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キャプテンはつらいぜ 感想文

ある小学生の日常が書かれた「キャプテンはつらいぜ」という本を図書館で借りた。



今までの人生、キャプテンなんか任されたことないし、どちらかと言えば、サブの私が、この本を読みながら、感じたことを書きたい。


一人一人個性があって、みんな得意不得意がある。


それぞれ守備につき、自分たちのやりたいようにやるメンバーが集まった野球のチーム。



野球のことは、詳しくは分からないけど、その中にある気持ちだけなら汲み取れるので、そこを書きたい。



サッカーや野球、バスケは小学校の時、やった。


社会人一年目になって、フットサルをやったこともある。


そんな自分が本気でやったことのあるスポーツと言えば、水泳だったり、ロードバイクだったりする。


どちらもものすごい実力があるわけではない。


ただ日常的に、自転車はこぐし、それが日々の鍛錬になっているだけ。


自転車をロードバイクに乗り換えて、専用の靴を買った時、その店のお兄さんが教えてくれたんだけど、靴がはずれなくて、こけることが何回かあると思います。


必ず、歩道側にこけてくださいって言われた。



でも、それから、何回か専用の靴で遠出をしてはいるけど、こけたことがない。



その時思った。


人より足首が柔らかいんだって。



それが水泳にも活きたのか、バタ足だけはそれなりに早い。


まあ、それだけ。



そんな自分の話はどうでも良くて、野球の話に話を戻すと、昔、野球を見てて、悟ったことがある。


それは、ピッチャーのこと。



ピッチャーが敵に向かって投げる。そのボールが打たれれば、点が入る。



どう考えても、ピッチャーが悪かった時点でそのチームの負けが決まる。




でも、そんな大事な役割を背負う人の心の中をのぞいたら、自分を犠牲にしてでも、チームを勝たせてやりたいっていう気持ちで溢れていると思う。



自分なんかいらない。仲間のために頑張りたいってきっと思ってる。だから、フォアボールせずになんとか、敵と勝負するピッチャーの中にある思いで、仲間たちが一致団結する。

俺たちも、ピッチャーのせいになんかせずに、どんなボールが来ても、守ってやるっていう気持ちが芽生えるから、野球は結構好き。




サッカーやバスケっていうのは、そういう誰かを守ろうとか、誰かが頑張っているから俺も頑張ろうって思うようなことってないような気がする。



どんな作戦を立てて、どんな風に試合が行われているのか、それが土壇場なのかどうかの見極めが素人の私には、難しい。



でも、野球は、日本らしいスポーツだと本気で思う。


なぜなら、自己犠牲の文化だから。



日本人は昔から、誰かのためにって思いながら生きている。



傷つけることはしたくない。傷つくなら、自分がって思うように、自分が誰かのためにって思うような行動ばかりをする。


なぜ、そう思うのか。



最近知ったのだが、山本五十六氏がこう言っている。


苦しいこともあるだろう
言いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが
男の修行である



って。



誰かを守るための文化だなって思う。



日本人の中には、特攻隊で亡くなった人もいる。



死にたくなんかなかっただろう。でも、それも全部、日本のために亡くなった人たちが確かにいるんだ。




そう考えると、こんなに人のために生きている人間って日本人だけなんじゃないか?とすら思う。






それで、そんな風に生きた人たちの先に、キャプテンはつらいぜという作品が発表されて思うのは、今の小学生たちの悩みが大人になった自分にも心に突き刺さるような物語であるということ。



要約すると、主人公がいて、野球するメンバーがそれぞれの都合のために、辞めていく。そんな中、キャプテンになってしまった主人公が、ピッチャーを探す。しかも、ヤンキー。小さいときは、めちゃくちゃ遊んでいたのに、何かのきっかけがあって、ぐれた。そのヤンキー、万引きとかして、学校もさぼりつつある。

