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特撮最前線  ゴジラ④  知性への批判



 『ゴジラ』という作品で最も恐ろしいのは、東京を破壊し火の海に変える「大怪獣ゴジラ」ではない。この作品で最も恐ろしいのは、それに伴って表れた人間の『知性』の本質にこそあり、それこそが作品『ゴジラ』の真のテーマだと言っても過言ではない。

 『ゴジラ』はそもそもの人物配置に、奇妙な点がある。まずゴジラ出現の調査に訪れる山根博士、その娘の恵美子、そしてその元婚約者でありゴジラを最終的に消滅させる悪魔の兵器「オキシジェンデストロイヤー」を開発していた芹沢大助。これらの人々がこの物語の主要人物なのは判る。
 だがしかしこの作品の「主演」は、山根博士でも芹沢大助でもない。恵美子の現在の恋人の尾形秀人がこの物語の「主役」なのである。しかし大学教授職をする父と元婚約者に対して、この主役の青年は一介のサルベージ会社の所員でしかない。このような不均等な人物配置は、なぜなされたのだろうか?

 その事を考える上で、まずこの作品のなかで「知性」というものがどのように描写されたかを見なければならない。まず象徴的な山根博士の登場シーンは、ゴジラ出現の大戸島調査の場面から始まる。
 ゴジラが出没した後には高濃度の放射能残存物が停滞しており、島民はその場所から避難を強いられている。山根博士はしかしその跡地で、三葉虫などの古代生物を「生きたまま」発見するのだ。

「これは凄いことだ」驚きに目を見開く山根博士に対し、ガイガーカウンターを手にする調査員が、「先生、素手では危険です」と声をかける。しかし山根博士は自らの危険など全く眼中になく、ガイガーカウンターがジージーと音をたてるなかを目を開いて調査して回るのである。
 ここで見られる山根博士の「知性」は、その目的や対象研究のためには自身の危険も省みれないほどの客観性を欠いたものになっている。つまり対象に捉われて、一部では盲目的とすら言っていい。

 この傾向はゴジラが東京に出没し、街を焼け野原にしても持ち越される。山根博士は「皆、ゴジラを殺すことしか考えとらん」と言って憤慨する。主役の尾形は、「先生は生物学者だから、ゴジラを生かしたまま捕獲したいんだ」と心情を代弁する。
 しかし街は既に、壊滅的な被害が出た後なのである。いかにゴジラの生命力が、今後の生物学に貢献を成すとしても、それを第一目的におくことのこの盲目性を、物語は鋭く描く。

 そしてもう一つは言うまでもなく、「悪魔の発明」であるオキシジェンデストロイヤーである。芹沢はこの秘密を恵美子に打ち明けた後、この自分の知性が作り出したものの恐ろしさに苦悩する。
「ああ…どうして僕はこんなものを作り出してしまったんだ!」 芹沢の孤独や苦悩は、戦争被害を受けて帰ってきたこと以上に、自らのなかにその恐怖の根源を見出したことによる苦しみがある。しかしそれが何に使われるか、どういう結果を生むかを考えることなく、目的や対象に向かって盲目的に邁進する。その「知性」のもたらした産物こそが、まさに知性の本質なのである。

 これはもちろん言うまでもなく、核兵器それ自体の恐ろしさを寓意している。その意味では水爆実験によって生まれた「ゴジラ」自体も、「知性によって生まれた怪物」なのだ。しかしことの本質はそれだけではない。むしろそれは近代化、文明化を推し進めてきた近代的知性一般に対する、根源的な批判なのである。
 近代的知性は、その理性的合理精神によって、人類社会を進歩に導くと考えられてきた。しかしその進歩の結果は、二度にわたる大戦、アウシュビッツ、ヒロシマというかつて人類が経験したこともないような悲惨と野蛮の応酬だったのである。

 この事実と向き合い、戦後には西洋近代社会を見直す作業が始まった。O・シュペングラーの『西洋の没落』がベストセラーになったのも、そういう時代的雰囲気があってのことである(西洋では第一次大戦の頃から。日本では第二次大戦以降)。
 またドイツのフランクフルト学派の二人、アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』では、西洋の近代的合理性のなかにこそ、むしろ「野蛮」の根源があることを洞察することが試みられた。またフランスの思想家M・フーコーも、近代的知性が排除と抑圧の側面と表裏一体であることを浮き彫りにした。

