忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

思索の道程  戦争ゲーム



 今日の東京新聞、多摩版の面に『八王子・サバイバルゲーム場中止』という記事が載っている。以前から付近住民と問題になっていた、住宅地でのサバイバルゲーム場建設計画が中止になったという記事だ。

 ちなみに実はこの問題、少しだけ僕も関わっている。薙刀に行った初日のことだが、そこで道場のご婦人に建設反対の署名を求められたのだ。ご婦人の話を聞くと、辺りは野鳥の住むような森林地帯で、付近住民の散歩や、幼稚園児の通学路になっているような場所だという。
 奥さんが「それは恐いですよね」とか言いながら署名するのを見て、僕もいいかと思い署名した。その後、ネットや新聞などでこのニュースが何回か取り上げられるの見て、「結構、大きな問題になってるな」と思ったのだった。

 で、その具体的な場所を見ると、驚いたことに僕の会社からほんの少し行ったところである。おいおい、住宅地とは聞いてたけど、本当にそうじゃないか。よくこんな場所に、こんな計画をたてたものだと感心する。
 しかしそこに建設計画が上がるくらいなのだから、サバゲーマニアというのは意外にシェアがあるのだろう。しかし通常、サバイバルゲーム場というのは山の中にあるらしい。今回の計画が中止に追い込まれたことによって、後続の建設計画は住宅地から遠ざかる傾向になることだろう。

 これは結構、微妙な問題だが、サバゲー計画に反対していた付近住民の主張は「子供たちに『人殺しゲーム』を見せたくない」「弾が飛んでくるかもしれず危険」「野鳥が音や気配に驚いていなくなる」などの言い分である。
 しかし考えて見れば武術や武道はどうだろうか? ぶっちゃけて言うとサバゲーマニアがエアガン持ってるより、武術家が木刀持ってるほうがはるかに『危険』である。それに武術や武道もまた「戦争」から生まれた、『戦闘シュミレーション』と言えないだろうか?

 薙刀をやってる人がサバゲーに反対する、というのはそういうレベルで考えれば『単に趣味の違い』と言えるかもしれない。そうすると「他人の趣味が自分の趣味に合わないからと言って、それを抑圧する権利があるのか」という、問題が発生するだろう。
 今回は計画者側が「園児が通う道とは知らなかった」という理由で建設計画を取りやめた。ちょっと引用してみる。

「一方、サバイバルゲームについて鈴木社長は『テレビ番組やゲームでも同じようなものがある。サバイバルゲームだけが問題視されるのは悲しい』と、健全なスポーツだと強調。これに対して篠原会長は『プライドを持って事業を続ける姿勢は素晴らしい』と評価しつつも、ゲームへの論評は避け、最後まで認識の違いがあることをにじませた」

 単純に言って反対者側は、「ザバイバルゲーム」それ自体を基本的には容認していないのだ。なくなるのなら、なくなった方がいい、ぐらいの感覚だろう。反対者は単純に「暴力的なものには反対」という『感覚』でものを言ってるのかもしれない。
 その事の問題を考えるために、もう一つ別のニュースを取り上げ見よう。昨日のニュースで「『イラク戦争ゲーム』に非難殺到」という記事があった。こちらはコンピューターゲームの話である。

 これは米のゲーム会社が開発した市街戦シュミレーションゲームで、実際の日記や写真の提供を受けてゲーム内でも米兵の生々しい証言などが挿入されていたらしい。
 これをコナミが『ドキュメンタリー』という新ジャンルゲームとして一般商品化しようとしたところ、大きな議論を巻き起こし、非難の大きさも考慮してコナミは販売中止を決定したというのが事態の流れだ。

 問題だったのはこのゲームの元であり、そしてゲーム名にもなったのが、2004年の『ファルージャの六日間』と呼ばれる相当数の市民を殺害した悲惨な市街戦だったことである。テロリストと市民の区別なく『無差別攻撃』をした市街戦を、「ゲーム」として疑似体験することの問題性に非難が及んだということなのである。少し新聞記事を引用してみよう。