でも、一人ぼっちで、ボールを投げている姿を同級生に見られる。


しかも、廃墟のビルで。

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逆境

それが成長なんだろう。


去年、一昨年、その前の年は、占い通り本当に厳しい試練の連続だった。


こんなに筋書き通りトラブルが起こるのか?と思えるくらい、人からああだ、こうだと言われた。

今もなお、その苦しみが襲ってくることもあるけれど、でも、まだなんとかやれている自分がいる。


何度も泣いたし、何度も体が痛くなって、助けを求めたこともあった。

だけど、それに関して、納得のいく回答は得られなかった。


どれもこれも、お金のかかることばかりで、どうしようもない自分でなんとかしていくしかなかった。


あまりに心臓が痛くて、不整脈起こして、しんどいって誰かに伝えても、その誰かには伝わらなかった。


だけど、本当に限界が来たら、しゃがみ込んでしまうことを知った。



夏の暑い日に無理をして、意識がなくなりかけたこともあった。その時、だらだらと汗をたらして、一歩一歩を進めていかなきゃ、ゴールには到達できない。あまりに、辛くて、泣き出しそうだったけど、木陰で休んで、何とか希望を持って歩いた道はやがて自分の細胞になり、弱虫だった私をなんとかここまで運んでくれた。




やって良かったと思う。やるしかなかった。誰かに物を強く言うには、それくらいした後じゃないと言えない。


命張って、頑張ってやっている自分を作っておかなきゃ、誰かに何かを言えるような自分にはなれなかったと思う。




そして、死にかけていた自分に、見ず知らずの人が、塩のタブレットくれたり、もう一回しゃがみこんでいたら、見ず知らずの女性が、背中をさすってくれた。



泣いている場合じゃない。一歩を進めるんだ。なんとか、最後までやるって決めたんだ。



そしたら、色んなことに対して、ぶつかっていける強さが少しずつ生まれてきたように思う。



だから、やる前から、どうのこうの言うより、やった後で、何か変化があったことを心の中に生み出す訓練が必要だって思った。



昔の人は、車もなければ、機械もない。水も川に行かないとない。洗濯ものだって、農作業だって、人の手でやってきた。


その手はひび割れて、腰は曲がり、痛みと戦い、何度も何度も挫けそうになる気持ちを自分の父母を観て、なんとか、前を向いて生きようとする強さがあったんだろう。



体を本気で動かしてみれば分かる。



痛みが出て、熱が出て、それでも、やらなきゃ明日が来ない。そんな気持ちを何度も何度も繰り返して、一人前になっていく。



本気で何かをやることの意味が分かる。



体を動かさずに何か言おうとすると迷いが出る。自分でやってみて、どうか。それが確かなことかどうか。

一流に教えられるのと素人に教えられるの、どっちが良い?プロになるか、ならないか。


自分に対して問うレベルが上がれば上がるほど、気持ちが上昇すればするほど、やる気や負けん気、根気、などが知らず知らずのうちに膨らんでいくんだろう。



