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思索の道程  闇教育  その一



 抑圧的な教育理念、というのは実は個人の資質等の問題であると同時に、歴史的に形成された制度なのだということが言える。それは二百年以上も歴史をもつ教育学の産物であり、カタリーナ・ルーキュイはそれを『闇教育』と呼んだ。

 アリス・ミラーは子どもが受ける抑圧の実体を考察するために、その『闇教育』の例を豊富に参照している。過去においては教育は家庭で行われるものだったので、その教育現場は家庭内におけるものと変わりがない。

『もしあなたの息子が、あなたがそうしろと言ったから勉強しないのであったり、あなたに逆らうために泣いたり、あなたを怒らせるために悪さをする、つまり「強情を張っている」のであれば、
  その時は殴れ、悲鳴を上げるまで、
  やめて、やめて、パパ、いや、いやと!
 なぜならこのような不服従はあなたの人格に対する宣戦布告と同じであるから。あなたの息子はあなたから支配権を奪おうとしているのだから、あなたは力を持って制し、あなたに対する尊敬を揺るがぬものにしなければならない。そうでなければ教育などとてもできはしないのだ。
 折檻する場合には手加減せず、息子に、あなたこそ主人なのだという事を思い知らさせなければならない』

 これは1752年にJ・G・クリューガーなる人物の書いた『児童教育の考察』という書物の一説なのだそうである。つまりこれは「教育書」として書かれたものなのだ。これに対しアリス・ミラーはこんな風に述べている。

「この時代にはまだすべてあけっぴろげに語られています。時代が下るにつれて、教育する者の支配欲ははるかにうまくごまかされるようになりました。折檻することは子どもの幸福にために不可欠なのであるという理屈が大変洗練された形でこしらえ上げられたのです。
 しかしここに上げた人々はまだ、はっきりと『支配権の奪取』であるとか『忠実な臣下』等と言っていますし、その言葉は、残念ながら今も当時と変わらぬ真実を見事に言い表しています。
 折檻する動機は今も昔も変わってません。両親が自分の子どもを相手にして、かつて自分の両親に差し出さねばならなかった権力を取り戻そうと戦っているのです」

 『闇教育』の方法論は折檻と言う物理的な手段に頼ったものばかりではない。そこにはむしろ子どもの「自尊心を折る」ことが意図されているようなものもある。

『いつでも一番よい効果を上げるのは生活そのものによって思い知らせるやり方である。であるから、うぬぼれの強い子どもは、教師が一言も言わなくても自分の力の足りないことを痛感するような目に合わせるのがよい。
 たくさんものを知っていることを自慢している子どもには、その子の力ではまだとても手に負えない課題を与えよ。そして無理に背伸びをしていても放っておけ。ただしそういうことをさせる場合には決して途中で止めたりいい加減にしてはならない。
 (中略)
 最後に見せかけばかり善良そうにしてる者に対しては、折にふれてそういう子どもがいかにもろく、頼りないものであるかをほのめかしてやるがよい。百万言を費やして説教するよりも、子どもの死体を見せたり、大商店の倒産の物語を教えてやった方がはるかに子どもの心を滅入らせる効果がある』

 これは1851年に書かれたK・G・ヘアガングが編纂した『教育学実用百科』だそうである。子供の心を「滅入らせる」ことが、あからさまに教育的な意図として描かれている。重要なのは「大人と子供」の非対称的な関係を叩き込むことであり、自分に子供を服従させることなのである。

「子どもに理由などを説明するようになってしまったら、一体どうやって従順を教えればいいのか、私には見当もつかない。理由を説明するのは子どもを納得させるためだと言うが、しかしそのような形で納得した子どもは、我々、大人に従うのではなく、ただ単に教わった理由に従っているだけなのだ。
 より高い知に対する敬いの代わりに自分勝手な自己判断への信頼が登場してくる。命令を下す際に理由を説明するような教育者はそれによってまず、自ら子どもの側が反対理由を述べるのを正当なことであると認めてしまうので、結局、教師と生徒の位置関係が崩れてしまうことになる。
 生徒が教師と交渉するという形になって、教師と対等の立場で物を言うようになるからである。しかしそのような対等関係にあっては決して敬いなど生まれてくる余地がなく、敬いのないところでは教育もうまくいかない』

 これは1852年、ケルナーという人物の著作のようである。
 大人のいう事や教師のいう事は、「その内容いかん」に関係なく尊ばれるべきだ、という立場である。これが単に自己の支配欲や優越感を満たすために、弱い立場の者に対してなされる理不尽な要請であることはすぐに見てとれるだろう。しかし実際には、こういう風に振舞う人は現代でも少なくない。
 そもそも本来の『尊敬』の念は、「自分でものを考え」「対等の立場にあってなお」相手の言動を評価できるところにしか現れない。それに欠けているものは『信仰』であって、多くの「指導者」が、自己に対する『尊敬』ではなく『信仰』を求めているということが言えるだろうと思うのである。 
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