 作品『ゴジラ』は、日本でこれらの近代批判の書が流行する、はるか以前に作られた本格的な知性批判の作品である。そこでは近代的「知性」に伴う盲目性と、対象に捉われた情念が背後にあることを見事に看破していると言える。
 その意味で物語の主役には二人の学者ではなく、一介のサルベージ会社の所員でなければならなかった。そうでなければ、その知性の盲目性を外部から描くことはできない。

 芹沢大助は片目を戦争にやられ、ずっと眼帯をつけた姿で登場する。その知的な面立ちにアンバランスな片目を隠した威容は、この作品の恐ろしさの根源を我々に見せ付ける。その片目は自らの知性の恐ろしさを見つめたために潰れたか、あるいはそれから目を背けなければならなかったために隠されているのだ。
 芹沢大助は最後に人類の生み出した怪物ゴジラを倒すために、自ら生み出した悪魔の兵器オキシジェンデストロイヤーを使うことを決意する。そして芹沢は自らの知性の産物と共に心中することを選ぶのだ。『ゴジラ』シリーズのなかで、人間がゴジラを倒すのはこの最初の作品だけである。

 しかしこの「最後まで見届ける」芹沢の行動もまた、知性という情念に捉われた者の行動である。『ゴジラ』の有名なシーンで、向かってくるゴジラに逃げもせず、実況中継を続けるテレビマンたちの描写がある。
 「あ、こちらに向かってきます、もうダメです。皆さん、さようなら!」と言って、ゴジラに鉄塔ごと倒されるテレビマンたちは、まさに最初の山根博士同様、自らの危険性にも盲目的な「捉われた」人々である。我々は「ゴジラ」の恐ろしさ以上に、その「人間」の恐ろしさにこそ震撼するのである。

 しかしこのような最初の『ゴジラ』の透徹した知性批判の精神は、次回作の『ゴジラの逆襲』では、まるで手の平を返したかのように忘却される。
 前作で「ゴジラの保護」を祈念していたはずの山根博士は、ゴジラ撃退のための単純なアドバイザーに成り下がり、最終的には人間たちの立てた計画でゴジラは雪崩に埋められて封じ込められる。

 これは「ゴジラ」という「知性を超えた脅威」に対して、再びその「知性」でもって対抗した、ということである。これでは再度の「知性の復権」が暗示されたにすぎない。
 最初の芹沢の自らの死をかけたゴジラとの心中が、「知性の暴走」に対する自らの批判精神を伴った責任の取り方だったのに対して、これは一つの「後退」とも言える批判精神の欠落である。これ以降の『ゴジラ』シリーズには、最初の作品『ゴジラ』のような鋭い批判意識は二度と現れることはなかった。
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日々の事  叱られて満足!?



 子供返りを起こしてすっかり甘えん坊になり、最近、ちょっと厳しく叱られたロック君ですが…

 どういうわけか、散歩途中の「甘え抱っこ」がなくなった。けど帰ってきたときや、朝の甘えたがり、遊びたがりは今までと変わってない。
 …が、散歩のときの「甘え抱っこ」は、奥さんの散歩のときも、僕の散歩のときもなくなった。夕方の奥さんとの散歩のときは、多いときには三回以上もねだったことがあるというから、それがすっかりなくなったのは驚きである。

 で、やはり考えるに、どうやらこの間の「オヤツ盗み食い、ガブリンちょ事件」が効いたらしい。凄い勢いで叱られた挙句、半日のキャリー独房の刑である。こんなに厳しく叱られたのは、ロックにとっては初めてだったかもしれない。
 が、どうやらこの叱られたことが、ロックにとって『満足』だったようなのである。であるがゆえに、「甘え抱っこ」がなくなったようなのだ。

 元イエローモンキーズのボーカル、吉井和哉の自伝エッセイを本屋で立ち読みしたら、吉井が盗みを止めた時の事が書いてあった。吉井は幼い頃に父親を亡くし、母子家庭で東京から静岡に越したという。
 そこで祖母と一緒に暮らすことになるが、親のいない寂しさや周囲とのギャップなどもあり小学生のうちからグレていったという。そしてその遊ぶ金ほしさに、祖母の財布から金を盗むようになった。

