りだったりすることもよくある。またその誤りから「学習する」ということを、ヒトは繰り返す。その学習の積み重ねが、個体特性としての「性格」や「人格」というものに外部的に現れるだろう。

 しかしそう考えると、ここで疑問も生じる。人工頭脳としての「ニューラルネットワーク」にも、当然ながらその「個体差」というものが生まれてくるのではないだろうか。ならば当然、その個体差における「優劣」というものが、自ずから生じてくるのではないのかということである。
 そして学習データをコピーしようにも、ニューラルネットワークの「学習内容」は、外部からは「判らない」のである。これでは学習データをコピー(増産)して、他の個体に受け渡すことができない。これは人間が利用する「機械」としては、大変に不具合なのではないかと思わせる。

 またそのデータの「コピー」ができないから、人は「言葉」を使って、学習データのアウトプットを行うのだという意味がここから判るだろう。もし学習データをヒトからヒトへダウンロードできたら、我々には言語的コミュニケーションは不要になるかもしれないのだ。
 しかし「データ」を転送するということと、「アウトプット」には実は大きな違いがある。それは「言語」における生成機能の問題となって現れてくるのである。

武術散策  プロ格闘技論  ⑥アントニオ猪木と長州力 七



 しかし何故、猪木はこうまでも「物語」り続けたのか。その前にもう一人の人物、長州力のことを考えてみよう。一連の図式の中で長州は少なからず重要な役目を果たす。しかしそれは、長州が「図式」を意識してのことじゃないだろう。
 そこでは猪木と長州の間に密約はない。あるのは長州の「反骨」心と、その長州を「図式」に還元し利用する猪木の才気である。では何故、長州は「反骨」し続けたのだろうか。

 一つには長州が韓国人であり、アマレスの世界でその国籍ゆえに将来を閉ざされたという過去が大きな意味を持っているだろう。それはプロレスの始祖、力道山と同じ道である。
 力道山もまた韓国人であるがゆえに力士の道を閉ざされ、プロレスに身を転じた。長州力の「力」は、明らかに力道山から受け継いだものである。力道山に関してターザン山本は「故郷喪失」という観点から論じている。

 つまり祖国や相撲といった自らの場所を失い(これは日本人の「敗戦」とつながる)、その失った故郷の喪失感を埋める先として「プロレス」が見出されたというのである。それは生まれも国籍も経歴も関係ない、何処かからのはみ出し者が集まる世界--実力だけで自らを刻印できる世界なのである。
 山本は力道山を「敗戦によって自信を失った心に、外人を倒すことで自信を取り戻した」レスラーという見解を否定する。失ったのは自信などではなく、故郷という拠りところなのだ。そしてその拠りところを失った心を埋めたのが、プロレスという「ファンタジー」なのだという。

 そのファンタジー--幻想空間のなかで、人は自己を再び見出す。「自信」ではなく「拠り所」という見解は、少なくとも敗戦を問題にするならば正鵠を射ている。「自信」とは同じ基準にたった力の差のなかで、自らの優位性の可能性を見出すことだが、「拠り所」とはその基準そのものなのだ。
 敗戦で失ったのは紛れもなく、「日本」という国家--共同体のイメージを形成していた同一性そのものなのである(無論、象徴的には天皇制の崩壊として意味づけられる)。その喪失感をファンタジーによって埋めるかどうかは少し保留する。

 ターザン山本は続けて「喪失感をもたないレスラーは大したものではない」と書く。その喪失感を持つレスラーとして山本は力道山、馬場、猪木を上げるのである。
 故郷喪失とは「自らの場所」を持たないということではなく(安易なカウセリングやドラマはこう言いたがるが)、むしろ自らのいる場所に「何もない」ことを見出すことだと思う。それは明治の知識人のように、西欧の知識を持ちつつ西欧の原理に違和感を感じ、それでいてまた自らの日本の家庭に馴染みも感じられない浮遊した心理。