体を動かしてみて、やれるかどうかを試してみて、ようやく自分の考えが正しいかどうかが分かる。



いつも私が考えるのは、距離で考える。



行きたい場所がどこなのか。今のここからどこに行けるのか。どれだけの我慢ができるのか。


きっとできる。やれる。っていう気持ちだけは、自分が知っている。


どんな状況に陥っても、その身に起きたことの全部の対処法を知っているから、続きが今日ができた。


だから、やってみて、その日の自分はどうなのか。それが、全部なんだよ。




次の瞬間、変わっていっている自分を知ること。




一秒一秒、変わる自分を味わうこと。





最近、だらしなくなって、攻めることが少なくなった。あそこに行きたいだとか、あそこの景色が見たいだとか思ったら、すぐに行動に移せていたのに、なかなか動けずにいる。



だけど、そんな自分に言葉をくれる人がいて、納得したことがある。




それは、空手を教える先生が、弱い子供を強くするためにやること。


心技体のうち、体を一番先に、教える。


まず、正座をする。


背筋を整え、頭をぴんと天に向かってまっすぐにする。


そして、お腹を骨盤の上に乗せ、呼吸を整える。


やってみれば分かる。気持ちがだんだんと変わるってこと。



体が変化していくってこういうことですよって教えてくれた。



なんか、思うんだけど、変わりたくない、変わりたくないって言っている子って、痛い目に遭うって思っているのかもしれないけど、違う気がするんだ。


ほんのちょっとのことで変わること、その感覚を何度も何度も味わえば、変わることってこわくないと思う。


ほんの少しの変化が、ものすごい変化をもたらし、最後、自分が完成していく。


だから、無理やりやるんじゃなくて、変わる感覚を教えてあげれば、怖くないと思うんだ。



自転車に乗るように、初めはその感覚が分からなかったけど、やりながら、徐々に強くなっていく。



それがきっと、強くなる秘訣。

自分より弱かった子がいつの間にか強くなっていく

それが成長なんだろう。


去年、一昨年、その前の年は、占い通り本当に厳しい試練の連続だった。


こんなに筋書き通りトラブルが起こるのか?と思えるくらい、人からああだ、こうだと言われた。

今もなお、その苦しみが襲ってくることもあるけれど、でも、まだなんとかやれている自分がいる。


何度も泣いたし、何度も体が痛くなって、助けを求めたこともあった。

だけど、それに関して、納得のいく回答は得られなかった。


どれもこれも、お金のかかることばかりで、どうしようもない自分でなんとかしていくしかなかった。


あまりに心臓が痛くて、不整脈起こして、しんどいって誰かに伝えても、その誰かには伝わらなかった。


だけど、本当に限界が来たら、しゃがみ込んでしまうことを知った。



夏の暑い日に無理をして、意識がなくなりかけたこともあった。その時、だらだらと汗をたらして、一歩一歩を進めていかなきゃ、ゴールには到達できない。あまりに、辛くて、泣き出しそうだったけど、木陰で休んで、何とか希望を持って歩いた道はやがて自分の細胞になり、弱虫だった私をなんとかここまで運んでくれた。




