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武術散策  プロ格闘技論  ⑥アントニオ猪木と長州力 七



 しかし何故、猪木はこうまでも「物語」り続けたのか。その前にもう一人の人物、長州力のことを考えてみよう。一連の図式の中で長州は少なからず重要な役目を果たす。しかしそれは、長州が「図式」を意識してのことじゃないだろう。
 そこでは猪木と長州の間に密約はない。あるのは長州の「反骨」心と、その長州を「図式」に還元し利用する猪木の才気である。では何故、長州は「反骨」し続けたのだろうか。

 一つには長州が韓国人であり、アマレスの世界でその国籍ゆえに将来を閉ざされたという過去が大きな意味を持っているだろう。それはプロレスの始祖、力道山と同じ道である。
 力道山もまた韓国人であるがゆえに力士の道を閉ざされ、プロレスに身を転じた。長州力の「力」は、明らかに力道山から受け継いだものである。力道山に関してターザン山本は「故郷喪失」という観点から論じている。

 つまり祖国や相撲といった自らの場所を失い(これは日本人の「敗戦」とつながる)、その失った故郷の喪失感を埋める先として「プロレス」が見出されたというのである。それは生まれも国籍も経歴も関係ない、何処かからのはみ出し者が集まる世界--実力だけで自らを刻印できる世界なのである。
 山本は力道山を「敗戦によって自信を失った心に、外人を倒すことで自信を取り戻した」レスラーという見解を否定する。失ったのは自信などではなく、故郷という拠りところなのだ。そしてその拠りところを失った心を埋めたのが、プロレスという「ファンタジー」なのだという。

 そのファンタジー--幻想空間のなかで、人は自己を再び見出す。「自信」ではなく「拠り所」という見解は、少なくとも敗戦を問題にするならば正鵠を射ている。「自信」とは同じ基準にたった力の差のなかで、自らの優位性の可能性を見出すことだが、「拠り所」とはその基準そのものなのだ。
 敗戦で失ったのは紛れもなく、「日本」という国家--共同体のイメージを形成していた同一性そのものなのである(無論、象徴的には天皇制の崩壊として意味づけられる)。その喪失感をファンタジーによって埋めるかどうかは少し保留する。

 ターザン山本は続けて「喪失感をもたないレスラーは大したものではない」と書く。その喪失感を持つレスラーとして山本は力道山、馬場、猪木を上げるのである。
 故郷喪失とは「自らの場所」を持たないということではなく(安易なカウセリングやドラマはこう言いたがるが)、むしろ自らのいる場所に「何もない」ことを見出すことだと思う。それは明治の知識人のように、西欧の知識を持ちつつ西欧の原理に違和感を感じ、それでいてまた自らの日本の家庭に馴染みも感じられない浮遊した心理。

 あるいはユダヤ人でありまた都市生活者であるソール・ベロウが、自らの根拠としてユダヤ教にも都市にも帰属できないだけでなく、もはや本来のユダヤ教そのものが失われていることの確認、その空漠とした心の風景であるはずなのである。
 山本は馬場をその空漠とした風景をじっと見続けていた人、そして猪木をその空漠を埋めるかのように戦い続けた人と論じる。猪木とは自らのその「何もない」場所を、「最強」という物語で埋めようとした--埋め続けようとした人物なのである。

 考えてみれば「プロレス」とは何なのか? 投げ技や締め技は柔道にもある。チョップやキックは空手にもある。拳や身体のぶつけ合いは相撲やボクシングにもある。プロレスには何でもある--が、「プロレス」にしかないものとは何だろうか? プロレスが「プロレス」として持つ核心、他とは異なる本質とは何だろう。
 猪木はスポーツ選手でもなく、プロレス以前にやっていた身体競技もない。考えてみれば力道山には相撲があった。木村政彦には柔道が、馬場には野球、坂口は柔道、長州にもアマレスがあった。しかし猪木には--猪木だけは「プロレス」しかない。

 他の選手は自らの技術ベース・身体ベースを自由に、何でも取り込める「プロレス」に持ち込める。しかし猪木は、何がその「本質」なのか判らない「プロレス」しかないのだ。猪木が戦い続けるということは、「何もない」プロレスで戦い、勝ち続けることによって「最強」の存在
として実体化するということだった。
 つまり猪木は「プロレス」をこのように定義するはずである。「ボクシングより強いもの」「空手より強いもの」「柔道より強いもの」--「~より強いもの」、その他との反射関係によってのみ定義されるプロレスの実体を、猪木は確固たる不動の重量として形成したいのだ。

 だからこそ猪木は、異種格闘技戦をいとわない。馬場のように「プロレス」というブランドの崩壊を恐れない。猪木はその「プロレス」という概念を、外部に拡張することによってしか、それを実体的に把握することができなかったのである。
 プロレスがプロレスしか持ってない「技術」によって自らを定義づけることは恐らく難しい。他の格闘技はその固有の技術体系を持ち、実体として--競技や武道として存在する。しかしプロレスには、そのような能動的定義ができるだろうか。恐らく猪木ならばこう言うはずである。「プロレスは存在しない」と。

 「プロレス」の存在については後述するとして、少なくとも猪木は他との反射関係によって--つまり「外部」を取り込むことによってのみ実現しうると考えたはずである。いつも同じメンバーで定期的な興行を打つ--猪木にとって「プロレス」とはそのようには存在できるものではなかった。
 そのような自閉性の下ではプロレスは「~より強い」という定義を失い、身内同士の喧嘩ショーにすぎなくなるからである。猪木の目は常に新しい敵を--「外部」を探す。そして新しい「図式」を提示し、それによって「最強」の物語を作る。

 猪木の視野が「世界」に開かれているのはそのためだ。猪木は常に未知のポテンシャルを求め、プロレスを「外部拡張」しようとする。自閉性を嫌うその「外部拡張」の精神こそが、『闘魂』と呼ばれるものの核心なのだ。
 猪木が「プライド」プロデューサーに専任して、興行最後に「1・2・3、ダァーッ」をやる。その時の挨拶は「元気ですかーッ」で始まる。「元気ですか」とは、そのような自閉性を抱え込んではいないか、という言葉である。

 そしてこの「元気ですか」と「ダアーッ」の間に、いろんな言葉を挟むのだが、「プライド・11」の時は「バカヤローッ」だった。つまり「元気ですかーッ」、「バカヤローッ」、「それでは皆さん御一緒に--1・2・3、ダアーッ」だったのである。
 何故「バカヤロー」なのか、何に向かって「バカヤロー」なのか、そんなことは問題じゃない。それが猪木の『闘魂』であり、この「元気ですか」の後に「バカヤロー」が来る精神を、理解しなければならない。

 それは自閉する新日、あるいは日本全体の未だ脱しきれない島国根性に対する「バカヤロー」なのだ。そして、その闘魂の原点は「外部」に
新しい敵を求める言葉は誰もが猪木のマネとしてまず思い浮かべたあの言葉である。…そう、それは「なんだ、コノヤロー」だったのである。
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