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作品を読む  『オールライダー対大ショッカー』によせて

というわけで、大分、遅いのだが『オールライダー対大ショッカー』を観た。『超特撮論』で展開していた議論であるが、やはりこの作品には「おやっさん」も「首領」も出てこなかった。つまり『超自我』が出てこなかった、という話である。

 振り返ってみれば「平成ライダー」というのは、どれも「おやっさん」も「首領」も持たない物語であった。そこには「超自我」が入る余地がなかったのである。つまり主人公は「個人的な動機」で戦っていたし、敵の側も全くの「利己目的」で他者を害する。
 いいか悪いかは別問題として、過去においてはテロの側にすら「超自我」が存在した。つまりある種の「理想」があったわけである。その「理想」がある時点で、それが仮に手段として誤った選択であったとしても、その「正義」に間違いがあったことを自認しえたなら、そこから改善する余地というのはあったわけである。

 しかしその「理想」=「超自我」にあたるものがない、というのは『正義』や『公正』『倫理』という社会的な判断次元がそこに入れられないということだ。結果的にそこでは「自我」の原理だけで行動する主人公がそこにいる。だから彼らはよく「仲間のため」を口にする。
 しかしそれが「仲間にため」であるのなら、それは「敵の組織」も同じ原理なのだ。ここでは敵と味方の間に、「質的な差異」はない。つまりそこでは「自我」と「自我」がぶつかりあっているだけで、それは単に『利害が対立する陣営』であるというにすぎない。

 これは「自国のエゴイズム」のために派兵するアメリカと、「職業としてのテロリズム」の繰り返す反米勢力との不毛な争いが、奇妙なリアリティで映し出されている。そのどちらにも「正義」はない。どちらも「自集団の利益」のために他者を抑圧し、攻撃し、危害を加える。正直にいうと、世界大戦当時のアメリカはまだ「誇り」という芯があっただけマシだった。
 昨今、「自国のため」であれば、その成したことが正当化されうるという不思議な言説が右系言論を中心に素朴に受容されてるフシがある。「自国のために戦ったのだから仕方ない」「自国が侵略されないためには当然の措置」等。簡単にいえばそれは「自分の利益を求める行為は、必然的に容認されるべきである」という原理だ。

 しかしはっきり言っておきたいのだが、「自分が属する集団のためには、他者を害しても構わない」というのは明確な『悪の論理』である。それが「正義」と認められるなら、利用者を偽る食品会社の手段も、自集団のために手段を選ばないカルト教団の行為も全て「正義」となるはずだ。
 それらは結局、「内部」の価値観しか有していない。その集団が『外部』から判断されたとき、どういう判断が下されるかを度外視しているのだ。簡単に言って、東南アジアの人達の意向を無視することは、オウムのやったことをオウムの立場から認めてやる、ということとイコールなのである。それを認めるなら、「会社の利益のために」食品偽装をした企業を弾圧する権利はない。

 つまり「超自我」の原理とは、単に「超個人」の原理なのではない。ただ『個人』という位相を越えた、大きな「国」という単位に依拠すれば、それが即ち「正義」となるわけではない。そこに『他者』という「外部」の視線がなければ、それは全く「悪」の思想であるかもしれないのである。
 いつも思うのだが、『ドラゴンボール』では、結果的にであれ、その戦いは『世界を救うため』になされていた。しかし『ワンピース』での行動理由は、「仲間のため」「兄弟を救うため」と全く個人的な動機であり、しかも本人達は「海賊」という言ってみれば犯罪者なのである。

 簡単に言ってルフィたちは、単に「自分が知り合って、感情移入した相手」に加担するだけであって、根本的な動機は「個人的」である。場合によってはこの偶然知り合った集団が、言われもない他種族の差別等をしていたとしても一向彼らは構わないだろう。このような「個人的な動機」は、「平成ライダー」にも見られる特徴である。
 そもそも『クウガ』などは、「悪の組織は関東ローカルなのか?」と思われるくらい、事件は東京近辺にのみ集中していた。クウガが守ったのは「東京の住人」の平和であって、「世界」の平和ではない。このローカリティは、その後の「平成ライダー」でも疑問の余地なく引き継がれている。