「ファルージャの六日間とは、開戦から約一年後、米側民間警備兵が武装住民に殺され、見せしめるようにつり上げられた事件後の市街戦。米国人にとっては最も衝撃的で悪夢を連想させる事件だった。
 ただ、その発端は米軍が誤って住民に発砲、さらに仲介に入った穏健派の宗教勢力にまで攻撃を仕掛け、住民の憎悪を招いたことにある。六日間で数百人の住民が犠牲になり、その半数は女性と子供だった。ゲームは最悪の悲劇に触れ、無神経でセンセーショナルなものだった」

 僕が思うのはゲーム開発者には、イラクの女性や子供が何百人も死ぬことより、「アメリカ兵が敵に攻撃を受ける」ことの方が問題だったのだろうという感性があることが想像できることである。何百人も何の罪もない女性や子供が死んだ市街戦を、『ゲーム』にして疑似体験しようという感覚は、ある種の「鈍感さ」がないとできない。
 
 そもそも僕は『軍事』というものと、『武術・武道』とを全く異なるものとして考えている。『軍事』とは基本的に、「人の生命を問題にしない」態度である。以前にも書いたが、軍事において人の生命を奪うことは『目的』ですらなく、単なる『手段』にすぎない。
 その訓練法は「敵を人間と思わないこと」「人影に反応したら、考えるより先にトリガーを引くこと」を反射レベルで身につけさせる強化反復法である。そこに『命』と『人』を凝視する過程はない。

 これに対し武術とは、基本的に『命』を凝視するものである。戦いにあって相手の命と、自分の命の双方を凝視し、そこにある形を徹底的に見つめること。そして武道とは、そのようなやりとりの中で、真に己の命と魂を見つめ返す道程だと僕は考えている。
 そして武術にしろ武道にしろ、それには『実行性』がある。つまり修行者は実際に「人を殺せる技」を身につけるのだ。その危険性はサバゲーやCGゲームの比じゃない。しかしそこには少なくとも、命に向き合う『真剣さ』がある。

 それに対して戦争ゲームというのは、そもそも敵と市民も区別せず、また人殺しが「手段」としてしか存在しないような軍事行動の、さらに模擬的な疑似体験なのである。
 ゲーマーからすれば、それが「真剣なもの」でなく「遊び」だからこそ、『安全』だというかもしれない。しかし人の命に関わるようなことに「遊び」で取り組むことが、そもそも『不遜』ではないのか?

 「武道がよくて戦争ゲームはダメ」というような境界線があるとしたら、それはその「真剣/不遜」のなかにしかないだろう。サバゲーに「真剣に取り組んでいる」という人がいるなら、自衛隊の臨時隊員訓練でも受けたらいい。その方がよほど真剣だ。
 もっとも、その境界線だってあくまで個々人に任意な境界線である。同僚のパチスロ男みたいに「武術家なんて野蛮だ」という人にとっては、武術もサバゲーも「暴力的なもの」とひとくくりかもしれない(とは言っても、パチスロ男は格闘アクションは見ないくせに、ガンアクションの映画が好きだ)。

 とは言うものの、人には疑似体験への欲望もあるので、『ファルージャの六日間』はともかく、サバイバルゲームに関しては僕はそこまで否定的ではない。場合によっては僕もやる機会があるかもしれないし、少なくともそれを好きな人がいても非難はしない。
 ただやるからには、それが「本当の軍人」になるわけでもなく、また真に「戦う」ことを学ぶこととも違う、ある種の『不遜さ』を内包していることには自覚的であるべきだと思う。住民たちは武道場ができても反対運動なんかしないことを、よく考えるべきだろう。

PR

武道随感   手の内 覚え書き



 休み前で仕事量が多く、疲れて帰ってきたのに薙刀へ。奥さんが大会前で燃えているのでいたしかたない。けど薙刀を振ると、なんだか疲れが飛ぶので不思議だ。

 別に今日に始まったことじゃないんだけど、『手の内』についてよく注意される。僕に特に難しいのは、「左手を上から握る」こと。

 剣道をやったことある人なら知ってるが、竹刀というのは「上から」握る。左手一本でまず構えて、そこに右手をそっと親指と人差し指が「V」字型になるように、上から持つとか教わるのが普通だ。
 この「上から」を、薙刀の場合は左手でもやる。…というか厳密にいうと、前の手、奥の手、どっちの手もそうなのだ。しかし特に八相にか構えてからの面打ちや、脇構えからの胴打ちなどのときに、「左手が上になってない」ことがしばしばである。どうしても「横から」持っていて、右手ほど「上から」に握りができてないのだ。それに「胴打ち」のときも、「握りは上から」というのも興味深い。