 あるいはユダヤ人でありまた都市生活者であるソール・ベロウが、自らの根拠としてユダヤ教にも都市にも帰属できないだけでなく、もはや本来のユダヤ教そのものが失われていることの確認、その空漠とした心の風景であるはずなのである。
 山本は馬場をその空漠とした風景をじっと見続けていた人、そして猪木をその空漠を埋めるかのように戦い続けた人と論じる。猪木とは自らのその「何もない」場所を、「最強」という物語で埋めようとした--埋め続けようとした人物なのである。

 考えてみれば「プロレス」とは何なのか? 投げ技や締め技は柔道にもある。チョップやキックは空手にもある。拳や身体のぶつけ合いは相撲やボクシングにもある。プロレスには何でもある--が、「プロレス」にしかないものとは何だろうか? プロレスが「プロレス」として持つ核心、他とは異なる本質とは何だろう。
 猪木はスポーツ選手でもなく、プロレス以前にやっていた身体競技もない。考えてみれば力道山には相撲があった。木村政彦には柔道が、馬場には野球、坂口は柔道、長州にもアマレスがあった。しかし猪木には--猪木だけは「プロレス」しかない。

 他の選手は自らの技術ベース・身体ベースを自由に、何でも取り込める「プロレス」に持ち込める。しかし猪木は、何がその「本質」なのか判らない「プロレス」しかないのだ。猪木が戦い続けるということは、「何もない」プロレスで戦い、勝ち続けることによって「最強」の存在
として実体化するということだった。
 つまり猪木は「プロレス」をこのように定義するはずである。「ボクシングより強いもの」「空手より強いもの」「柔道より強いもの」--「~より強いもの」、その他との反射関係によってのみ定義されるプロレスの実体を、猪木は確固たる不動の重量として形成したいのだ。

 だからこそ猪木は、異種格闘技戦をいとわない。馬場のように「プロレス」というブランドの崩壊を恐れない。猪木はその「プロレス」という概念を、外部に拡張することによってしか、それを実体的に把握することができなかったのである。
 プロレスがプロレスしか持ってない「技術」によって自らを定義づけることは恐らく難しい。他の格闘技はその固有の技術体系を持ち、実体として--競技や武道として存在する。しかしプロレスには、そのような能動的定義ができるだろうか。恐らく猪木ならばこう言うはずである。「プロレスは存在しない」と。

 「プロレス」の存在については後述するとして、少なくとも猪木は他との反射関係によって--つまり「外部」を取り込むことによってのみ実現しうると考えたはずである。いつも同じメンバーで定期的な興行を打つ--猪木にとって「プロレス」とはそのようには存在できるものではなかった。
 そのような自閉性の下ではプロレスは「~より強い」という定義を失い、身内同士の喧嘩ショーにすぎなくなるからである。猪木の目は常に新しい敵を--「外部」を探す。そして新しい「図式」を提示し、それによって「最強」の物語を作る。

 猪木の視野が「世界」に開かれているのはそのためだ。猪木は常に未知のポテンシャルを求め、プロレスを「外部拡張」しようとする。自閉性を嫌うその「外部拡張」の精神こそが、『闘魂』と呼ばれるものの核心なのだ。
 猪木が「プライド」プロデューサーに専任して、興行最後に「1・2・3、ダァーッ」をやる。その時の挨拶は「元気ですかーッ」で始まる。「元気ですか」とは、そのような自閉性を抱え込んではいないか、という言葉である。

 そしてこの「元気ですか」と「ダアーッ」の間に、いろんな言葉を挟むのだが、「プライド・11」の時は「バカヤローッ」だった。つまり「元気ですかーッ」、「バカヤローッ」、「それでは皆さん御一緒に--1・2・3、ダアーッ」だったのである。
 何故「バカヤロー」なのか、何に向かって「バカヤロー」なのか、そんなことは問題じゃない。それが猪木の『闘魂』であり、この「元気ですか」の後に「バカヤロー」が来る精神を、理解しなければならない。

 それは自閉する新日、あるいは日本全体の未だ脱しきれない島国根性に対する「バカヤロー」なのだ。そして、その闘魂の原点は「外部」に
新しい敵を求める言葉は誰もが猪木のマネとしてまず思い浮かべたあの言葉である。…そう、それは「なんだ、コノヤロー」だったのである。

