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思索の道程  思考の呪縛

ちょっと前のことだが、とある某所でこんなことがあった。「差別はクソ野郎です」と書いておきながらその直後に、「日本でおきてるレイプ事件は、大半が在日の起こした事件」とか書く人にでくわしたのである。
 …いや、それが「差別発言でしょ?」という話なのだが、本人にはその意識がないわけである。つまり実際に差別をしてる人は、本人にはその意識がないのだという事を目の当たりにして衝撃を覚えた出来事だった。

 「差別」というのは恐らくその人たちの中では、「言われもなく他人を非難すること」であり、逆を言えば「いわれがあるなら攻撃は正当なもの」と考えてるようなのである。
 で、当の本人が「これは事実であり、データを出せないのが残念だけど…」とか言うので、かわりに警視庁統計を出して見せてやった。無論、そんな事実はない。恐らく「先進国のなかでは、韓国はレイプ率が高い」というようなことから敷衍して出てきた流言だと思うが、実際には事実確認もせずに他者を貶める発言を繰り返していたわけである。

 「そうされるだけの事を、その人たちはしたんでしょ?」 …これはユダヤ人の迫害のことを知ったときに言った、あるドイツの少女の言葉である。周囲が「事実無根でも」攻撃しているうちに、攻撃は正当なものだと前提するようになる。これが差別である。
 ここのところ実は、とある(こればっかり)精神医療系コミュで「カルト」に関する議論が上がっていた。『自殺者の7割が、抗うつ剤を飲んでいた』という新聞記事が取り上げられ、それに基づいてトピが上がっていたのである。

 これに対して「精神医療全般を否定しようとするカルトの書き込みだ!」という意見があがった。それを唱えること自体をカルトと決め付けていいのかも疑問ではあるが、その書き込みならびに肯定者が「カルト」だったのかも真偽は判らない。
 が、それはともかくとして、考慮に値するデータを提出して議論がなされるなら、それはそれで意味があることだと思う。例えばつい最近まで、てんかん治療に脳の一部を切除手術するというような治療をしていた時代もあり、『現在の治療法が必ずしも最善で、誤りのないものであるとは限らない』可能性はいつだってあるからだ。

 その意味で重要なのは「議論に開かれた場」であるというのが僕の立場なであり、重要なのは「それを検証する可能性」に意識が開かれているということだと僕は考えている。しかし、そんな意向は脇にやられ、互いの陣営の罵倒の応酬ということにトピは終始し、結局、管理人がこのトピを封鎖するという経緯に落ち着いた。
 抗うつ剤に関して言えば、攻撃衝動や自殺衝動が突然高まるような副作用があることは既に知られており、その批判者が述べるほどそれは『隠された真実』などではない。また適切に服用すれば症状が改善する効果があることは間違いないので、全否定はちょっと行きすぎだと思われる。ただし僕は奥さんの経験を通して向精神薬の副作用の恐さを体感しているので、その使用に細心の注意が必要だとは思うのである。

 しかし『隠された真実』を唱える側には、「自分は『真実』を知っている」という自負があるので、なかなかそこから思考が先に進まない傾向がある。最初にあげた「差別発言くん」も、「自分は事実を知っている」という自負心がたっぷりだった。最近の右傾言説の支持者にはこの傾向が非常に強い。
 例えば戦争責任に関する数字上の誤謬だとか、事前に取り交わされた条約、その後の補償の経緯。あるいは在日の人達の経済活動状況だとか、その犯罪発生率、本国での「非人道的な事件」などである。彼らは実に『事実』に詳しい。

 しかしその知っている『事実』の大半は、多くが正規の学問を積んだものではなく、「隠された真実」を浮き彫りにするという手合いの資料作成に基づいて得られた知識である。それは元の資料にあたらずして、「多くは言及されないが…」とか「都合が悪くて隠されているが…」等の枕言葉を冠にした言辞をそのまま飲み込んでいるということである。
 実はこの『隠された真実を伝える』という方法は、カルトではもっとも基本的な言説技術である。例えばオウムの元信者たちは、「常識や世の中の『洗脳』から抜け出す」ためにオウムに入っていたのである。そしてそこで「自分は騙されていた」という『真実』に出会うのである。

 「あなたは騙されている」という言葉ほど、人を騙しやすい言葉はない。「騙されていたところから目覚めた」という確信ほど、人の自己肯定感を強化するものはない。そしてこれはパラドックスを生む。「騙されていたという真実を知った」という言葉に『今』騙されている人に、「あなたは騙されている」と告げてもなかなかそれは受容されない。相手はもう「自分は真実を知っている」と確信しているからだ。
 「相手はカルトだ」と攻撃する側も、「抗うつ剤は毒だ」と反撃する側も、どちらも「自分は真実を知っている」という前提にたっている。そしてこの争いは、健全な議論にはならなかった。なぜならその両者が、「自分は騙されていた」という地点から目覚めていて、「相手はまだその地点にいる」と考え、無前提に自己を肯定できると考えているからである。