 しかしそもそもの『仮面ライダー』では、ショッカーは熊本などの日本各地に現れるだけでなく、ヨーロッパや南米等の世界各地に現れる脅威だった。その世界規模で展開される「悪」に対して戦っていたのが、「仮面ライダー」だったのである。
 しかし『ディケイド』では、「仮面ライダーの世界」という形で、「日本の国外」は巧妙に抹消される。そこには「自身の属する領域=世界」という、狭い視野によって形成された世界観が生じる。これはいわゆる「セカイ系」と同質のものである。

 「セカイ系」とはつまり、「主観世界=客観世界の全体」という混同図式に他ならない。これを見事ともいえる形で表現したのが『電王』だった。『電王』では、「個人の記憶」が何故か「客観的な過去の時間」とイコール視されている。これが最後まで、理解不能な図式だった。
 しかし世間ではこの奇妙きわまりない論理が「判りやすい」として受け入れられたのだから、不思議という他はない。「個人の記憶がなくなれば存在も消滅する」だとか、「個人の記憶を変更することで現在の状況が変わる」だとか、全く理解不能な図式の元に物語が形成されていた。

 個人の記憶がどうであろうと、「客観的な時間は存在する」という当たり前の論理がここでは受け入れられない。「自己=世界」である。これは「内部の論理」の趨勢と、全くその本質をイコールにしている。つまり『外部』や『他者』の視線が欠けているのだ。
 もう一つ、この『他者』の視線を欠いてると思われるのが、現在放映中の『龍馬伝』である。「軍艦を購入して日本を強くすればよい」というようなことを、「素晴らしい発見」であるかのように語る竜馬を「英雄」として祭り上げようとする物語構成は正直、見てはいられない。
 
 これは一歩間違えれば、『改憲して核武装して日本を強くすればよい』の発想にすぐに結びつくことは言うまでもない。そして第二の主役の岩崎弥太郎が、全くのエゴイストの商人であることも非常に興味深い事実である。
 また以前に書いたことでもあるが、千葉佐那に対する理解も描写も不適切なのがどうにも受け入れがたい。:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1418370026&owner_id=16012523 今まで会った傾向的に見て、「エゴイズムの原理」を押す人は、体外が「反フェミニスト」であり、悪平等主義である。簡単に言えば『他者』の多様性、落差、弱者の置かれてる立場を配慮する気がない。

 脆弱なエゴイズム。そのなかで語られる『ヒーロー』って? 特撮技術もデザインも格段に進化したけど、結局、「一号・二号ライダー」の持つ「本物の魅力」に何故、ディケイドは追いつけないのか。
 しかし逆説的だが、ショッカー大首領の姿になったディケイド=司は妙にカッコよかった。それはあのアナキン・スカイウォーカーが見せた、少しピカレスク性の混じったヒーロー像であるかと思う。

 しかしこういう事をつらつら考えると、現在放映中の『W』が何故、僕のお気に入りなのかが判る。『W』には実は、「おやっさん」も「首領」も出てるからだ。主人公、左翔太郎は尊敬する「おやっさん」の生き方に学びながら、純粋に「街の人々」のために戦える男だ。
 そしてもう一人の主役、照井竜は、「個人的な復讐」より、「第三者の幸せ」を願うことを改心した。これは以前に、「V3」が通った道だ。こういう「他者志向」のモラリティは、脚本の三条陸さんに負うところが大きい(というのも、長谷川伸の書く回は、むしろ僕を苛立たせる)。

 しかしそのWが唐突に『大ショッカー』に出てきたときには驚いた。いや、実もフタもない番宣だ。こういうところが経済が支配する現在の状況か。ちなみに映画のなかでは、リポビタンDを、主人公達がこれみよがしに飲んでいた。…やれやれ。

  
 
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