 それに加えて言えば、どうもついつい強く握りこんでいて、手の中で薙刀を自在に滑らすことができない。相手が面を打ってくる…と、それを一歩下がりながら、手の内で薙刀を滑らせて先を短く持ち、相手の面打ちを中心でふっと受け止める。
 この短く持ち直す動作を薙刀を『繰り込んで』と習うのだが、これが難しい。剣では両手で柄を持ったら、後はそれを握りなおしたり持ち場所を変えたりすることはほとんどない。

 しかし薙刀では、『手の内』で自在に薙刀を持ち替えなければいけない。そしてどういう風に持ち替えても、手幅は一定なのであり、その無意識化が徹底して必要である。
 そもそも右半身から左半身になるだけでも難しいのに、さらに手の内で薙刀を繰り込み、あまつさえ鎬(しのぎ)で受けるだけでなく、柄部の方でも受ける…みたいなことを皆、普通にやっている。いや、冷静に見ると明らかに普通ではない。かなりの高等技術だ。

 非常に驚いたのは『掌(たなごころ)』について習ったときである。薙刀を持ったときに、人差し指側で持っていると、手の平の手首付近側に隙間ができる。そうすると、「たなごころを空けないようにね」とか注意されるのである。
 これが小指側をちゃんと締めてると、「たなごころが空かない」。それは手の内に現れる、『心』の隙である。そうか「掌心」ってそういう意味か~。「手の内」ってそういうことか~、と、まるきり素人まるだしで感心することしきりである。全く、何の研究をしてたのやら。

 また難しい技に、刃部の「反り」を使う業がある。鎬(刃の側面部)で、相手の刃を受ける。と、次に体動作を加えながら(具体的には一歩引きながら)、後ろの手で薙刀をすっと横にかえしながら、相手の薙刀を横に崩す。
 この時に刃の「反り」を利用して、相手の薙刀を最小限の力と動きで崩すのである。いや、理屈はこうだが、やってみるとできやしない。しかし上手い人にされると、薙刀がひゅんと落とされるから不思議だ。

 この刃の反りを使って相手の薙刀を『巻き落とす』とき、自分の手が丸くなってはいけない。…いや、簡単に言えば薙刀を回転させるのだから、それに合わせて手も丸くなるような気がする。しかし、それは「猫の手」と言ってダメ出しの対象なのだ。
 こういう刃の「反り」まで使うような理合は、通常、直線構造の竹刀だけ使う剣道ではなかなか学ぶことはできない。木剣を使った古流に類する型稽古のなかでしか、その理合を学ぶことはないだろう。…しかし薙刀では、皆が「基礎」として学ぶ。

 やっているのは年配のご婦人方である。そういう方々が実に優雅にこのような手の内を造作もなくこなしている。いや、実に素晴らしい。僕は実のところ今更ながらではあるが、薙刀にきて初めて「手の内」とか、「刃」「鎬」「斬る」「たなごころ」等の剣術用語を具体的に理解した。
 全く、今まで何をやっていたのかと呆れるばかりだが、まあ良しとする。とにかく別に今は焦ってないし、慌ててもいないのだから。

 

思索の道程  思考の呪縛

ちょっと前のことだが、とある某所でこんなことがあった。「差別はクソ野郎です」と書いておきながらその直後に、「日本でおきてるレイプ事件は、大半が在日の起こした事件」とか書く人にでくわしたのである。
 …いや、それが「差別発言でしょ?」という話なのだが、本人にはその意識がないわけである。つまり実際に差別をしてる人は、本人にはその意識がないのだという事を目の当たりにして衝撃を覚えた出来事だった。