 幾度も祖母の財布から金を盗んだ吉井だったが、母親の財布からは盗もうとは思わなかったという。祖母の財布からは多いときで五千円以上も盗むようになり、まず祖母も判っていたはずだが、吉井には何も言わなかった。しかし母親から盗めば、厳しく叱られるのが予想できたので、母親からは盗まなかった。
 が、ついにある時、母親の財布から500円盗んだ。やはり吉井の母はすぐに見つけて、吉井を厳しく叱責した。それ以来、吉井はピッタリと盗みをやめたという。それについて吉井は、

「叱ってほしいという気持ちがどこかにあったと思う」

 と書いている。…いや、これだけの事を話すのに、大分、長い挿話だ。つまり子供は「叱られたい」ために、わざと「悪いこと」をするときがある。
 いや、ロックは実はよくやる。ちょっと放っとくと、わざと叱られるためにテーブルの上のティッシュなんかをクチャクチャと噛んだりする。決して食べたり、飲み込んだりはしない。こちらが「コラ! ロック」と発見して叱るのを待ってるのである。

 人間の子供の乳幼児期には、子供は自分の行動領域を拡大しようとしてあちこちに動き回る。しかしそれは自分を見守っている親(おもに母親)を中心にして、その周辺を動きまわるのである。
 それも自分が少し動き回ると親の方を振り返り、親が自分を注視しているのを確認するとまた歩きまわる。そういう風に、親が「自分の安全を見ていてくれているかどうか」を確認して、安心するのである。

 ロックは今日も、ティッシュをわざと咥えて、料理をしてる奥さんに見せにいって叱られてる。叱られるのが判ってて、そうしている。いや、叱られることで「自分を見てくれているか」を確認したいのだ。奥さんは「昔の不良か!」とか言っている。
 逆に言うと、「叱られたいとき」に叱ってくれない親には、子供も落胆せざるをえない。以前に書いた千原ジュニアは、他人に危害をくわえてもその親から叱られなかった。これは実は、酒鬼薔薇事件の少年A君も、少し近い環境にある。

 叱るときは、基本的に「本人のためにならないとき」である。例えば「できないとき」に叱る、というのは「本人のため」ではない。それは親が押し付けた価値観に基づく何かを子供が実現できなかった折に、親がその感情を堪えきれずに「怒る」のが「できないとき」の叱りである。
 よその犬に吠えても叱られないような犬は、実は不幸である。うちの近所ではよく吠えるのはミニチュアダックスやシーズーなんかの小型犬が多いが、本人たちは他の犬と戦ったことがないので、自分の力量を知らない。だからこそ吠えることができる。自分の非力さも知らずに大きな犬に吠えたりしたら、あっという間にやられてしまうだろう。

 「できないとき」に叱り、「よその子に吠えても」叱らない親は、その基準が『親に負担がかかるかどうか』になっている。トイレがちゃんと「できない」ので叱る(掃除をするのは親)が、よその子に吠えても叱らない(親には負担はない)。
 同じように「甘えたいときに甘えさせない」のは、『甘えさせるとクセになる』という理屈があるが、実のところ「自分が面倒だから」あるいは「自分が甘えさせてもらえなかったから」が、本当のところである。そこにあるのは親の側の事情であり、子の事を本当に考えてるわけではない。

 子は敏感にそういう一つ一つを感じ取り、自分を「本当に見てくれているか」を気にしている。そしてそれが充分な形でないと不満を持つが、それを直接親にぶつけることはできずに、不満は鬱積する。
 その鬱積したストレスが、また他者への攻撃衝動になるのかもしれない。とりあえず「甘え抱っこ」をねだらなくなったロックは、どうやら「叱られて満足」したみたいである。ロックは今日もドライブに満足げであった。 

思索の道程  モラル・ハラスメントの個人的概観



 イルゴイエンヌの『モラル・ハラスメント』を複数回にわたって紹介してきたが、この著作に表れるモラル・ハラスメント加害者は非常に悪意的である。しかしこれは海外の著作という事もあって、日本の実情とは若干ながら離れた部分もあるように思われる。
 
 まずモラル・ハラスメント加害者は、そこまで実際的な悪意を持つケースより、悪意がない、あるいは悪意があっても自覚がないケースが多いと思われる。
 加害者は悪意があってそのように振舞うというより、「そういう関わり方しか知らない」か、「そういう関わり方しかできない」あるいは「そういう関わり方がいいと思っている」のではないかと思う。

