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思索の道程  戦争ゲーム



 今日の東京新聞、多摩版の面に『八王子・サバイバルゲーム場中止』という記事が載っている。以前から付近住民と問題になっていた、住宅地でのサバイバルゲーム場建設計画が中止になったという記事だ。

 ちなみに実はこの問題、少しだけ僕も関わっている。薙刀に行った初日のことだが、そこで道場のご婦人に建設反対の署名を求められたのだ。ご婦人の話を聞くと、辺りは野鳥の住むような森林地帯で、付近住民の散歩や、幼稚園児の通学路になっているような場所だという。
 奥さんが「それは恐いですよね」とか言いながら署名するのを見て、僕もいいかと思い署名した。その後、ネットや新聞などでこのニュースが何回か取り上げられるの見て、「結構、大きな問題になってるな」と思ったのだった。

 で、その具体的な場所を見ると、驚いたことに僕の会社からほんの少し行ったところである。おいおい、住宅地とは聞いてたけど、本当にそうじゃないか。よくこんな場所に、こんな計画をたてたものだと感心する。
 しかしそこに建設計画が上がるくらいなのだから、サバゲーマニアというのは意外にシェアがあるのだろう。しかし通常、サバイバルゲーム場というのは山の中にあるらしい。今回の計画が中止に追い込まれたことによって、後続の建設計画は住宅地から遠ざかる傾向になることだろう。

 これは結構、微妙な問題だが、サバゲー計画に反対していた付近住民の主張は「子供たちに『人殺しゲーム』を見せたくない」「弾が飛んでくるかもしれず危険」「野鳥が音や気配に驚いていなくなる」などの言い分である。
 しかし考えて見れば武術や武道はどうだろうか? ぶっちゃけて言うとサバゲーマニアがエアガン持ってるより、武術家が木刀持ってるほうがはるかに『危険』である。それに武術や武道もまた「戦争」から生まれた、『戦闘シュミレーション』と言えないだろうか?

 薙刀をやってる人がサバゲーに反対する、というのはそういうレベルで考えれば『単に趣味の違い』と言えるかもしれない。そうすると「他人の趣味が自分の趣味に合わないからと言って、それを抑圧する権利があるのか」という、問題が発生するだろう。
 今回は計画者側が「園児が通う道とは知らなかった」という理由で建設計画を取りやめた。ちょっと引用してみる。

「一方、サバイバルゲームについて鈴木社長は『テレビ番組やゲームでも同じようなものがある。サバイバルゲームだけが問題視されるのは悲しい』と、健全なスポーツだと強調。これに対して篠原会長は『プライドを持って事業を続ける姿勢は素晴らしい』と評価しつつも、ゲームへの論評は避け、最後まで認識の違いがあることをにじませた」

 単純に言って反対者側は、「ザバイバルゲーム」それ自体を基本的には容認していないのだ。なくなるのなら、なくなった方がいい、ぐらいの感覚だろう。反対者は単純に「暴力的なものには反対」という『感覚』でものを言ってるのかもしれない。
 その事の問題を考えるために、もう一つ別のニュースを取り上げ見よう。昨日のニュースで「『イラク戦争ゲーム』に非難殺到」という記事があった。こちらはコンピューターゲームの話である。

 これは米のゲーム会社が開発した市街戦シュミレーションゲームで、実際の日記や写真の提供を受けてゲーム内でも米兵の生々しい証言などが挿入されていたらしい。
 これをコナミが『ドキュメンタリー』という新ジャンルゲームとして一般商品化しようとしたところ、大きな議論を巻き起こし、非難の大きさも考慮してコナミは販売中止を決定したというのが事態の流れだ。

 問題だったのはこのゲームの元であり、そしてゲーム名にもなったのが、2004年の『ファルージャの六日間』と呼ばれる相当数の市民を殺害した悲惨な市街戦だったことである。テロリストと市民の区別なく『無差別攻撃』をした市街戦を、「ゲーム」として疑似体験することの問題性に非難が及んだということなのである。少し新聞記事を引用してみよう。

「ファルージャの六日間とは、開戦から約一年後、米側民間警備兵が武装住民に殺され、見せしめるようにつり上げられた事件後の市街戦。米国人にとっては最も衝撃的で悪夢を連想させる事件だった。
 ただ、その発端は米軍が誤って住民に発砲、さらに仲介に入った穏健派の宗教勢力にまで攻撃を仕掛け、住民の憎悪を招いたことにある。六日間で数百人の住民が犠牲になり、その半数は女性と子供だった。ゲームは最悪の悲劇に触れ、無神経でセンセーショナルなものだった」

 僕が思うのはゲーム開発者には、イラクの女性や子供が何百人も死ぬことより、「アメリカ兵が敵に攻撃を受ける」ことの方が問題だったのだろうという感性があることが想像できることである。何百人も何の罪もない女性や子供が死んだ市街戦を、『ゲーム』にして疑似体験しようという感覚は、ある種の「鈍感さ」がないとできない。
 
 そもそも僕は『軍事』というものと、『武術・武道』とを全く異なるものとして考えている。『軍事』とは基本的に、「人の生命を問題にしない」態度である。以前にも書いたが、軍事において人の生命を奪うことは『目的』ですらなく、単なる『手段』にすぎない。
 その訓練法は「敵を人間と思わないこと」「人影に反応したら、考えるより先にトリガーを引くこと」を反射レベルで身につけさせる強化反復法である。そこに『命』と『人』を凝視する過程はない。

 これに対し武術とは、基本的に『命』を凝視するものである。戦いにあって相手の命と、自分の命の双方を凝視し、そこにある形を徹底的に見つめること。そして武道とは、そのようなやりとりの中で、真に己の命と魂を見つめ返す道程だと僕は考えている。
 そして武術にしろ武道にしろ、それには『実行性』がある。つまり修行者は実際に「人を殺せる技」を身につけるのだ。その危険性はサバゲーやCGゲームの比じゃない。しかしそこには少なくとも、命に向き合う『真剣さ』がある。

 それに対して戦争ゲームというのは、そもそも敵と市民も区別せず、また人殺しが「手段」としてしか存在しないような軍事行動の、さらに模擬的な疑似体験なのである。
 ゲーマーからすれば、それが「真剣なもの」でなく「遊び」だからこそ、『安全』だというかもしれない。しかし人の命に関わるようなことに「遊び」で取り組むことが、そもそも『不遜』ではないのか?

 「武道がよくて戦争ゲームはダメ」というような境界線があるとしたら、それはその「真剣/不遜」のなかにしかないだろう。サバゲーに「真剣に取り組んでいる」という人がいるなら、自衛隊の臨時隊員訓練でも受けたらいい。その方がよほど真剣だ。
 もっとも、その境界線だってあくまで個々人に任意な境界線である。同僚のパチスロ男みたいに「武術家なんて野蛮だ」という人にとっては、武術もサバゲーも「暴力的なもの」とひとくくりかもしれない(とは言っても、パチスロ男は格闘アクションは見ないくせに、ガンアクションの映画が好きだ)。

 とは言うものの、人には疑似体験への欲望もあるので、『ファルージャの六日間』はともかく、サバイバルゲームに関しては僕はそこまで否定的ではない。場合によっては僕もやる機会があるかもしれないし、少なくともそれを好きな人がいても非難はしない。
 ただやるからには、それが「本当の軍人」になるわけでもなく、また真に「戦う」ことを学ぶこととも違う、ある種の『不遜さ』を内包していることには自覚的であるべきだと思う。住民たちは武道場ができても反対運動なんかしないことを、よく考えるべきだろう。

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