 「差別」というのは恐らくその人たちの中では、「言われもなく他人を非難すること」であり、逆を言えば「いわれがあるなら攻撃は正当なもの」と考えてるようなのである。
 で、当の本人が「これは事実であり、データを出せないのが残念だけど…」とか言うので、かわりに警視庁統計を出して見せてやった。無論、そんな事実はない。恐らく「先進国のなかでは、韓国はレイプ率が高い」というようなことから敷衍して出てきた流言だと思うが、実際には事実確認もせずに他者を貶める発言を繰り返していたわけである。

 「そうされるだけの事を、その人たちはしたんでしょ?」 …これはユダヤ人の迫害のことを知ったときに言った、あるドイツの少女の言葉である。周囲が「事実無根でも」攻撃しているうちに、攻撃は正当なものだと前提するようになる。これが差別である。
 ここのところ実は、とある(こればっかり)精神医療系コミュで「カルト」に関する議論が上がっていた。『自殺者の7割が、抗うつ剤を飲んでいた』という新聞記事が取り上げられ、それに基づいてトピが上がっていたのである。

 これに対して「精神医療全般を否定しようとするカルトの書き込みだ!」という意見があがった。それを唱えること自体をカルトと決め付けていいのかも疑問ではあるが、その書き込みならびに肯定者が「カルト」だったのかも真偽は判らない。
 が、それはともかくとして、考慮に値するデータを提出して議論がなされるなら、それはそれで意味があることだと思う。例えばつい最近まで、てんかん治療に脳の一部を切除手術するというような治療をしていた時代もあり、『現在の治療法が必ずしも最善で、誤りのないものであるとは限らない』可能性はいつだってあるからだ。

 その意味で重要なのは「議論に開かれた場」であるというのが僕の立場なであり、重要なのは「それを検証する可能性」に意識が開かれているということだと僕は考えている。しかし、そんな意向は脇にやられ、互いの陣営の罵倒の応酬ということにトピは終始し、結局、管理人がこのトピを封鎖するという経緯に落ち着いた。
 抗うつ剤に関して言えば、攻撃衝動や自殺衝動が突然高まるような副作用があることは既に知られており、その批判者が述べるほどそれは『隠された真実』などではない。また適切に服用すれば症状が改善する効果があることは間違いないので、全否定はちょっと行きすぎだと思われる。ただし僕は奥さんの経験を通して向精神薬の副作用の恐さを体感しているので、その使用に細心の注意が必要だとは思うのである。

 しかし『隠された真実』を唱える側には、「自分は『真実』を知っている」という自負があるので、なかなかそこから思考が先に進まない傾向がある。最初にあげた「差別発言くん」も、「自分は事実を知っている」という自負心がたっぷりだった。最近の右傾言説の支持者にはこの傾向が非常に強い。
 例えば戦争責任に関する数字上の誤謬だとか、事前に取り交わされた条約、その後の補償の経緯。あるいは在日の人達の経済活動状況だとか、その犯罪発生率、本国での「非人道的な事件」などである。彼らは実に『事実』に詳しい。

 しかしその知っている『事実』の大半は、多くが正規の学問を積んだものではなく、「隠された真実」を浮き彫りにするという手合いの資料作成に基づいて得られた知識である。それは元の資料にあたらずして、「多くは言及されないが…」とか「都合が悪くて隠されているが…」等の枕言葉を冠にした言辞をそのまま飲み込んでいるということである。
 実はこの『隠された真実を伝える』という方法は、カルトではもっとも基本的な言説技術である。例えばオウムの元信者たちは、「常識や世の中の『洗脳』から抜け出す」ためにオウムに入っていたのである。そしてそこで「自分は騙されていた」という『真実』に出会うのである。

 「あなたは騙されている」という言葉ほど、人を騙しやすい言葉はない。「騙されていたところから目覚めた」という確信ほど、人の自己肯定感を強化するものはない。そしてこれはパラドックスを生む。「騙されていたという真実を知った」という言葉に『今』騙されている人に、「あなたは騙されている」と告げてもなかなかそれは受容されない。相手はもう「自分は真実を知っている」と確信しているからだ。
 「相手はカルトだ」と攻撃する側も、「抗うつ剤は毒だ」と反撃する側も、どちらも「自分は真実を知っている」という前提にたっている。そしてこの争いは、健全な議論にはならなかった。なぜならその両者が、「自分は騙されていた」という地点から目覚めていて、「相手はまだその地点にいる」と考え、無前提に自己を肯定できると考えているからである。