特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ②



 ここで改めて問うべきなのは、その丈茂の根本動機は、果たして倫理的なものであったか否か、ということである。この動機は「友人の復讐」となっているが、その友人はどんな状況で殺されたのか。またどんな人物だったのか。そして茂にとって、どんな意味を持つ友人だったのか。
 はっきり言って、その詳細は不明--というより、むしろ二次的なものとして扱われている。茂がその友人への友情、「想い」を口にする話もないし、またその友人が素晴らしい人物だったと仮定して、そのような素晴らしい人物を利己的な目的のために殺害するブラックサタンの「悪」に、怒りを真剣に向けたこともない。

 これはこの「ストロンガー」が、「X」までメインを務めていた伊上勝から村上庄三、鈴木生朗といった人達に脚本家が交替したことが大きく係わっていると思われる。単純に言えば「ストロンガー」は、それまでの「仮面ライダー」とは違い、「伊上作品」ではない。
 伊上氏の脚本には、「ダブル」の主題を「互いの境遇」に転換する契機が持つ倫理的な主題があり、悪の組織的犯罪の社会的被害を公共の倫理感から怒る主人公達が明確に描かれていた。つまり「他人を想いやる」心と、「人類の平和」に対する高い正義感が、そこには確固として存在したのである。

 しかし茂にはその「友人」を想いやる描写もなければ、「高い正義感」を感じさせるだけの真剣な言葉も見当らない。つまり茂の根本動機は、本質的に「倫理的」なものではないのである。では、何か。それは「超絶的」なものとしての「自我」の発露、というように言えるだう。
 藤兵衛とタックル(岬ユリ子)がブラックサタン編の最終間際、ブラックサタンにさらわれる。しかしその時茂は、ブラックサタンから送られた宣戦布告状を読んで、二人の心配をするのではなく「ブラックサタンのアジトを突き止めるチャンスだ」と考える。些細なことだが、実際に描かれたこのような丈茂というキャラクターが、「ストロンガー」という存在の本質を決定する。

 また「デルザー軍団編」では、デルザー軍団の当面の目的は「ストロンガーを倒すこと」であって、「世界(日本)を征服すること」では全くない。物語の主筋は「ストロンガーを倒した者が、デルザー軍団のリーダーになる」という設定のもとに、悪の軍団の内部抗争を絡めつつ描かれる。
 ここではそれまでの「仮面ライダー」の存在意義であった、「悪の計画を阻止すること」や「子供の未来を救うこと」が全く描かれない。悪は互いの思惑に任せて「ストロンガー」に単に悪意を持つ者にすぎないし、また物語には子供が登場する余地が全くない。登場してもそれは申し訳程度に誘拐されるに過ぎず、何かの計画のためにさらわれたのではない。またストロンガーも、いつも通りに人質を救うだけである。

 「ストロンガー」は悪の計画を阻止するのではなく、単に自らにふりかかる火の粉を払っているにすぎないし、また子供という特権的な存在との信頼確立を成し遂げたわけでもない。ここではストロンガーを「正義の味方」と定義づける能動的な要素が、ほとんど見当らないのである。
 「ストロンガー」という存在は「正義(子供)を守っている」のではなく、単に「戦っている」にすぎない存在と見做す以外にない。茂が「ストロンガー」になったのは、単純な話「正義を守る」ためではなく、単に「戦いたいから」と受け取ることができる。「自ら」改造されるという行為は、その好戦的な性格を暗に物語っている。

 「ストロンガー」の好戦的性格は、脚本家の資質であると同時に、「ストロンガー」という存在それ自体が次第にそのような存在へと自らを彫塑していった形跡が強い。
 それは荒木茂の演技に依るところもあるし、また「電気人間」という特殊な設定がもたらした部分もある。作品は一人歩きし、そして自らの本質を開花することがあるとだけしておこう。実際、「ストロンガー」は伊上氏が書いても好戦的である。

 デルザー軍団編でオオカミ長官が登場した時、ストロンガーは反目しあうゼネラルシャドウとオオカミ長官との間に内紛を見て、「この機に乗じて、一気に奴等を叩き潰すか」と考える。このような好戦的性格は、それまでの「仮面ライダー」達には存在しない。
 またデルザー軍団編でのメインライターとなった鈴木氏の書いた回では、冒頭でストロンガーは「デルザー軍団のアジトを捜し」ている。そこには「悪の計画」があってそれを阻止するという、後手後手に回るそれまでのライダー達とは異なる性格が描写されている。それは自ら「戦いを求める」ヒーローの姿なのである。

