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思索の道程  闇教育  その二



 このような『闇教育』は決して特別な例ではなく、むしろ「一般的な例」であると考えるべきである。つまり近代教育と言うものそれ自体が、ある程度まではこのような抑圧性を内包してると考えるべきなのだ。
 アリス・ミラー本人は非常に「反教育」的な立場をとっているが、僕自身はそこまで極端でもない。あるスクールカウンセラーが「カウンセリングは『無意識』を育てるものですが、学校は『意識』や『自我』を育てる場所」と言っていたのに納得したからである。

 ただし近代教育の抑圧性それ自体は、近代社会全体の抑圧性と根本的に関わっており、その観点から考える必要があると思っている。しかしここでは問題を「闇教育」だけに絞って、ここではアリス・ミラーがまとめた『闇教育』の基本的な態度を引用する。

「1、大人は自分が面倒を見てやってる子どもの支配者(であって召使いではない!)である。
 2、大人は何が正しく何が不正かを神のごとく決める。
 3、大人の怒りは本来、大人自身の内の葛藤から生まれるものである。
 4、しかも大人はその怒りを子どものせいにする。
 5、両親は常に庇われ保護されなければならない。
 6、子どもに生き生きとした感情が息づいていては支配者に都合が悪い。
 7、できるかぎり早く『子どもの意志を奪ってしまう』ことが必要である。
 8、すべてはとにかく幼い時期に行われなければならない。そうすれば子どもは『何一つ気付かず』大人を裏切ることもできないから。」

 というものである。そして「闇教育」の内容面での特徴も要点を挙げている。

「『闇教育』はまた、子どもたちに最初から、徹頭徹尾偽りの情報と見解だけを教え込むというやり方もします。これらの情報は世代から世代へと受け継がれ、証明不能というよりはむしろ明白に誤りであるにも関わらず、子どもはそれをうやうやしく相続するのです。そのような偽りの見解の一例を挙げましょう。

 1、義務感によって愛情が生まれる。
 2、憎悪はそれを禁止すれば殺せる。
 3、両親はただ両親であるがゆえに尊敬されなければならない。
 4、子どもはただ子どもであるがゆえに尊敬されない。
 5、従順は人を強くする。
 6、高い自己評価は害がある。
 7、自己評価が低ければ人に対して親切になる。
 8、優しさは害になる(猫かわいがり)。
 9、子どもの求めに応ずるのは間違っている。
10、厳しさと冷ややかさは世に出るために役にたつ。
11、口先だけであれ感謝してみせるほうが、正直にして有難がらないよりましである。
12、ふるまいの方がありようよりも大切である。
13、両親も神も侮辱に耐え得ない。
14、身体は不潔でいやらしいものである。
15、感情の激しいのはよくないことである。
16、両親には衝動も罪もない。
17、両親はいつでも正しい。   」

 なかにはキリスト教圏に特有の問題意識もあって、すぐにこれが日本の土壌に当てはまるとは言いがたいものもある。しかしその多くの項目は、誰かがどこかで口にするのを耳にしたことがあるような事ばかりでないだろうか?
 
 僕がこの闇教育の内容を見て非常に興味深く思うのは、これが家庭内の親子関係に留まらず、ネット加害者やモラルハラスメント加害者にも共通する特徴を持っていることである。いわゆる「社会の厳しさを教えてやる」「人生は悪意に満ちている」型の世界観である。
 抑圧された経緯を持ち、自身の心に空虚を抱え、またそれに気付かないでいる人々の多くが、多分「よかれと思って」そういう世界観を振りまいている。それは家庭内という限定領域に留まらない、人間の心にある攻撃衝動や支配欲、優越願望一般の問題とつながっている。

 無論、誰でも攻撃衝動や不満を抱えてるのであって、100%加害者にならないと言えるような人は存在しない。問題は恐らく、どれくらいそれを自覚するか、そしてそれをちゃんと正視した上で乗り越えていこうとするかと言う点にあると思うのだ。
 ただし間違えてはいけないのは、その「乗り越え」が感情を抑圧したり無関心になること、「弱さ」を克服することなどではないという事である。アリス・ミラーはこう指摘する。