 では、こういう不毛な論争から身を引き離すために、そういう「社会的言説」の次元には一切乗らない、という立場を決める人もいる。こういう「社会的言説」を受容することはどうであれ、「思考の呪縛」であり、その呪縛から逃れるために自分は「個人」の経験からのみ物事を判断するという方法である。
 これは部分的には悪くない方法である。少なくとも「過熱」や「耽溺」からは、身を守れるかもしれない。しかし実はそこではその「個人の立場」という『考え』もまた、社会的に形成された言説であるという観点が抜け落ちているし、またその根拠となる「自己」もまた社会的な影響を受けた形成物であるという考えが抜けている。

 ラカン派の心理治療においては、「患者(分析主体という言い方を本当はするが)の言い分を、そのままに受け取ってはいけない」という考え方がある。患者は実はその「症状」から、『代理満足』と呼ばれるある種の満足感を得ているという前提がそこにある。
 その意味では、患者は実は「症状」それ自体を根絶したいとは『無意識下』では願っていない。治療に来るのは、症状それ自体を完治したいというより、「今までの方法がうまくいかなくなった」ことを、医者に改善してほしいと願うからである。

 しかし実は「治療」とは、患者本人が「自己」に徹底的に向き合うということを意味している。つまりそれは自己について考えるということである。しかし実は患者の方では、「自分では考えることなく」自分を医者に預けることによって、事態を改善したいと考えている。
 患者はそれで折りあるごとに「合理的な理由で」面接をキャンセルしようとしたりする。しかしそれは常に「後から付加された理由」であり、実際は患者が「自己について考える」ことから逃れるための防衛反応に他ならない。実は「思考停止」こそ患者の望むものである、とそこでは指摘されている。

 「思考停止」がある種の、「思考の呪縛」であることは言うまでもない。それは無意識の自己防衛機制の虜であるということである。「社会的次元」を捨てて、「個人」の次元だけを考えるという立場も(あるいはその逆であったとしても)、そこに「思考停止」の領域が意識的に構成されるのであればそれは「自己防衛」に他ならない。
 無論、人には興味や関心もあり、全ての事柄を一人の思考が受け持つのは到底無理である。だから「思考停止」は、それが意識的な場合にのみ言えることである。つまり「考えないようにしている」というものだ。これは「曖昧」を越えた、はっきりとした態度なのである。

 武術において「個人」の次元だけを考える、という人がいた。その思想では明確に、それ以上の次元を「考えない」として、明確な思想として打ち出していたのである。その明確な思考停止は、「考えていては実戦では間に合わない」という事で正当化され、それ以上「誰が、何のために、誰に対して武術を使うのか?」という自問を不問にすることに成功した。
 結果だけいえば、その武術では『自分』を襲ってきた相手を、「考えることなく」殺傷する、という立場が理想であることになる。『誰か』のために武術を使う契機や、敵となる『他者』とどう向かい合うかということは、その次元には含まれてない。そこは「考えなくてもいい」とされたからである。

 どういう次元であれ、「思考停止」は自己防衛であり、無前提な自己正当化につながりやすい。「真実を知っている」という事は言い換えれば、「それ以上、考える必要はない」という事と裏腹である。ここで得られる自己肯定感が強力で魅力的だとしても、それは「思考の呪縛」であると言わざるをえない。
 しかしこの「思考の呪縛」を逃れる術、を考えるとまた途方もない感覚に襲われる。それを逃れることは常に「自身に懐疑(再考)の視線を向けること」となるか。あるいはだが、この「思考の呪縛から逃れたい」という欲望それ自体もまた、「呪縛」そのものに他ならないのではないか?