 「ヒーロー」は「正義」であるからこそ、「ヒーロー」なのである。それは災害から人々を守り、悪と戦う「倫理性」によって「ヒーロー」なのである。しかしその実特撮作品には、「倫理」的目的以上に「戦い」そのものによるカタルシス--「戦い」それ自体を嗜好する潜在的欲望が強く作用している。
 それは特撮の根本動機が「正義」ではなく、ある意味では格闘技のように「戦い」それ自体を見たいことにあるということだ。無論、特撮とはそれだけではない。しかしシチュエーションドラマをモチーフにした「ウルトラマン」に対して、時代劇を原モチーフに持った「仮面ライダー」は、遥かに「戦い」それ自体を嗜好する傾向が強い。

 「悪の計画」が全く存在せず、「ストロンガー対悪の軍団」をひたすら描写するデルザー軍団編は、その隠れた動機を全面的に開示した問題作なのである。つまり『ストロンガー』は、その主役の性格造形、そして物語の展開において潜在意識を全面的に解放した作品であるということができるのである。
 ここで「ダブル」を殺した後のもう一人、という主題が再び取り上げられる。一人がもう一人の「ダブル」を殺すということは、つまり「ダブル」という相対化を拒んで自らを「超絶者」にするという潜在的欲望が解放されたことを意味している。

 その意味で「ストロンガー」の戦う動機は「家族」という自らの属していた共同体が破壊されたことに対する怒りではなく、「友人」という「ダブル」が殺されたことが契機とならなければならない。これから考えるならば、ストロンガーは友人が殺された「復讐」に立ち上がったのではなく、むしろ友人が殺されたことによって「解放」されたのである。
 その意味では、むしろ「友人」を殺したのは他ならぬ「ストロンガー」本人であるということすら結論できるのだ。仮にそれがブラックサタンのしたことであったとしても、それはストロンガーの潜在意識に欲望として存在した事態であり、ブラックサタンは単にストロンガーの欲望を代行したにすぎないからだ。

 この意味でストロンガーは友人=ダブルを殺すことにより、自らを相対化し、抑圧し、制御する鎖から解き放たれ、その戦いそれ自体を嗜好する潜在意識--その「自我」を全面的に開花させるのである。
 つまり「ストロンガー」の目的とは、他ならぬ「自我の発露」という根本動機に狩りたててられていることが理解できるのである。

 このような「自我の発露」が即ち、「超絶者」を指向するという意味なのだが、そのような衝動に対しては当然、制御やそれより上位のものがあってはならない。そのような理由から、ストロンガーに超電子ダイナモを装着したマサキ博士があっという間に死んでしまう事情が理解である。
 ストロンガーは最初の「電気人間」に改造される際にですら、「改造する側」の意志を無視して脱走した実績があり、その後のパワーアップに対してなされた改造においても「協力者」という形で自らを拘束する者があってはならない。

 改造者は被改造者に対して、その肉体におけるより優位な理解を有しているが、それは被改造者にとっては「自分」よりも「上位」の存在を認めることとなる。しかし「超絶者」であるストロンガーには、それは存在してはならない。
 マサキ博士が超電子ダイナモの能力説明だけして殺されるのは、そのようなストロンガーの潜在的願望に即している。つまり欲望の次元から見るならば、博士もまたストロンガーが殺したといっても、ほとんど差し支えがないのである。

 無論、それまでも改造者は多くの場合、死んでいる。しかし本郷を改造した緑川博士の死は、むしろ悪に加担し本郷の運命を狂わせた「悪」の行為に対する因果応報として「天の裁き」が下った、というほうがはるかに事態にふさわしい。
 マサキ博士の場合は悪に加担するのが嫌で脱出し、悪と戦うために超電子ダイナモの開発をしていたのであるから、「因果応報説」は当て填まらない。またXの神敬介やアマゾンの場合、改造者は実の父あるいは父親同然の長老であって、その悪と戦っての死は「遺志の伝承」を意味しているのである。