 「弱いものである子どもを軽蔑し迫害すること、および生命力豊かに創造し、情熱に浸るようなところがもしあれば、それが子どもの内部にある場合であれ自己自身の内部にあるものであれ構わずに抑圧するというやり方は、我々の生活のあまりにも多くの領域で行われており、私たちはもはやそれに不感症になってしまっていると言っても構わないほどです。 
 人により立場によって、熱意も違えばやり方も違うとはいえ、しかしほとんどどのような人たちにも、子どもらしさ、すなわち弱く、力なく、頼りない性質とはできる限り早くおさらばして、なんとか大人らしい、自立した、しっかりとした性質になり、人に尊敬してもらおうとする傾向があります」

 僕自身も恐らくは部分的には誤解していたことを、今は考え直している。
 
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思索の道程  闇教育  その一



 抑圧的な教育理念、というのは実は個人の資質等の問題であると同時に、歴史的に形成された制度なのだということが言える。それは二百年以上も歴史をもつ教育学の産物であり、カタリーナ・ルーキュイはそれを『闇教育』と呼んだ。

 アリス・ミラーは子どもが受ける抑圧の実体を考察するために、その『闇教育』の例を豊富に参照している。過去においては教育は家庭で行われるものだったので、その教育現場は家庭内におけるものと変わりがない。

『もしあなたの息子が、あなたがそうしろと言ったから勉強しないのであったり、あなたに逆らうために泣いたり、あなたを怒らせるために悪さをする、つまり「強情を張っている」のであれば、
  その時は殴れ、悲鳴を上げるまで、
  やめて、やめて、パパ、いや、いやと!
 なぜならこのような不服従はあなたの人格に対する宣戦布告と同じであるから。あなたの息子はあなたから支配権を奪おうとしているのだから、あなたは力を持って制し、あなたに対する尊敬を揺るがぬものにしなければならない。そうでなければ教育などとてもできはしないのだ。
 折檻する場合には手加減せず、息子に、あなたこそ主人なのだという事を思い知らさせなければならない』

 これは1752年にJ・G・クリューガーなる人物の書いた『児童教育の考察』という書物の一説なのだそうである。つまりこれは「教育書」として書かれたものなのだ。これに対しアリス・ミラーはこんな風に述べている。

「この時代にはまだすべてあけっぴろげに語られています。時代が下るにつれて、教育する者の支配欲ははるかにうまくごまかされるようになりました。折檻することは子どもの幸福にために不可欠なのであるという理屈が大変洗練された形でこしらえ上げられたのです。
 しかしここに上げた人々はまだ、はっきりと『支配権の奪取』であるとか『忠実な臣下』等と言っていますし、その言葉は、残念ながら今も当時と変わらぬ真実を見事に言い表しています。
 折檻する動機は今も昔も変わってません。両親が自分の子どもを相手にして、かつて自分の両親に差し出さねばならなかった権力を取り戻そうと戦っているのです」

 『闇教育』の方法論は折檻と言う物理的な手段に頼ったものばかりではない。そこにはむしろ子どもの「自尊心を折る」ことが意図されているようなものもある。

『いつでも一番よい効果を上げるのは生活そのものによって思い知らせるやり方である。であるから、うぬぼれの強い子どもは、教師が一言も言わなくても自分の力の足りないことを痛感するような目に合わせるのがよい。
 たくさんものを知っていることを自慢している子どもには、その子の力ではまだとても手に負えない課題を与えよ。そして無理に背伸びをしていても放っておけ。ただしそういうことをさせる場合には決して途中で止めたりいい加減にしてはならない。
 (中略)
 最後に見せかけばかり善良そうにしてる者に対しては、折にふれてそういう子どもがいかにもろく、頼りないものであるかをほのめかしてやるがよい。百万言を費やして説教するよりも、子どもの死体を見せたり、大商店の倒産の物語を教えてやった方がはるかに子どもの心を滅入らせる効果がある』

 これは1851年に書かれたK・G・ヘアガングが編纂した『教育学実用百科』だそうである。子供の心を「滅入らせる」ことが、あからさまに教育的な意図として描かれている。重要なのは「大人と子供」の非対称的な関係を叩き込むことであり、自分に子供を服従させることなのである。

