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武道随感  武道について



 昨日、全日本柔道大会を少しだけ見ていた。優勝した穴井選手の柔道は、準々決勝、準決勝は非常によかった。果敢に攻め、相手の動きを見て華麗とも言える一本で勝っている。

 しかし決勝の棟田選手との試合はどうだったろうか? 有効を先取されてからの果敢な攻めには、気迫の強さを感じた。しかし、である。そこから有効を取り返した残り20秒、穴井選手は守りに入った。
 穴井選手はそれまで果敢に攻めていたので、判定に入れば勝てると踏んだのだろう。まともに組み合わず、時間切れを狙った。結果的には穴井選手の判定勝ちで優勝。そういう試合である。

 穴井選手は優勝に男泣きし、試合後のインタビューでは「勝ちにこだわった」と語った。東京新聞の記事では「勝てると信じるやつが勝つんだと分かった」と語り、篠原監督は「今日の穴井は最高。勝因は稽古量につきる」と語った。
 
 しかしどうも疑問が残る。「勝ちにこだわる」というのは、それまで「攻め」の柔道だったのに、『時間切れ』というルール上の利点を狙って「守り」に入ることか。時間最後まで自分の「攻め」の柔道に徹することが、「勝ちにこだわる」ことではないのか?
 穴井選手が最初から「守りが堅く」「相手に一本取らせない」タイプの柔道ならまだ判る。しかしルールの上でスタイルを変えるのは、「ルールに負けた」ことにはならないのか? それは「勝負に勝って」も、「自分に勝った」とは言えないのではないか?

 武道はゲームではない。その根本的な目的は自己をより高い次元に高めることであり、自己を厳しく見つめることである。相手に勝つというのは結果にすぎないし、目的でもない。相手からのルール上の勝利のために、自己の最高の研鑽結果を曲げるのは、過程と目的を取り違えている。
 そもそも最近の柔道の「両肩をつけば勝ち」というルールそのものが、武道の本質から外れている。両肩をつこうがつくまいが、実効性のある技で一本取れなければ、真の『武道的な』意味はない。共倒れした後に相手を巻き込んで背中をつけるような技に、何の意味があるだろう?

 「勝たなければ周囲が納得しない」とか、「オリンピックで金を取らなければ意味がない」というような暗黙の要請が柔道にはつきまとうだろう。選手はそれに応えることを要求される。
 しかしそのような周辺の外圧に対しても、真の武道を貫くような精神と認識力を備えることこそ、『武道』修行の本来の目的ではないだろうか。

 そのような武道の本質は、自己と他者の生命を凝視する場所にのみ存在する。そうでなければ大勢の要請に従って、簡単に他者を加害することになるだろう。それを後から正当化することや、仕方なかったというのは簡単である。
 しかし「勝てばいい」のは武道ではないし、「勝つための技術」も武道ではない。それはエゴのために他者の生命を顧慮する力をもたないものであると同時に、他者を抑圧する『自己に対しての責任』にも眼を逸らした営みでしかない。

 自己を貫きつつも、他者を顧慮すること。そのためにより高い自己を目指し研鑽することこそ、武道の営みである。僕が武術から武道に転向した意味があるとするなら、そこにのみ存在する。

 大分、遠ざかった…と、テレビを見て、ふと思った。僕の求めるものは、そこにはもうない、という事だけがよく判った。
  
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