 しかし僕にはそういう思考の隘路(あるいは迷路)に落ちることよりも、「自己防衛」によって得られた自己肯定感が、『他者』への関わり方やその認識を向上させないということのほうが問題だという感じを受ける。その他者意識の感覚は、自分の日常に直接にはねかえってくるからだ。
 けどとりとめもなく、つらつらと書いてきて、結局、僕が何一つとしてよく「知らない」ことだけはいつもよく判る。次々と疑問と好奇心がわいてきて、あちらこちらに手を出しては、また次の疑問に惹かれていく。どの領域でも、いつでも僕は「初心者」みたいなものだ。

 …正直に言うと、『世界』が広すぎて手に負えない。『人間』が謎すぎて理解できない。腹が立ったり喜んだりしながら、それでも考えることを止められないその「考え」の意味が判らなくてまた考え込む。…そんなことがしょっちゅうだ。
 いや、思考停止もたまにはするよ。大事なところでは誤魔化したくないけど。大体、お酒飲んだだけで、僕の思考なんて日記も書けないくらいあやふやなものになる。「思考」とか肩肘張ったって、所詮、化学物質には勝てやしないのさ。これは初めてお酒を飲んだ16の時に、鏡を見て真っ赤になった自分を見てそう思ったんだ。

 そんな誰も彼もが間違えないように生きてくなんて無理だよね。けどせめて『他者』に優しい社会であるように、『自分』を幸せにできるように。…と、僕は考える。 

作品を読む  『オールライダー対大ショッカー』によせて

というわけで、大分、遅いのだが『オールライダー対大ショッカー』を観た。『超特撮論』で展開していた議論であるが、やはりこの作品には「おやっさん」も「首領」も出てこなかった。つまり『超自我』が出てこなかった、という話である。

 振り返ってみれば「平成ライダー」というのは、どれも「おやっさん」も「首領」も持たない物語であった。そこには「超自我」が入る余地がなかったのである。つまり主人公は「個人的な動機」で戦っていたし、敵の側も全くの「利己目的」で他者を害する。
 いいか悪いかは別問題として、過去においてはテロの側にすら「超自我」が存在した。つまりある種の「理想」があったわけである。その「理想」がある時点で、それが仮に手段として誤った選択であったとしても、その「正義」に間違いがあったことを自認しえたなら、そこから改善する余地というのはあったわけである。

 しかしその「理想」=「超自我」にあたるものがない、というのは『正義』や『公正』『倫理』という社会的な判断次元がそこに入れられないということだ。結果的にそこでは「自我」の原理だけで行動する主人公がそこにいる。だから彼らはよく「仲間のため」を口にする。
 しかしそれが「仲間にため」であるのなら、それは「敵の組織」も同じ原理なのだ。ここでは敵と味方の間に、「質的な差異」はない。つまりそこでは「自我」と「自我」がぶつかりあっているだけで、それは単に『利害が対立する陣営』であるというにすぎない。

 これは「自国のエゴイズム」のために派兵するアメリカと、「職業としてのテロリズム」の繰り返す反米勢力との不毛な争いが、奇妙なリアリティで映し出されている。そのどちらにも「正義」はない。どちらも「自集団の利益」のために他者を抑圧し、攻撃し、危害を加える。正直にいうと、世界大戦当時のアメリカはまだ「誇り」という芯があっただけマシだった。
 昨今、「自国のため」であれば、その成したことが正当化されうるという不思議な言説が右系言論を中心に素朴に受容されてるフシがある。「自国のために戦ったのだから仕方ない」「自国が侵略されないためには当然の措置」等。簡単にいえばそれは「自分の利益を求める行為は、必然的に容認されるべきである」という原理だ。

 しかしはっきり言っておきたいのだが、「自分が属する集団のためには、他者を害しても構わない」というのは明確な『悪の論理』である。それが「正義」と認められるなら、利用者を偽る食品会社の手段も、自集団のために手段を選ばないカルト教団の行為も全て「正義」となるはずだ。
 それらは結局、「内部」の価値観しか有していない。その集団が『外部』から判断されたとき、どういう判断が下されるかを度外視しているのだ。簡単に言って、東南アジアの人達の意向を無視することは、オウムのやったことをオウムの立場から認めてやる、ということとイコールなのである。それを認めるなら、「会社の利益のために」食品偽装をした企業を弾圧する権利はない。