 しかし茂とマサキ博士はほとんど初対面であり、とても「遺志の伝承」が行われるような深い関係ではない。このようなことからも、マサキ博士による改造とその死は「ストロンガー」の潜在願望にのみ即しているのであり、それ以外の原理には全く適合していないことが理解できる。

雑断想  囲碁によせて



 テレビの某番組で、ドイツの囲碁事情というのを放送していた。実はドイツでは、囲碁が隆盛なのだそうだ。そしてそこでは「ドイツで一番有名な日本人はハトヤマ」とか言ってる。…誰?

 その疑問をよそに、囲碁が好きなドイツの小学生は「伝説の対局だよ」とか言ってる。『伝説のたいきょくぅ』? で、この「ハトヤマ」って誰かと言うと、実は現総理大臣・鳩山首相の祖父・総理大臣を務めた鳩山一郎だったのである。
 けど、何故、ドイツで囲碁でハトヤマ? 実は鳩山一郎がドイツの数学者・デュバールというヨーロッパ初の囲碁チャンピオンと、なんと「電報」で打った囲碁の対局がドイツの囲碁普及の礎となったのだという。

 この日独電報碁は52日間に及ぶ対局となり、その経緯は毎日、新聞で報道されたという。この対局の報道からドイツの囲碁人気が高まり、囲碁人口を増やしたのだという。ちなみに結果は鳩山一郎の勝利。…凄い。
 番組が教えるところでは、囲碁は元々、中国渡来のもの。しかしあくまで一部の趣味でしかなかった中国に対して、日本では徳川家康が囲碁の「プロ棋士」制度を、を秩禄を与え家元制度を作ることで成立させた。

 そして江戸城では毎年、囲碁大会が行われ、大変な盛況だったという。これを通して日本では囲碁は庶民の間にも広く普及した趣味となり、以降、アジアにおける囲碁の発信場所は日本になったということである。
 ウィキを見たところでは、信長・秀吉・家康の三人がともに囲碁の愛好者であり、この三人は「本因坊算砂」の弟子だったという。現在の囲碁の最高位である『本因坊』は、これに由来している。家康の制定した家元は、この本因坊家に加えて、井上家・安井家・林家の三家であるという。

 以前にも書いたことではるが、僕は4歳の頃から、父が僕をプロ棋士にしようとして囲碁を仕込まれてきた。それは12歳の頃まで続いたが、とにかく僕には囲碁は「辛いもの」「苦しいもの」でしかなかったのだ。
 それ以降、碁石に触れることもあまりなかったのだが、確か大学生のときの祖父の一周忌か何かの折、田舎に帰ったときに碁石を持った。祖父は碁が好きでよく祖父の義兄と打っていたが、父が「久しぶりにやってごらん」というので、なんとはなしにその祖母の兄にあたる「おいちゃん」と碁盤を囲んだのだった。

 しかし十数手打った段階で、「これはダメだ」とすぐに判った。全く勝負にならない。定石は忘れてるし、どう攻めて、どう守るというような基本的な「感覚」が完全に抜けている。小学生の頃は盤面を見ると、どちらが何目くらい勝ってるか大体判ったものだが、その「感覚」が全くなくなってることに気づいたのだ。
 「こりゃあ、ダメだよ」と僕は苦笑いして、父に代わってもらった。その対局をしばらく眺めていたが、やはり「ピンとこない」という感じだけがし、僕がずっと囲碁から遠ざかったのだということだけが判ったのだった。

 しかしなんだか、最近、自分の源流や日本文化の特質みたいなことをつらつらと考えていて、囲碁のことをふっと思い出していたのだった。そこに件の、ドイツでの囲碁普及の番組を見たのである。
 その時、そのデュバールの弟子だという初老の人物が口にした言葉に、僕ははっとなった。「碁盤を囲むことで、我々はすぐに友人になれる」。その人はそう言った。それは、全く僕の思ったことのない言葉だったのだ。

