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雑断想  囲碁によせて



 テレビの某番組で、ドイツの囲碁事情というのを放送していた。実はドイツでは、囲碁が隆盛なのだそうだ。そしてそこでは「ドイツで一番有名な日本人はハトヤマ」とか言ってる。…誰?

 その疑問をよそに、囲碁が好きなドイツの小学生は「伝説の対局だよ」とか言ってる。『伝説のたいきょくぅ』? で、この「ハトヤマ」って誰かと言うと、実は現総理大臣・鳩山首相の祖父・総理大臣を務めた鳩山一郎だったのである。
 けど、何故、ドイツで囲碁でハトヤマ? 実は鳩山一郎がドイツの数学者・デュバールというヨーロッパ初の囲碁チャンピオンと、なんと「電報」で打った囲碁の対局がドイツの囲碁普及の礎となったのだという。

 この日独電報碁は52日間に及ぶ対局となり、その経緯は毎日、新聞で報道されたという。この対局の報道からドイツの囲碁人気が高まり、囲碁人口を増やしたのだという。ちなみに結果は鳩山一郎の勝利。…凄い。
 番組が教えるところでは、囲碁は元々、中国渡来のもの。しかしあくまで一部の趣味でしかなかった中国に対して、日本では徳川家康が囲碁の「プロ棋士」制度を、を秩禄を与え家元制度を作ることで成立させた。

 そして江戸城では毎年、囲碁大会が行われ、大変な盛況だったという。これを通して日本では囲碁は庶民の間にも広く普及した趣味となり、以降、アジアにおける囲碁の発信場所は日本になったということである。
 ウィキを見たところでは、信長・秀吉・家康の三人がともに囲碁の愛好者であり、この三人は「本因坊算砂」の弟子だったという。現在の囲碁の最高位である『本因坊』は、これに由来している。家康の制定した家元は、この本因坊家に加えて、井上家・安井家・林家の三家であるという。

 以前にも書いたことではるが、僕は4歳の頃から、父が僕をプロ棋士にしようとして囲碁を仕込まれてきた。それは12歳の頃まで続いたが、とにかく僕には囲碁は「辛いもの」「苦しいもの」でしかなかったのだ。
 それ以降、碁石に触れることもあまりなかったのだが、確か大学生のときの祖父の一周忌か何かの折、田舎に帰ったときに碁石を持った。祖父は碁が好きでよく祖父の義兄と打っていたが、父が「久しぶりにやってごらん」というので、なんとはなしにその祖母の兄にあたる「おいちゃん」と碁盤を囲んだのだった。

 しかし十数手打った段階で、「これはダメだ」とすぐに判った。全く勝負にならない。定石は忘れてるし、どう攻めて、どう守るというような基本的な「感覚」が完全に抜けている。小学生の頃は盤面を見ると、どちらが何目くらい勝ってるか大体判ったものだが、その「感覚」が全くなくなってることに気づいたのだ。
 「こりゃあ、ダメだよ」と僕は苦笑いして、父に代わってもらった。その対局をしばらく眺めていたが、やはり「ピンとこない」という感じだけがし、僕がずっと囲碁から遠ざかったのだということだけが判ったのだった。

 しかしなんだか、最近、自分の源流や日本文化の特質みたいなことをつらつらと考えていて、囲碁のことをふっと思い出していたのだった。そこに件の、ドイツでの囲碁普及の番組を見たのである。
 その時、そのデュバールの弟子だという初老の人物が口にした言葉に、僕ははっとなった。「碁盤を囲むことで、我々はすぐに友人になれる」。その人はそう言った。それは、全く僕の思ったことのない言葉だったのだ。

 …ああ、と思った。僕は囲碁を「楽しい」と思ったり、人と人とのコミュニケーションや、友愛の印としてそれをするという事を考えたことがなかった。そういう風に碁を見たことがなかったのだ。
 碁はいつも僕にとって真剣なものであり、義務であり、課題であり、労働であり、苦痛だった。碁を楽しんで打ったことなど一度もない。相手が強ければ負けるのも苦痛であり、相手が弱ければ勝つのも苦痛である。そういうものだった。