 つまり「超自我」の原理とは、単に「超個人」の原理なのではない。ただ『個人』という位相を越えた、大きな「国」という単位に依拠すれば、それが即ち「正義」となるわけではない。そこに『他者』という「外部」の視線がなければ、それは全く「悪」の思想であるかもしれないのである。
 いつも思うのだが、『ドラゴンボール』では、結果的にであれ、その戦いは『世界を救うため』になされていた。しかし『ワンピース』での行動理由は、「仲間のため」「兄弟を救うため」と全く個人的な動機であり、しかも本人達は「海賊」という言ってみれば犯罪者なのである。

 簡単に言ってルフィたちは、単に「自分が知り合って、感情移入した相手」に加担するだけであって、根本的な動機は「個人的」である。場合によってはこの偶然知り合った集団が、言われもない他種族の差別等をしていたとしても一向彼らは構わないだろう。このような「個人的な動機」は、「平成ライダー」にも見られる特徴である。
 そもそも『クウガ』などは、「悪の組織は関東ローカルなのか?」と思われるくらい、事件は東京近辺にのみ集中していた。クウガが守ったのは「東京の住人」の平和であって、「世界」の平和ではない。このローカリティは、その後の「平成ライダー」でも疑問の余地なく引き継がれている。

 しかしそもそもの『仮面ライダー』では、ショッカーは熊本などの日本各地に現れるだけでなく、ヨーロッパや南米等の世界各地に現れる脅威だった。その世界規模で展開される「悪」に対して戦っていたのが、「仮面ライダー」だったのである。
 しかし『ディケイド』では、「仮面ライダーの世界」という形で、「日本の国外」は巧妙に抹消される。そこには「自身の属する領域=世界」という、狭い視野によって形成された世界観が生じる。これはいわゆる「セカイ系」と同質のものである。

 「セカイ系」とはつまり、「主観世界=客観世界の全体」という混同図式に他ならない。これを見事ともいえる形で表現したのが『電王』だった。『電王』では、「個人の記憶」が何故か「客観的な過去の時間」とイコール視されている。これが最後まで、理解不能な図式だった。
 しかし世間ではこの奇妙きわまりない論理が「判りやすい」として受け入れられたのだから、不思議という他はない。「個人の記憶がなくなれば存在も消滅する」だとか、「個人の記憶を変更することで現在の状況が変わる」だとか、全く理解不能な図式の元に物語が形成されていた。

 個人の記憶がどうであろうと、「客観的な時間は存在する」という当たり前の論理がここでは受け入れられない。「自己=世界」である。これは「内部の論理」の趨勢と、全くその本質をイコールにしている。つまり『外部』や『他者』の視線が欠けているのだ。
 もう一つ、この『他者』の視線を欠いてると思われるのが、現在放映中の『龍馬伝』である。「軍艦を購入して日本を強くすればよい」というようなことを、「素晴らしい発見」であるかのように語る竜馬を「英雄」として祭り上げようとする物語構成は正直、見てはいられない。
 
 これは一歩間違えれば、『改憲して核武装して日本を強くすればよい』の発想にすぐに結びつくことは言うまでもない。そして第二の主役の岩崎弥太郎が、全くのエゴイストの商人であることも非常に興味深い事実である。
 また以前に書いたことでもあるが、千葉佐那に対する理解も描写も不適切なのがどうにも受け入れがたい。:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1418370026&owner_id=16012523 今まで会った傾向的に見て、「エゴイズムの原理」を押す人は、体外が「反フェミニスト」であり、悪平等主義である。簡単に言えば『他者』の多様性、落差、弱者の置かれてる立場を配慮する気がない。

 脆弱なエゴイズム。そのなかで語られる『ヒーロー』って? 特撮技術もデザインも格段に進化したけど、結局、「一号・二号ライダー」の持つ「本物の魅力」に何故、ディケイドは追いつけないのか。
 しかし逆説的だが、ショッカー大首領の姿になったディケイド=司は妙にカッコよかった。それはあのアナキン・スカイウォーカーが見せた、少しピカレスク性の混じったヒーロー像であるかと思う。

