その一で例にあげた父親の論理は、簡単に言えば「『社会の厳しさ』を教えてやる」という類の論理に類似する。であると同時に、それは「結果的によかったのだから、自分のやったことは間違ってない」という正当化でもあった。
少し前に韓国のアイドルが、ネットでの中傷を苦に自殺する事件があった。しかし中傷的な書き込みは、彼女が死んだ後もなお書き込まれ続けたという。ここでは加害者は被害者が死んでもなお、罪悪感を覚えるところがない。
このような心理はいかにして成立するのか? テレビのインタビューを受けた書き込みの一人の中年男性は、「私は彼女のために、いい事をしたんだ」と答えていた。ニュース記事はこう伝えている。
『悪質な書き込みをして告発された人を逮捕してみると、ほとんどが内気で小心で「まさかこの人が?」と驚いてしまうという。なかには大学教授、医者、企業の役員といった社会的に地位の高い人もいて、言うべきことを言っただけだと開き直る人すらいるらしい。こういう人たちはインターネットでデマや悪口を堂々と書き込むことで「私は偉い人なんだ、強い人なんだ」と思い込んでしまうそうだ。』
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT13000029012007
このような攻撃は基本的に自己の能動感や優越感を得るためになされるので、どんなに「言うべきことを言っただけ」などと真実を知っているような風を装ってみても、基本的には自己の卑小感を埋めるために他者を傷つけるにすぎない。
同じ傾向はモラルハラスメントの加害者にも言える。フランスの臨床家、マリー=フランス・イルゴイエンヌの著作から引用してみよう。
「たとえば『自分が偉く重要な人物だと思っている』ということについて言えば、モラル・ハラスメントの加害者は何につけても自分が正しいと思っている。その結果、いわば自分が『常識』であり、真実や善悪の判定者であるかのようにふるまう。
そのため周りにいる人々は加害者のことを道徳家のように思って、加害者が何も言わなくても、自分が悪いことをしてるような気持ちになることがある。いっぽう加害者の方は、自分の基準が絶対的なものだと考え、その基準を周りの人々に押し付ける。そうやって、自分が優れた人物であるという印象を与えるのだ。
だが、そこで加害者が口にするのは本物の道徳ではなく、人生は悪意に満ちているというモラル・ハラスメントの加害者に特有の確信である」(『モラル・ハラスメント』)
モラルハラスメントの場合は、ネットのような関節媒体ではなく、直接的な攻撃である。しかしその攻撃の本質と、その加害の正当化には共通の傾向が見られる。つまり「真実を教えてやった」というような言動である。
しかしその加害者のいう「真実」だとか「人生」などは、多くの場合「人生は悪意に満ちている」に類する、人間の不信に基づく世界観であるにすぎない。それはつまるところ単にその加害者の内的確信であるにすぎず、しかもその行動は「相手のため」などではなく、その事によって「優越感を得るため」である。
その内的動機がエゴイスティックなものである以上、その被害者が結果的に「立ち直ったか否か」は、正当化の根本的な理由にはならない。加害者は自己の優越感のために加害したにすぎず、相手を立ち直すことなど基本的には考えてない。
この「相手のためか否か」の境界線を分けるのは、実際に被害者が傷ついたときに対する加害者の反応である。基本的に自己のために他者を加害する者は、相手が傷ついていても「謝罪をしない」。
本来的に「相手の成長が目標」である場合、明らかに間違った関わり方や行き過ぎた教育を施した場合には、その行為が『その本人のため』である以上、間違いを認めなければいけない。
しかしこれらの加害者の特徴は、「間違いを認めない」し、また「謝罪をしない」。また見てきたように、それどころか「加害を正当化する」のである。つまりその時点で、むしろ逆説的に、その関わりは自己中心的な「攻撃」に過ぎなかったことを露呈させると言ってもいい。
非常に極端な例では、DV加害者の言い分がある。DV加害者は相手に暴力をふるっておきながら、「俺を怒らせる、お前が悪い」と原因を被害者に還元する。このような理不尽さが、基本的に加害者の正当化言説の中には潜んでいる。
あえて文脈を拡大して言っておくが、元占領国が被占領国に対して「自分たちの占領のおかげで、社会が進歩した」などと言うのは加害の正当化以外の何物でもない。それを聞いた被占領国の人々の心境は、前回引用した父親の正当化を聞いたときの、息子の心境と同じだろう。つまり呆れの後に、怒りを感じるはずである。
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