 …ああ、と思った。僕は囲碁を「楽しい」と思ったり、人と人とのコミュニケーションや、友愛の印としてそれをするという事を考えたことがなかった。そういう風に碁を見たことがなかったのだ。
 碁はいつも僕にとって真剣なものであり、義務であり、課題であり、労働であり、苦痛だった。碁を楽しんで打ったことなど一度もない。相手が強ければ負けるのも苦痛であり、相手が弱ければ勝つのも苦痛である。そういうものだった。

 ふとその後、パソコンをいじってるときに、まだ未インストールのソフト群がノートに内在してることに気がついた。ゴルフのゲームとかに混じって、その中に囲碁も入っていたのである。僕はそれをインストールしてみて、試しに一局打ってみることにしたのである。
 実に、何年ぶりの碁だったろう。最初はこわごわと、何か焦ったり緊張して、とにかくがむしゃらに石を置いた。相手はコンピューターなのだから、緊張する必要はない。楽しみで打つのだから、負けても構わない。

 けど打つごとに、段々、自分の緊張度が高まっていくのが判る。と、同時に前は思い出せなかった感覚が、少しずつ甦ってくるのが判った。こう打つと守れる、こうして攻める、こうやってつないでおくことで、可能性を残す…とか、その他色々な囲碁の「世界」。
 それは僕が以前には『把握』していたにも関わらず、今はほぼ失った世界。その世界の把握感、認識が少しではあるが甦ってくるのを感じた。ああ、碁ってこういうものだったんだな。と、以前は禁忌に触れないように、自ら距離をとり近づこうとしなかった囲碁の世界を、落ち着いて距離をとって眺める足がかりができたような気がした。

 恐らく、ずっと恐がっていたのだ。碁とともに、苦痛の思い出が甦ることを。けれどこの久しぶりの対局は、僕に武術では味わう事のなかった緊張感を味あわせた。そうか、と思った。柔道で抑え込まれたり、打撃で苦痛を受けても、碁を打つときほど緊張したことというのは、僕にはなかったのだ。
 ちなみにその時の対局は大勝だった。コンピューターのレベルが「素人相手」のレベル3設定だったのだが、そんな事も考えずにとにかく対局した結果である。後日、また打ってみたら、今度は落ち着いてコンピューターの手筋を見ることができた。

 正直に言うと、コンピューターの手筋は素人以下である。人間なら絶対に間違えないような過ちを平気で犯す。あくまで何かで聞いた話だが、将棋やチェスは盤面に駒が並んでいて、その駒の進行手順は限定されており、比較的アルゴリズムが厳密化しやすい。
 それで現在、チェスの世界チャンピオンとコンピューターの勝負が、結構いい勝負だったはずである。これに対して囲碁というのは、盤面のどこに石を置いてもよく、なかなかアルゴリズム化しにくいのだそうである。コミュを覗くと、「強いソフト知りませんか?」なんて話しが出ていた。

 無論、僕の相手もレベル6の最高にあげると、僕も簡単に負けてしまうかもしれない。けど、それはそれでいいのだ。これからの課題と楽しみが増える。現時点では、自分がいかにヘタで話になってないかだけは、よく把握してるからだ。対人なら100%負けるということが具体的によく判るのだ。
 実は僕は将棋の類は弱い。長年、碁をやっていたにも関わらず、厳密に手筋を読むというのが実は苦手なのだ。けど将棋なんかに比べると碁は、なんとなく「形勢を読む」というような曖昧な感じがつきまとう。将棋・チェスは完全に理系だが、囲碁はちょっと文系的な要素が入るというのが僕の印象なのだ。コンピューター化の難しさは、多分、ここに起因している。

 なんというか、一人で定石を勉強したり、詰め碁をやったり、棋譜を並べてみて再入門してみるのもいいかもしれない、なんて気になっている。自分でもちょっと不思議だ。長い間忌避していた、碁に対するこだわりが不意にとれた感じしている。
 これは関係ないように見えて、実は最近、江戸学ばっかりやってるというような事に起因してる。自分の原点や、日本文化の周辺に触れてみることに、ある意味を見出しているのだ。それでもうちょっとマシになったら、親父も含めて人と碁を通して語るのもいいかもしれない…なんて夢想したりしているのである。

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