 加害者は自己の弱さや内面それ自体を「見つめることができない」のだが、むしろ自己の弱さを「克服する」つもりで、他者に対して優越的になろうとする傾向が出るのだと思われる。
 しかし加害者の欠如感や飢餓感は、加害者が周囲から認められたり人から尊敬されたりしても満たされることはない。加害者の自己卑小感は、変わらず残っている。それはまた攻撃衝動や優越願望として、他者への態度に表れることになる。

 こういう傾向を捉えると、モラル・ハラスメントの加害者がいるというより、その加害者型の気質があると考えるほうが有益である。これは被害者型にも言える。実際の「加害/被害」の関係より、そういうパーソナリティー上の傾向としてみるということである。
 被害者気質の場合は、他者に対して対立を避けようとする態度や救済願望に特徴があると言っていい。しかしこれも実質、自信のなさや自己証明への欲求の裏返しである。

 あからさまな「加害/被害」の関係以上に、普段の日常現場でその「気質」だけなら多くの現象を目にすることができるだろう。それをどれくらい注意深く観察できるかどうかが、重要に思うのである。

日々の事  最近のロック



 この前の都大会から、どうもロックが甘えん坊になっている。この前に今まで経験させたことのない「12時間お留守番」をさせてから、どうも甘えたがりの傾向が強い。

 今まで山登りのときなど、ホントに「足が疲れた」ときに主にねだってた「抱っこ」をロックが散歩中にねだるようになった。それも奥さんと行く夕方の散歩の時は、多いときで三回もねだるらしいのである。
 朝の僕との散歩のときはそんなことはなかったのだが、数日前から帰り際にちらりとねだるようになった。

 「抱っこ」をねだるときは、意味もなくふと立ち止まり、ものほしそうな顔でじっとこちらを見る。で、おもむろに抱っこしてやると、満足げに腕のなかで辺りを見回すのである。
 抱っこの時間自体は、ほんのちょっとでいい。ちょっと抱っこされば、それで満足なのである。

 それはそれとして。今朝のことである。歯を磨いていると、突然、リビングから奥さんの声が。

「ロック! 何してるの!」
 
 普段とは違う剣幕の声色に、「なんだ?」と思って歯ブラシを咥えたまま覗いてみると、ロックが何かくちゃくちゃ噛んでいる。

「ロック、それはパパのお菓子でしょ!」

 見ると、ロックが食べてるのは茶色いケーキ状のものだ。実は昨日の薙刀の帰り、「みんな一つずつもらって」と言われ、貰って帰ったクルミ入りプチケーキなのだった。それを朝、鞄にひょいと放り込んでおいたのをロックが目ざとく見つけたらしいのだ。

「こらッ、ロック! 何を食べてるんですか!!」

 と声を荒げて怒る。口を両手で掴んで、無理やりこじ開ける。中に何か入ってないかと確かめるが、とりあえずみんな食べてしまったらしく何も入っていない。
 実は人間にはよくても、犬には毒になる食べ物が幾つかある。チョコレートや、ネギ、ぶどうなんかが身体に悪いらしいのだ。また人間の食べ物では塩分が多すぎだったりするのである。だから基本的にロックには、ロック用のゴハン以外のものは滅多にやらない。その分、ロック用のお菓子類が豊富にある。

 そうでなくても道に落ちてるスナック菓子などを拾って食べようとすると、僕は「コラッ」と声を上げてロックを怒り、口を開けさせて飲み込む前に取り出す。道に落ちてるとはいえ、誰かが除草剤をまいた後だったりすると危険なので、とにかく食べさせない。
 基本的には拾い食い、盗み食いは厳禁である。しかし僕のオヤツがよほど美味しそうだったらしく、ついつい盗み食いしてしまったという事なのだった。

「ロック、反省してるんですか!」

 と、マズルを(口を外側から)掴んで厳しく詰問すると、ちょっと僕の剣幕に驚いたらしい。ロックは激しく腕の中で暴れまわる。それを抑えようとして、さらに口を掴もうとすると、ついに僕の指をガブリ、と噛んでしまった! 痛い!

