一応、この前の補足説明をしておこうかと思う。僕はサバイバルゲームには基本的な『不遜さ』が内包されていると考える。ただ僕は「不遜であるがゆえにやめるべき」とも、「不遜なものは存在すべきではない」とも言ってはいない。
考えるのだが、もしサバイバルゲームが軍隊訓練なみの厳しい集団訓練の上に行われたとしたら、愛好者はそれを気軽に楽しめるだろうか? 戦場で人を狙撃するためには、罪悪感を抱かないために「敵をヒトと思わない」ことや、限界条件まで兵士を追い込む訓練がなされる。
それは「自己と他者を凝視する」という武道の修行とは質的に異なるものであり、その意味で軍事訓練と武道修行を同列にはおけない。と同時に、サバゲーはそのような軍事訓練の過酷さを欠いた「模倣的な遊び」の域を超えない。
別にこれは悪い意味で言ってるのではない。サバゲーがもし軍隊のような訓練を必要とするものなら、愛好者がそれを気楽に楽しむことはできないだろう。その『気楽さ』こそが、「不遜だ」と言ってるのである。
と同時に、これはサバゲーを「スポーツである」とする捉え方にも言える。もしサバゲーがルールや装備の範囲を厳密に規定し、審判がいて、タクティスに卓越した監督がチームを率い、プロ/アマの組織構造が厳然と存在し、世界大会に国の威信をかけて戦い、負けたらスポンサーがつかなくなるような種類の『スポーツ』だったら…愛好者は真にサバゲーを楽しめるだろうか?
僕の感覚ではサバゲーはスポーツではなくて「ゲーム」であり、野山を楽しめるのは副次的な楽しみでしかない。サバゲーの本質は、「戦争ゲーム」を楽しむという、『不遜さ』のなかにこそある。
その不遜さを糊塗して他の理由でサバゲーを正当化しようとするのは、サバゲーの本質を見誤るばかりでなく、サバゲー愛好者のためにもならないのではないかと僕は思う。
社会学者・宮台信司のオタク論を引用してみよう。
「それまでオタクってカテゴリーは日陰だった。『世界のダークサイド』という話を絡むと思うんですが、陰を好んで生きるやつがいる。そういう人は陰だからこそ、そこに生息しようとする。ところがそうした事件が起こると、メディアがそこに光をあてる。するとそうした連中は、そこが居場所じゃなくなっちゃうんですね。メディアが光をあてるから、さらにそこから裏側に回ろうとするわけです」
僕は基本的にサバゲーというのは『陰』のものだと考える。戦争というのは誰もが知ってるように悲惨なものであり、一般市民はおろか、兵士にすらもPTSDのような重篤な被害をもたらすものである。
しかし、である。それを楽しみたい、という不遜な欲望は存在しえる。欲望は禁止できないし、またその幻想上での楽しみすらも禁止することは、むしろいい結果をもたらさない。
例えばホラービデオを見るから、猟奇殺人が起こる、というような言説が存在する。しかしそれについて宮台は次のような例を挙げている。
「アメリカでは、少年犯罪って年に大体二十万件近くある。日本の少年犯は、おそらく一万数千件でしょう。日本では窃盗が多いようです。残虐な犯罪、たとえば殺人に関しては、日本の少年の殺人って年に80件程度。アメリカでは一万五千件以上起こってる。
ところがね、アメリカでは子供はホラービデオ見られないんですね。暴力ビデオも見られません。だけど少年犯は、日本の何十倍、何百倍も起こってるよ、っていうんです。
全然、違うんですよ(笑)。日本はホラービデオ見放題で80件。向こうは見られないのに一万五千件以上なんです。普通に考えれば、ホラービデオが殺人の原因になるわけがない」
僕は宮台信司の全体的意見には賛同しかねるところもあるが、社会的事実として「メデイアがかきたてる欲望が犯罪の引き金になる」という前提、そして、であるがゆえに「危険なものは表現を禁止すべきだ」という見解には賛同しない。
無論、メディアに影響を受けた犯罪があるのは確かだが、犯罪の要因は家庭や周辺環境などの複合的要因から考慮すべきであって、メディアの影響はその実行方法についてのインスパイア元の一つにすぎない。殺意や暴力衝動の根源は、もっと別な場所からやってくる。
幻想のなかでは全ての欲望が認められる。それが実行に移されない限りで。
例えばアダルトビデオのなかで、女優さんの了解済みであるならば、痴漢行為や輪姦行為も認められる。それを見て欲望を満足させることも、別段、非難されるようなことではない。
アメリカではポルノでもレイプ行為が表現を禁止されている。しかし単純な数字だけ比較しても、人口10万人あたりのレイプ発生率は、日本で1.2。アメリカではなんと37.0であり、日本の薬30倍である。
『不遜な楽しみ』を禁止しても、結果はむしろ悪くなる。それはつまるところ、欲望の抑圧にすぎないからだ。抑圧された欲望は、どこかで発散口を求めていずれ噴出する。それが現実的な他者に危害を与える行為になるよりは、『不遜な楽しみ』は「不遜なもの」として、幻想的に、『陰』で楽しまれたほうがよい。
しかし実際にレイプ被害を受けた人にとっては、「レイプビデオも地上波放送解禁にすべきだ」という意見、またその実行は苦痛でしかない。ある人にとっては欲望の対象でも、ある人にとっては極めて苦痛な深刻な精神的被害となりうる質のものがある。
『不遜さ』が『陰』なのは、それが白昼堂々と公にできる質のものではないからだ。それは多くの人々の感性に違和感や苦痛をもたらす。またそうであるからこそ、それを嗜好する人々も存在する。それが『不遜である』という事の意味である。
そういう意味でサバイバルゲームは自らの不遜さを自覚し、住宅街のようなところで楽しまないほうが、『陰』としての魅力を保てる。それは悲惨な現実である『戦争』を、ゲームとして疑似体験したいという「不遜な遊び」なのだ。
自然の地形を読んで潜伏場所や相手のルートを推理し、息を潜め、『敵』が来るのを待つ…。何も知らずに『敵』が現れる。それを自分の愛用銃で狙撃する。緊張感、頭脳戦、体力勝負、そして勝利と達成感とチームとの一体感。…サバイバルゲームは確かに楽しめるだろう。それは日常や現実から離れた幻想空間だからこその楽しみだ。
と同時に、それはリアルに戦闘行為のために訓練をする軍事とも、幻想ではなく、真剣に他者や自己と向き合う武道とも異なる、『不遜な楽しみ』だ。不遜それ自体は褒められたことではないかもしれないが、禁止するほどのことでもない。それはあくまで「幻想」だ。
サバイバルゲームに必要なのは、その『不遜さ』の自覚であって、それを正当化する言説ではないと思う。法律に違反していなければ、望むことを何でもすればよいというのは、他者に対する寛容な理解のようであって、実は『不遜さ』を感じる他者に対しての理解や配慮が欠如している。
無理に正当化するのではなく、不遜さはそれとして受け入れ、山奥のような人目につかない場所で、心置きなく楽しめばいい。周囲住民の冷たい視線を感じながら遊んでも、『不遜さ』に対する「後ろめたさ」ばかり増幅されて、欲望の幻想空間を楽しめないだろう。
そういう意味で僕だって、サバゲーをすることがあるかもしれない。ただしそれは不遜さを内包したゲームとしてである。