「子どもに理由などを説明するようになってしまったら、一体どうやって従順を教えればいいのか、私には見当もつかない。理由を説明するのは子どもを納得させるためだと言うが、しかしそのような形で納得した子どもは、我々、大人に従うのではなく、ただ単に教わった理由に従っているだけなのだ。
 より高い知に対する敬いの代わりに自分勝手な自己判断への信頼が登場してくる。命令を下す際に理由を説明するような教育者はそれによってまず、自ら子どもの側が反対理由を述べるのを正当なことであると認めてしまうので、結局、教師と生徒の位置関係が崩れてしまうことになる。
 生徒が教師と交渉するという形になって、教師と対等の立場で物を言うようになるからである。しかしそのような対等関係にあっては決して敬いなど生まれてくる余地がなく、敬いのないところでは教育もうまくいかない』

 これは1852年、ケルナーという人物の著作のようである。
 大人のいう事や教師のいう事は、「その内容いかん」に関係なく尊ばれるべきだ、という立場である。これが単に自己の支配欲や優越感を満たすために、弱い立場の者に対してなされる理不尽な要請であることはすぐに見てとれるだろう。しかし実際には、こういう風に振舞う人は現代でも少なくない。
 そもそも本来の『尊敬』の念は、「自分でものを考え」「対等の立場にあってなお」相手の言動を評価できるところにしか現れない。それに欠けているものは『信仰』であって、多くの「指導者」が、自己に対する『尊敬』ではなく『信仰』を求めているということが言えるだろうと思うのである。 

思索の道程  正当化の論理  その二



 その一で例にあげた父親の論理は、簡単に言えば「『社会の厳しさ』を教えてやる」という類の論理に類似する。であると同時に、それは「結果的によかったのだから、自分のやったことは間違ってない」という正当化でもあった。

 少し前に韓国のアイドルが、ネットでの中傷を苦に自殺する事件があった。しかし中傷的な書き込みは、彼女が死んだ後もなお書き込まれ続けたという。ここでは加害者は被害者が死んでもなお、罪悪感を覚えるところがない。
 このような心理はいかにして成立するのか? テレビのインタビューを受けた書き込みの一人の中年男性は、「私は彼女のために、いい事をしたんだ」と答えていた。ニュース記事はこう伝えている。

『悪質な書き込みをして告発された人を逮捕してみると、ほとんどが内気で小心で「まさかこの人が?」と驚いてしまうという。なかには大学教授、医者、企業の役員といった社会的に地位の高い人もいて、言うべきことを言っただけだと開き直る人すらいるらしい。こういう人たちはインターネットでデマや悪口を堂々と書き込むことで「私は偉い人なんだ、強い人なんだ」と思い込んでしまうそうだ。』
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT13000029012007

 このような攻撃は基本的に自己の能動感や優越感を得るためになされるので、どんなに「言うべきことを言っただけ」などと真実を知っているような風を装ってみても、基本的には自己の卑小感を埋めるために他者を傷つけるにすぎない。
 同じ傾向はモラルハラスメントの加害者にも言える。フランスの臨床家、マリー=フランス・イルゴイエンヌの著作から引用してみよう。

「たとえば『自分が偉く重要な人物だと思っている』ということについて言えば、モラル・ハラスメントの加害者は何につけても自分が正しいと思っている。その結果、いわば自分が『常識』であり、真実や善悪の判定者であるかのようにふるまう。
 そのため周りにいる人々は加害者のことを道徳家のように思って、加害者が何も言わなくても、自分が悪いことをしてるような気持ちになることがある。いっぽう加害者の方は、自分の基準が絶対的なものだと考え、その基準を周りの人々に押し付ける。そうやって、自分が優れた人物であるという印象を与えるのだ。
 だが、そこで加害者が口にするのは本物の道徳ではなく、人生は悪意に満ちているというモラル・ハラスメントの加害者に特有の確信である」(『モラル・ハラスメント』)

 モラルハラスメントの場合は、ネットのような関節媒体ではなく、直接的な攻撃である。しかしその攻撃の本質と、その加害の正当化には共通の傾向が見られる。つまり「真実を教えてやった」というような言動である。
 しかしその加害者のいう「真実」だとか「人生」などは、多くの場合「人生は悪意に満ちている」に類する、人間の不信に基づく世界観であるにすぎない。それはつまるところ単にその加害者の内的確信であるにすぎず、しかもその行動は「相手のため」などではなく、その事によって「優越感を得るため」である。