やって良かったと思う。やるしかなかった。誰かに物を強く言うには、それくらいした後じゃないと言えない。


命張って、頑張ってやっている自分を作っておかなきゃ、誰かに何かを言えるような自分にはなれなかったと思う。




そして、死にかけていた自分に、見ず知らずの人が、塩のタブレットくれたり、もう一回しゃがみこんでいたら、見ず知らずの女性が、背中をさすってくれた。



泣いている場合じゃない。一歩を進めるんだ。なんとか、最後までやるって決めたんだ。



そしたら、色んなことに対して、ぶつかっていける強さが少しずつ生まれてきたように思う。



だから、やる前から、どうのこうの言うより、やった後で、何か変化があったことを心の中に生み出す訓練が必要だって思った。



昔の人は、車もなければ、機械もない。水も川に行かないとない。洗濯ものだって、農作業だって、人の手でやってきた。


その手はひび割れて、腰は曲がり、痛みと戦い、何度も何度も挫けそうになる気持ちを自分の父母を観て、なんとか、前を向いて生きようとする強さがあったんだろう。



体を本気で動かしてみれば分かる。



痛みが出て、熱が出て、それでも、やらなきゃ明日が来ない。そんな気持ちを何度も何度も繰り返して、一人前になっていく。



本気で何かをやることの意味が分かる。



体を動かさずに何か言おうとすると迷いが出る。自分でやってみて、どうか。それが確かなことかどうか。

一流に教えられるのと素人に教えられるの、どっちが良い?プロになるか、ならないか。


自分に対して問うレベルが上がれば上がるほど、気持ちが上昇すればするほど、やる気や負けん気、根気、などが知らず知らずのうちに膨らんでいくんだろう。



体を動かしてみて、やれるかどうかを試してみて、ようやく自分の考えが正しいかどうかが分かる。



いつも私が考えるのは、距離で考える。



行きたい場所がどこなのか。今のここからどこに行けるのか。どれだけの我慢ができるのか。


きっとできる。やれる。っていう気持ちだけは、自分が知っている。


どんな状況に陥っても、その身に起きたことの全部の対処法を知っているから、続きが今日ができた。


だから、やってみて、その日の自分はどうなのか。それが、全部なんだよ。




次の瞬間、変わっていっている自分を知ること。




一秒一秒、変わる自分を味わうこと。





最近、だらしなくなって、攻めることが少なくなった。あそこに行きたいだとか、あそこの景色が見たいだとか思ったら、すぐに行動に移せていたのに、なかなか動けずにいる。



だけど、そんな自分に言葉をくれる人がいて、納得したことがある。




それは、空手を教える先生が、弱い子供を強くするためにやること。


心技体のうち、体を一番先に、教える。


まず、正座をする。


背筋を整え、頭をぴんと天に向かってまっすぐにする。


そして、お腹を骨盤の上に乗せ、呼吸を整える。


やってみれば分かる。気持ちがだんだんと変わるってこと。



体が変化していくってこういうことですよって教えてくれた。



なんか、思うんだけど、変わりたくない、変わりたくないって言っている子って、痛い目に遭うって思っているのかもしれないけど、違う気がするんだ。


ほんのちょっとのことで変わること、その感覚を何度も何度も味わえば、変わることってこわくないと思う。


ほんの少しの変化が、ものすごい変化をもたらし、最後、自分が完成していく。


だから、無理やりやるんじゃなくて、変わる感覚を教えてあげれば、怖くないと思うんだ。



自転車に乗るように、初めはその感覚が分からなかったけど、やりながら、徐々に強くなっていく。



それがきっと、強くなる秘訣。

客観視しながら自分のことを少しずつ知っていく方法

昨日、改めて、言葉にしてみて、驚くべきことが分かった。


そんなの当たり前でしょ?ふつうでしょ?って言われてしまうかもしれないけど、ちゃんと言葉にして分かったことだから、ここに書き留めておきたい。


では、どんなことか。


小さい頃は、なんでもできる。後でやるから大丈夫。なんて思ってた。


でも、年齢が上がるにつれ、みんなと自分との差に大きな差ができはじめてて、自分は後でやってもみんなより上になれるなんてどっかで思ってた。


でも、思考力って言うのは、たった一日で変わるものではなく、だんだんと時間をかけて、ゆっくりとじっくりと変っていくものだって、思った。


昨日、言葉にして初めてはっと気が付いたのは、一日や二日、三日、一週間、がんばったことは、やがて、プラスにどんどん積み重なっていき、そしてその先に前の自分では考えられないようなことができるようになっていくようになるんだってこと。




一日、勉強しましたって言う人と、一年、勉強しましたって言う人、どっちが強いと思う?



時間をかけてやった人の方が、その分、強くなっているって思う。




最初はやる気満々で、意気揚々に、進んでいくが、やがて、疲れが出て、満身創痍、休むところもなく、とぼとぼ歩いて、死にそうになりながら、どんどん進む。途中、やめてしまおうか、こんなことをやってどんな意味があるんだ?何の意味があるんだなんて疑心暗鬼になって、でも、そんな風に、やめたくなる理由は、やればやるほど、出てくる。


それでも、やりたいと思う気持ちを持ち続けること、それが、情熱になるんじゃないか?



できないなんかない。きっとできるって弱々しい自分が本気でそうなるために思えるもの、それをするために、練習があるんじゃないか?