 では、こういう不毛な論争から身を引き離すために、そういう「社会的言説」の次元には一切乗らない、という立場を決める人もいる。こういう「社会的言説」を受容することはどうであれ、「思考の呪縛」であり、その呪縛から逃れるために自分は「個人」の経験からのみ物事を判断するという方法である。
 これは部分的には悪くない方法である。少なくとも「過熱」や「耽溺」からは、身を守れるかもしれない。しかし実はそこではその「個人の立場」という『考え』もまた、社会的に形成された言説であるという観点が抜け落ちているし、またその根拠となる「自己」もまた社会的な影響を受けた形成物であるという考えが抜けている。

 ラカン派の心理治療においては、「患者(分析主体という言い方を本当はするが)の言い分を、そのままに受け取ってはいけない」という考え方がある。患者は実はその「症状」から、『代理満足』と呼ばれるある種の満足感を得ているという前提がそこにある。
 その意味では、患者は実は「症状」それ自体を根絶したいとは『無意識下』では願っていない。治療に来るのは、症状それ自体を完治したいというより、「今までの方法がうまくいかなくなった」ことを、医者に改善してほしいと願うからである。

 しかし実は「治療」とは、患者本人が「自己」に徹底的に向き合うということを意味している。つまりそれは自己について考えるということである。しかし実は患者の方では、「自分では考えることなく」自分を医者に預けることによって、事態を改善したいと考えている。
 患者はそれで折りあるごとに「合理的な理由で」面接をキャンセルしようとしたりする。しかしそれは常に「後から付加された理由」であり、実際は患者が「自己について考える」ことから逃れるための防衛反応に他ならない。実は「思考停止」こそ患者の望むものである、とそこでは指摘されている。

 「思考停止」がある種の、「思考の呪縛」であることは言うまでもない。それは無意識の自己防衛機制の虜であるということである。「社会的次元」を捨てて、「個人」の次元だけを考えるという立場も(あるいはその逆であったとしても)、そこに「思考停止」の領域が意識的に構成されるのであればそれは「自己防衛」に他ならない。
 無論、人には興味や関心もあり、全ての事柄を一人の思考が受け持つのは到底無理である。だから「思考停止」は、それが意識的な場合にのみ言えることである。つまり「考えないようにしている」というものだ。これは「曖昧」を越えた、はっきりとした態度なのである。

 武術において「個人」の次元だけを考える、という人がいた。その思想では明確に、それ以上の次元を「考えない」として、明確な思想として打ち出していたのである。その明確な思考停止は、「考えていては実戦では間に合わない」という事で正当化され、それ以上「誰が、何のために、誰に対して武術を使うのか?」という自問を不問にすることに成功した。
 結果だけいえば、その武術では『自分』を襲ってきた相手を、「考えることなく」殺傷する、という立場が理想であることになる。『誰か』のために武術を使う契機や、敵となる『他者』とどう向かい合うかということは、その次元には含まれてない。そこは「考えなくてもいい」とされたからである。

 どういう次元であれ、「思考停止」は自己防衛であり、無前提な自己正当化につながりやすい。「真実を知っている」という事は言い換えれば、「それ以上、考える必要はない」という事と裏腹である。ここで得られる自己肯定感が強力で魅力的だとしても、それは「思考の呪縛」であると言わざるをえない。
 しかしこの「思考の呪縛」を逃れる術、を考えるとまた途方もない感覚に襲われる。それを逃れることは常に「自身に懐疑(再考)の視線を向けること」となるか。あるいはだが、この「思考の呪縛から逃れたい」という欲望それ自体もまた、「呪縛」そのものに他ならないのではないか?

 しかし僕にはそういう思考の隘路(あるいは迷路)に落ちることよりも、「自己防衛」によって得られた自己肯定感が、『他者』への関わり方やその認識を向上させないということのほうが問題だという感じを受ける。その他者意識の感覚は、自分の日常に直接にはねかえってくるからだ。
 けどとりとめもなく、つらつらと書いてきて、結局、僕が何一つとしてよく「知らない」ことだけはいつもよく判る。次々と疑問と好奇心がわいてきて、あちらこちらに手を出しては、また次の疑問に惹かれていく。どの領域でも、いつでも僕は「初心者」みたいなものだ。

 …正直に言うと、『世界』が広すぎて手に負えない。『人間』が謎すぎて理解できない。腹が立ったり喜んだりしながら、それでも考えることを止められないその「考え」の意味が判らなくてまた考え込む。…そんなことがしょっちゅうだ。
 いや、思考停止もたまにはするよ。大事なところでは誤魔化したくないけど。大体、お酒飲んだだけで、僕の思考なんて日記も書けないくらいあやふやなものになる。「思考」とか肩肘張ったって、所詮、化学物質には勝てやしないのさ。これは初めてお酒を飲んだ16の時に、鏡を見て真っ赤になった自分を見てそう思ったんだ。

 そんな誰も彼もが間違えないように生きてくなんて無理だよね。けどせめて『他者』に優しい社会であるように、『自分』を幸せにできるように。…と、僕は考える。 
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