人間の行動を模してロボットの動きを論理的に規定しようとしたら、そこから一歩も動けなく「フレーム問題」。しかし現に人間は、いや、あらゆる動物は「論理的に」規定できてなくても、活動し生きている。単純な言い方をすれば、「フレーム問題」を生命体は超克している。
では、実際の人間はどのような精神活動を行って行為しているのか。そもそも「論理的に」行為を事前にプログラムする「エキスパートシステム」に限界があったのではないだろうか? そう考えるなら、人間の行為を可能にしてる脳活動とは、一体どういうものだろう?
人間の行為を統御している脳は、1000億以上の脳細胞によって作られている。この脳細胞の数は生まれた時に持ってるものから増えることはなく、人は逆に成人で一日10万個もの脳細胞が死滅していくといわれている。
一日に10万だと一年で3600万、10年で3億6千万個もの脳細胞が死んでいる計算になる。けど80年生きても30億個程度なわけだから、元が1000億と考えるとそれほど問題ではない。しかしこれは「記憶」とか「学習」を、「増量」でイメージしたくなる場合には、かなり不思議な話ではないだろうか。
しかし実際には脳細胞は死滅しても、そこから軸索や樹状突起というものを伸ばしていき、簡単に言うと枝分かれして、構造は複雑化していくのである。これが「学習」である。
この枝分かれしていく脳の神経細胞(ニューロン)は、互いに網の目のように交錯しあい、ネットワークを形成する。この脳の網の目を模して作られたのが、「ニューラルネットワーク」という人工知能のシステムである。
例によって原理的なことはよく判らないのが、象徴的な次元で話をしてみる。10本のニューロンがあったとして、Aの刺激に対しては1、3、6のニューロンが反応したとする。これを「正解」として、負荷を与える。
次にBの刺激時には3、7、8のニューロンが反応したとする。これを「不正解」としてまた負荷を与える。こうやって、刺激と成否の応対を繰り返して、コンピューターにケーススタディの学習をさせる。一般的にニューラルネットワークは「パターン認識」に極めて優れているという。
これを利用した例が、幾つか立花隆の『電脳進化論』(1998年)で紹介されている。約500個のニューロンからなるシナプス総数1万2千個のニューラルネットワークに、100人の違った手による文字を一つずつ与え正しく学習させたところ、たいていの人の手書き文字が読めるようになったという。
また意外な利用法もある。過去20日間のデータを与えると、その先10日間の株価予想をする、というニューラルネットワークのモデルがあるという。これはかなりの精度で当たっているという話である。
学習方法としては、過去二年間にわたる株価変動のデータベースに、30日間の値動きをランダムに20セット取り出す。そしてそれを初めの20日間のデータ入力をして、残りの10日間の予想をさせる。それで正解が一致するように「重み付け」をして、合計一万回の学習をさせたのだが、時間は10秒くらいだそうである。
これを開発した日立中央研究製作所には、実際に幾つかの証券会社から購買の依頼が来たというが、まだ商品化してないのを理由に断ったという。しかし、このシステムにも不測というものはあった。戦争とか政変、海外市場の暴落などの突発的な変動には予測が外れたという。しかしその後の経過を学習させると、また当たるようになったそうだ。
このニューラルネットワークは、会社の事業内容や政治の動き、海外との折り合いや流行などの「意味」を追って株価予想をするのではなく、単に折れ線グラフ的な変動の数列を学習しているだけである。つまり「予測法」のプログラムを与えるのではなく、生のデータを与えるだけ。
この日立研究所の主任研究員である山田氏の言葉が面白い。初めは全然ずれていた予想が、段々ピタリと当たってくるのだという。ではコンピューターの方が、「何を」学習した結果、そういう成果が出せるのかと言うと、実はそれが「判らない」のだという。
『では個々の重みづけの変化というのはどういう意味を持ってるのかということになると、わからないんです。つまりネットワ-クがたしかに学習をしているということは、その成果からわかるんですが、では、ニューロンは具体的にいったい何を学習したのかということはわかりません。 』
とにかく「学習」するのは判ってるが、何を「学習」したのかは外部には判らないという。しかしまさに、それは「人間の脳」に近い特質と言えるかもしれない。例えば人間の脳の神経細胞を一つを分析してみても、学習した記憶はどこからも出てこない。それは「ネットワーク」の網の中にあるのだ。
しかしこのことは、ちょっと疑問をもたらさないだろうか? このネットワークが学習した「パターン」は、果たして「正解」なのだろうか? エキスパートシステムには初めから「正解/不正解」がプログラムされている。しかしネットワークが、本当に「正解」を学習しているのかどうかは誰にも判らない。
この状況は別に、そんな極端な話ではない。例えば言語の使用法や礼儀、マナーなど、人間の社会行動には「なんとなく」全体的なルールが存在しているが、「完全な正解」を持っている人は恐らく何処にも存在しない。
人は自分で学習した「正解」だけを使って社会行動を送るが、それが本当に「正解」かどうかは実は判らないのだ。あるいは全く誤りだったりすることもよくある。またその誤りから「学習する」ということを、ヒトは繰り返す。その学習の積み重ねが、個体特性としての「性格」や「人格」というものに外部的に現れるだろう。
しかしそう考えると、ここで疑問も生じる。人工頭脳としての「ニューラルネットワーク」にも、当然ながらその「個体差」というものが生まれてくるのではないだろうか。ならば当然、その個体差における「優劣」というものが、自ずから生じてくるのではないのかということである。
そして学習データをコピーしようにも、ニューラルネットワークの「学習内容」は、外部からは「判らない」のである。これでは学習データをコピー(増産)して、他の個体に受け渡すことができない。これは人間が利用する「機械」としては、大変に不具合なのではないかと思わせる。
またそのデータの「コピー」ができないから、人は「言葉」を使って、学習データのアウトプットを行うのだという意味がここから判るだろう。もし学習データをヒトからヒトへダウンロードできたら、我々には言語的コミュニケーションは不要になるかもしれないのだ。
しかし「データ」を転送するということと、「アウトプット」には実は大きな違いがある。それは「言語」における生成機能の問題となって現れてくるのである。
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