自分が決めたことをやり遂げられる力を後から裏付けるためにあるもの。


それが、自分を育てる材料になる。


だから、何かを成し遂げた人にしか得られないものがあるように、誰かが何かをした過去があること、それが、今を生きる上で、知るべきことなんだと思う。



世界は生まれる前からあった。自分が生まれてくるまでの時間にあったことを知ること。それが、自身を手助けするものなんだろう。


だから、自分のやっていることと誰かのやっていることを比べた時、自分がいかにダメか気付く。



同じ人間だったんだ。ただ同じことをしてこなかっただけ。その過ちに早く気付けってまるで、昔の人は言っているように思う。

大人たちが作ってきたものから分かることがある

私には4歳年上の兄がいる。


私が生まれる前、兄は、祖父母に預けられていた。

いつ聞いた話かは忘れたが、とにかく、兄は、道路が好きで、おじいちゃんが自転車で兄を連れて見に行ったことが何度もあったと聞いた。


道路なんて、江戸時代の頃にはなかった。

明治維新後だろう。それが作られてきたのは。


田中角栄の日本列島改造の一声で、日本全土が変わった。




思うのだが、戦争で負けた日本は、敗戦国として、欧米の影響を受けて、今日に至る訳なのだが、三島由紀夫が日本がスラム化すると嘆いていたとどこかの記事で読んだ気がする。


アメリカを見ていれば分かるだろう。



黒人差別の実態を英語の授業で習った。


バスに乗ってはいけないだとか、黒人は白人より劣っているとか、そういうものを習ったときは、いまいちよく分かっていなかったが、大人になればなるほど、見えるものがある。




差別する心があるのは、どうしようもないものなんだよな。人と人とを比べれば、どこが秀でていて、どこかが秀でていない。


汚いものは悪くて、汚くないものは良い。

清潔願望の時代


だから、病気が蔓延する。本来、人間って言うのは、強いものなのに、なんでもかんでも、きれい、きれいにするから、除菌ばかりして、自分の体内にある大切なものですら、壊そうとする。



だから、良くない。



ある程度の汚さがなければ、強さは芽生えない。



人と同じ。




嫌な奴がいなければ、成長はないんだよ。問題が起こらなければ、解決する術すら見つけようとしないように、何もないことなんかないんだ。




誰にだって、悩みや迷い、苦しみがあるように、それと同じくらい何かがあるんだと後になって思う。



最初は、できないだとか、理由並べて、やらないための言い訳をかき集めて、自分はこのままで良いとかなんとか言うけど、実際、そんなことはない。


いつかは変わらなきゃいけないし、いつかはやらなくちゃいけない日が来る。



今までやってもらっていたことを、後の世代が引き受ける。



なぜ、敗戦後、戦争を題材とした映画やアニメが作られたのか、そこには、自国民の誇りがあったからだろう。



伝えたいことがあったんだ。知らせたいことがあったんだ。分かってもらいたい思いがあったんだ。



だから、作ったんだ。どれだけお金がかかろうが、借金しようが、一人でも多くの人と分かち合いたい思いがあったんだろう。



戦争が終わった後は、物欲、性欲、名誉欲が神様になった。


でも、それは、アメリカの文化で、日本の文化ではない。


元々日本にあったのは、情緒だ。



思いやりの精神であったり、人に対する優しさであったり、恩であったり、仲間に対する気持ちだったんだ。



確かに、そんな文化の中で生きてきた日本人の中にも、おかしいと思うようなことはたくさんあった。



ネットの中の事件を読み合わさると、人が人を殺さざるを得ない状況が確かにあること、今もなおそれが続いている可能性があること、それが書かれていた。



親殺しは、死罪。だが、親を殺さないと生きられない娘も確かにいたということ、それだけは忘れたくない。



どんなけしんどかったか。どれだけ嫌な思いをしたのか。それだけはちゃんと知っていた方が良い。



確かに物事の良い面や悪い面、何かを切り取って、部分だけを考えても意味はない。



良いことの中には、悪いことも含まれているし、悪いことの中には、良いことも含まれている。


黒の中に白があるように、白の中に黒がある。


そのどちらか一方が多ければ多いほど、それが必然として起こる。



そこに向かおうとする気持ち、それがなければ、今までと同じ通りの日常をひたすら繰り返すようになる。


だから、自分の道は自分で決めるしかない。


他人は操ろうと思って操れない。自分ですら操れない部分があるんだから。


せめて、こうしようと思ったことだけは忘れないでいてほしい。

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