「コラ、ロックッッ!!」

 ロックも「ヤバいっ」という顔になるがもう遅い。

「ロック、なに噛んでるんですかっ! 噛んじゃだめでしょ!!」

 今度はちょっとおしおき気味に、きっちり強めに口を掴んで頭をペシンと叩く。あんまり強くは叩かないが、目を正面から真っ直ぐ見据える。これが大事である。と、ふと気付くと、ロックの頬がなんだか赤くなっている。よく見ると、僕の指から血が出ているのだ。それがロックの頬についたのだった。
 噛まれて血が出たりするのは実は初めてである。ロックもビックリしたかもしれない。けど噛み癖をつけちゃいけないので厳しく怒り、そのままキャリーのなかに入れた。小さいキャリーをロックは嫌いで、以前にはほとんど「おしおき部屋」になっていた。

 それから奥さんも仕事の日なので、一緒に家を出る。奥さんが「キャリーから出して、ケージに移す?」と聞くので、「いや、今日はあのまま」と言って二人で揃って家を出た。自転車を二人並べて走りながら、「ロックのほっぺたに血がついてるから、帰ったら洗ってあげて」と奥さんに言い渡す。
 しかし参ったのは、こちらの方である。キャリーに半日も入れたことは今までにない。そうでなくても最近、子供返りしたみたいに甘えん坊だったのに、半日もキャリーに入れられて放っておかれたらまたショックなんじゃないだろうか? とか考えが浮かんでくる。

 そうなるともう、いてもたってもいられない。仕事してるときもなんだか気になるし、いつもみたいに「ただいま~」とか言って帰ってきたときに、ロックは元気にシッポを振って「大歓迎お出迎え」をしてくれるだろうか? いや、すっかり落ち込んで、僕のことを「嫌い」とか「恐い」とか思ってたらどうしよう。
 なんだか、ちらちらこっちを見るけど近付いてこようとはしないロック…なんて事になったら…ああ! 僕はどうしたらいいんだ! そんな事を考えると、またいても立ってもいられない。午前の仕事終えたら一度家に帰って、ロックをキャリーから出してやろうか…とか、あらぬ事を考え出す。

 結局、もやもやとしながらも何もせずにいつも通り帰宅。怒ったのの代わりに、オモチャでも買って帰ろうか、などと考えたりするけど「いや、そんなのは返ってよくない」と思いなおし止める。
 で、我が家に返って来ると…。「ただいま~」と玄関を開けると、ロックはシッポをちぎれんばかりに振ってお出迎え。「ロックぅ~、ただいまぁ~」、とロックと愛の抱擁を交わした。ロックは僕の口をペロペロと嘗め回す。ディープキスである。

 それからたっぷり遊んでやって、DVDを借りにいく。ロックも夜のドライブがすっかり好きだ。それから特別に、ちょっとだけ夜の散歩に行く。ロックもちょっと満足したみたいだ。よかった、嫌われてなくて。

 甘えたいときには、甘えさせてやる。スキンシップを沢山して、いっぱい遊んで、一緒になるべく走ってやる。その代わり、いけない事をしたときは厳しく怒る。よその子に吠えたり、拾い食いをしたり、ちょっとでも噛んだりしたらキチンと怒る。それがうちの方針である。
 甘えたいときに「クセになるから」とか言って甘えさせず、よその犬に吠えても大して怒らない…そういう飼い主のほうがどうも多いようである。人も同じであるが、それではどうかな? とか思うのである。

武道随感  薙刀初心者講習



 実はGW中は告知を出しての薙刀初心者講習会だったらしい。僕はそれより早い、中途半端な時期に入ったらしく、僕も一応「初心者講習を受けるという形に」するということである。一応受講が終わると、受講証明書がもらえるそうだ。

 で、今年は結構、初心者講習を受ける人が例年になく多いらしい。僕の言ってる火曜日に二人、他の曜日に三人で、僕を入れると計6人になるようである。
 初回の講習の日は群馬に行っていたので、僕は今日が初日。他の二人と初めて顔合わせする。一人は高校三年間の間、薙刀をやっていた経験者の女性。15年ぶりの復帰だそうである。もう一人は30代中盤の男性で、細身で顎髭なんか生やしてる。ちょっと目つきがよくない。

 この男性と少し話しをしたのだが、少林流の空手と、それから古流柔術の経験者だそうである。しかし柔術の方は先生が大学教授だったとかで忙しく、ろくに稽古にならなかったそうである。
 僕もまあ、何かと色々やってきているので少しそんな話もしたのだが、…どうも合わない。こんなこといきなり書いていいものかどうかとも思うが、どうも合わない感じを受けた。