 ふとその後、パソコンをいじってるときに、まだ未インストールのソフト群がノートに内在してることに気がついた。ゴルフのゲームとかに混じって、その中に囲碁も入っていたのである。僕はそれをインストールしてみて、試しに一局打ってみることにしたのである。
 実に、何年ぶりの碁だったろう。最初はこわごわと、何か焦ったり緊張して、とにかくがむしゃらに石を置いた。相手はコンピューターなのだから、緊張する必要はない。楽しみで打つのだから、負けても構わない。

 けど打つごとに、段々、自分の緊張度が高まっていくのが判る。と、同時に前は思い出せなかった感覚が、少しずつ甦ってくるのが判った。こう打つと守れる、こうして攻める、こうやってつないでおくことで、可能性を残す…とか、その他色々な囲碁の「世界」。
 それは僕が以前には『把握』していたにも関わらず、今はほぼ失った世界。その世界の把握感、認識が少しではあるが甦ってくるのを感じた。ああ、碁ってこういうものだったんだな。と、以前は禁忌に触れないように、自ら距離をとり近づこうとしなかった囲碁の世界を、落ち着いて距離をとって眺める足がかりができたような気がした。

 恐らく、ずっと恐がっていたのだ。碁とともに、苦痛の思い出が甦ることを。けれどこの久しぶりの対局は、僕に武術では味わう事のなかった緊張感を味あわせた。そうか、と思った。柔道で抑え込まれたり、打撃で苦痛を受けても、碁を打つときほど緊張したことというのは、僕にはなかったのだ。
 ちなみにその時の対局は大勝だった。コンピューターのレベルが「素人相手」のレベル3設定だったのだが、そんな事も考えずにとにかく対局した結果である。後日、また打ってみたら、今度は落ち着いてコンピューターの手筋を見ることができた。

 正直に言うと、コンピューターの手筋は素人以下である。人間なら絶対に間違えないような過ちを平気で犯す。あくまで何かで聞いた話だが、将棋やチェスは盤面に駒が並んでいて、その駒の進行手順は限定されており、比較的アルゴリズムが厳密化しやすい。
 それで現在、チェスの世界チャンピオンとコンピューターの勝負が、結構いい勝負だったはずである。これに対して囲碁というのは、盤面のどこに石を置いてもよく、なかなかアルゴリズム化しにくいのだそうである。コミュを覗くと、「強いソフト知りませんか?」なんて話しが出ていた。

 無論、僕の相手もレベル6の最高にあげると、僕も簡単に負けてしまうかもしれない。けど、それはそれでいいのだ。これからの課題と楽しみが増える。現時点では、自分がいかにヘタで話になってないかだけは、よく把握してるからだ。対人なら100%負けるということが具体的によく判るのだ。
 実は僕は将棋の類は弱い。長年、碁をやっていたにも関わらず、厳密に手筋を読むというのが実は苦手なのだ。けど将棋なんかに比べると碁は、なんとなく「形勢を読む」というような曖昧な感じがつきまとう。将棋・チェスは完全に理系だが、囲碁はちょっと文系的な要素が入るというのが僕の印象なのだ。コンピューター化の難しさは、多分、ここに起因している。

 なんというか、一人で定石を勉強したり、詰め碁をやったり、棋譜を並べてみて再入門してみるのもいいかもしれない、なんて気になっている。自分でもちょっと不思議だ。長い間忌避していた、碁に対するこだわりが不意にとれた感じしている。
 これは関係ないように見えて、実は最近、江戸学ばっかりやってるというような事に起因してる。自分の原点や、日本文化の周辺に触れてみることに、ある意味を見出しているのだ。それでもうちょっとマシになったら、親父も含めて人と碁を通して語るのもいいかもしれない…なんて夢想したりしているのである。
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