 その内的動機がエゴイスティックなものである以上、その被害者が結果的に「立ち直ったか否か」は、正当化の根本的な理由にはならない。加害者は自己の優越感のために加害したにすぎず、相手を立ち直すことなど基本的には考えてない。
 この「相手のためか否か」の境界線を分けるのは、実際に被害者が傷ついたときに対する加害者の反応である。基本的に自己のために他者を加害する者は、相手が傷ついていても「謝罪をしない」。

 本来的に「相手の成長が目標」である場合、明らかに間違った関わり方や行き過ぎた教育を施した場合には、その行為が『その本人のため』である以上、間違いを認めなければいけない。
 しかしこれらの加害者の特徴は、「間違いを認めない」し、また「謝罪をしない」。また見てきたように、それどころか「加害を正当化する」のである。つまりその時点で、むしろ逆説的に、その関わりは自己中心的な「攻撃」に過ぎなかったことを露呈させると言ってもいい。

 非常に極端な例では、DV加害者の言い分がある。DV加害者は相手に暴力をふるっておきながら、「俺を怒らせる、お前が悪い」と原因を被害者に還元する。このような理不尽さが、基本的に加害者の正当化言説の中には潜んでいる。
 あえて文脈を拡大して言っておくが、元占領国が被占領国に対して「自分たちの占領のおかげで、社会が進歩した」などと言うのは加害の正当化以外の何物でもない。それを聞いた被占領国の人々の心境は、前回引用した父親の正当化を聞いたときの、息子の心境と同じだろう。つまり呆れの後に、怒りを感じるはずである。

東京マラソンの参加者

東京マラソンの参加者は32000人だったそうです。
おそらく、この数字に捏造はなさそうです。普段は渾身を欲で練り上げたように俗的な身の振り方をしていながら、実はおとぎ話大好きな自分としてはやや物足りなく、32万人くらいにしとけばいいのに・・・などと思うのですが。
去年などは、なにかと不手際を揶揄する連中が多く、何を言われるかわからないのできっちりやりました、といったところでしょうか。つまんねえなあとも思うのですが、そこをちゃんとやらないと失業してしまう人とかもいるので仕方ないっちゃ仕方ないです。

昨日、自分は子供と上野動物園へ行っていました。子供ももう動物園という年齢ではなく、季節も動物園観戦という季節ではなかったのですが、「もう・・というわけではない」のなら次はないかも知れないから、という理由で行きました。
『東京マラソン2008』の影響で道は混んでいるのかなあと思ったのですが結構空いていていました。

上野はコースから少し離れていたのですがちょっと行けば、浅草界隈まで行けば、観戦できたのですが、行きませんでした。これが、
「今年の参加予定者は当日飛び入り参加も含め320万人を予定しています」とか
「ゲスト参加としてサルコジの奥さんが出走するかもしれません」とか
吹いていれば行ったかも知れません。

魚屋はそんな人達の集まり

会社に来るお客さんくらいには吸わせろと。
「お客さん来ていらっしゃるのにたばこも吸わせないなんておもてなしの心意気に欠ける」
そんなことを喫煙者がいっても「おまえが吸いたいだけだろ」で切って捨てられます。
「おもてなし・・」だと?。食品を扱っている会社なので禁煙するといっているのに客だけ吸ってもよいというのはどんな了見やねん。
①外国に行って
②その国の人に何かをお願いする時、日本語で話して
③現地の人に「ちょっとわからないですけど」といった表情をされて
③「何で日本語わからないんやね」ブチ切れる
④「おれは日本人だぞコラ」とさらに切れる
みたいなもんやろ。

そんなことを思われてしまうと心配するのは、①自分が外に行ったときにそんなことを言ってしまう人=海を介して世界と繋がっている、グローバルな職業である魚屋にあるまじき輩。
もしくは、②もっともらしいお題目を掲げてただ自分が吸いたいだけのひと。
特に②はやめて欲しいです。魚屋はそんな人達の集まりでなないので。

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