 一番合わなさを感じたのは、その人の薙刀に対する学び方、態度に熱意が感じられないことだ。それまでの武術(特に空手の棒術)と比較しながら、ただ言われるがままに順を追ってるだけ。Kさんがより次のことを教えようとしても、「いや、ちょっと覚えきれないんで…」とか言って、教わるのを断ってる。
 教えてもらいたくても教われない時代があったというのに、教えようという相手に対して「結構です」とは何事だ。自分のペースで学習したいのかもしれないが、まず身体に通して、後から復習すればいいだけのことである。そもそもの熱意が、土台感じられない。

 もっとも気になるのは、「時間が空いてるのに素振りもしない」というその態度である。言われたことをやったら、後は手持ち無沙汰にボーッとしている。どんな武術だってそうだが、一人でやる素振り等の基本練習以上に重要なものなんてない。薙刀みたいなものになると家で振れないので、僕は練習時間の半分くらい使うつもりで素振りをしてる。
 他の武術の知識をもっていたり、比較をするのは構わない。しかしその「知識を持っている」ことを、「練習時間」と置き換えては、全く意味がない。その場合の武術知識は、練習しないにも関わらず自意識を育てるためだけの、方便になりかねない。

 しかしさらに気付いたのは、この男性が明らかに僕より、「正しい形」をKさんから教わってない、ということである。僕が一日目を終えたときには、もっと多くの事を習っていたし、より深い武道の精神性に触れることすら習っていた。
 しかしこの男性と合わせて型をやると、単に手順を習ってるだけで、全然「武道的な」ことの注意を受けてないのが判る。僕は「そういうことか…」と思った。

 薙刀は競技人口が少なく、特に男性の入門者は歓迎される。しかしそれでも、本人の熱意がなければ、教える側の熱意も削がれるのだ。それは比例して、表れるものである。僕は「これ以上教えるとあんまり早すぎるから、まだとっときましょう」とか冗談で笑われるくらい、Kさんから一気に教わった。
 いや、この男性も悪気はないんだろうけど…どうなんだろう? 結局、自分にとって損なだけである。それに、どれだけ色んな事を知っていたとしても、虚心坦懐に新たなものに向かい合い、発見する姿勢を持たなければ、素晴らしいポテンシャルのものも全くムダになろうというものだ。ようは自分の『学ぶ姿勢』である。

 この人が来週来るかどうか、またこれから薙刀をやるのかどうかは判らないが、別に興味はないので構わない。僕はそれより、初心者講習のためのパンフに書いてあった言葉にひどく感動した。

『最も大切なことは、なぎなたの本筋はこのような外見だけでなく、武道としての心のありようを、どのように受け継ぎ、次世代に繋いでいくかにあると思う。なぎなたが、今日まで連綿と伝えられてきたのは、表現する形とともに、そこに内在する精神が、老若を問わず、多くの人を魅了してきたからに他ならない。つまり、なぎなたの「術」から「道」への変化である。
 「道」を語るには、まだまだ未熟ではあるが、私自身がなぎなたを通して、自然と身に備わっていければと願っているのは、仁、義、礼の徳であり、和、淑、凛の心構えである。あらゆる人との関わりの中に自己の存在があり、それ故に他人を愛し、いつくしむことが「仁」。正義を重んじ、正しいことを正しいと言いきれる信念が「義」。相手を尊び、互いに認め合うところに、「礼」がある。
 そこに自らの慎みを加えることで「和」の心が実現され、なぎなたの修行を通して得られる「淑」は、うちに秘めた毅然さを大切にすることで、内面からおのずと香る品位である。そして「凛」は、そとに礼儀正しく、うちに徳正しくあれば、凛とした心からは凛とした姿が表れ、凛とした姿には凛とした心が宿るのである。このような高邁な境地には、一生をかけても到達するのが難しい』(全日本なぎなた連盟理事長 河盛敬子)

 「武術」から「武道」に移った僕には、ひどくズンと響いた言葉だ。こういう言葉は「形だけ」ではなく、薙刀の「実感」がこもっている。…なるほど、と思う。内面からおのずと香る品位…いや、実際、高段者の方々はなんとなく漂わせているものだ。「淑」も「凛」もだけど。
 僕もそういう境地を求めて歩みたい。と、目線だけは上に向ける初心者である。


 

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