 しかしこういう事をつらつら考えると、現在放映中の『W』が何故、僕のお気に入りなのかが判る。『W』には実は、「おやっさん」も「首領」も出てるからだ。主人公、左翔太郎は尊敬する「おやっさん」の生き方に学びながら、純粋に「街の人々」のために戦える男だ。
 そしてもう一人の主役、照井竜は、「個人的な復讐」より、「第三者の幸せ」を願うことを改心した。これは以前に、「V3」が通った道だ。こういう「他者志向」のモラリティは、脚本の三条陸さんに負うところが大きい(というのも、長谷川伸の書く回は、むしろ僕を苛立たせる)。

 しかしそのWが唐突に『大ショッカー』に出てきたときには驚いた。いや、実もフタもない番宣だ。こういうところが経済が支配する現在の状況か。ちなみに映画のなかでは、リポビタンDを、主人公達がこれみよがしに飲んでいた。…やれやれ。

  
 

日々の事  どうなんでしょう?



 どうも重苦しいヘビーなことばかり書いていて、読んでくれてる人まで気が滅入っちゃうんじゃないかと少々心配である。どうなんでしょう? 
 
 しかし重たい話するのは今に始まったことではないので、何とも言えないが、以前とは雰囲気が変わってしまったと思ってる人もいるかもしれない。ただ書いてる本人は実は気が重くなるどころか、段々、軽くなってくるから不思議である。外部に出すというのは本当に治療効果がある。
 しかしこの数日は虐待死した子供の事件などがあって、少々、苛立ちもあったかもしれない。報道では児童相談所によせられる虐待件数は、年間で4万件を超えるそうである。つまりそれだけの子供が、実際に虐待されているということだ。

 ついでに言っておくと既婚女性の25%が夫からのDVを経験している。確率で言えば、4人に一人だ(ホントかな?)。北九州市と福岡市が、DVで非難している女性のために定額給付金の換わりになるお金を支給すると発表しているが、横浜市もそれに続く気配であるという。
 これはDV男性の多くが、そのままストーカーに変貌することから生じる現象である。多くの重度DV加害者は、被害者が逃げ出すと執拗にそれを追いかけ、またシェルター等に非難しても脅迫メールを送ったり動物の死骸を送りつけたりするストーカーに変貌することが多い。

 東京新聞の記事から。
「DVでは子供も被害者だ。父親の暴力を見せられて不安や恐怖、怒りの感情を持ちやすいところへ突然の転校。秘密を抱えた生活になる。つらい気持ちを吐き出せる場所も乏しい」

 DV被害者の女性は着の身着のままで逃げてくる人が少なくない。定額給付金が僅かな額であるとはいえ、それはかなりの助けになる。しかし日本の社会制度は「世帯主」を基本とした父権中心主義でできているので、世帯ごとに支給される給付金はDV夫のもとに支給されることになる。その差し止めを元被害者が訴えるケースも出ている。

 DVや児童虐待というのは遠い世界の出来事ではなく、ごく身近に存在するはずの問題である。そしてそれを最も考えなくてはいけないのは、多くの場合に加害者となる男性自身なのだ。
 僕は男性というのはその社会的立場に応じて、弱者の立場を顧慮できるような「傘」になるべきだと繰り返し書いてきた。強者は強者としての自覚と責任をもち、人を守れるように強くあれ、というのがその目指すところだったのだ。

 しかし考えてみれば、男性だって誰もがそんな風に人を守るほどの余裕があるわけではない。そのように他者に責任を取れる以前に、自分の身を守ることに必死な人も多いのだ。
 僕はそういう事をほとんど失念しており、「男だったら、弱きを助ける」ということを無条件に責務だと考えていたフシがある。これは社会的な要請でもあるだろう。しかし考えようによってはこれは圧力で、その無言の圧力に不満が鬱積して加害が行われるという面もある。

 『女性に優しく男には厳しく』も、少しは返上しようかと考えている。それが路線変更につながるか? …しかし見ようによっては、以前よりキツくなってるような気もする。考えものだ。…どうなんでしょう。 

カレンダー

02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

最新記事

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R