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特撮最前線  ゴジラ④  知性への批判



 『ゴジラ』という作品で最も恐ろしいのは、東京を破壊し火の海に変える「大怪獣ゴジラ」ではない。この作品で最も恐ろしいのは、それに伴って表れた人間の『知性』の本質にこそあり、それこそが作品『ゴジラ』の真のテーマだと言っても過言ではない。

 『ゴジラ』はそもそもの人物配置に、奇妙な点がある。まずゴジラ出現の調査に訪れる山根博士、その娘の恵美子、そしてその元婚約者でありゴジラを最終的に消滅させる悪魔の兵器「オキシジェンデストロイヤー」を開発していた芹沢大助。これらの人々がこの物語の主要人物なのは判る。
 だがしかしこの作品の「主演」は、山根博士でも芹沢大助でもない。恵美子の現在の恋人の尾形秀人がこの物語の「主役」なのである。しかし大学教授職をする父と元婚約者に対して、この主役の青年は一介のサルベージ会社の所員でしかない。このような不均等な人物配置は、なぜなされたのだろうか?

 その事を考える上で、まずこの作品のなかで「知性」というものがどのように描写されたかを見なければならない。まず象徴的な山根博士の登場シーンは、ゴジラ出現の大戸島調査の場面から始まる。
 ゴジラが出没した後には高濃度の放射能残存物が停滞しており、島民はその場所から避難を強いられている。山根博士はしかしその跡地で、三葉虫などの古代生物を「生きたまま」発見するのだ。

「これは凄いことだ」驚きに目を見開く山根博士に対し、ガイガーカウンターを手にする調査員が、「先生、素手では危険です」と声をかける。しかし山根博士は自らの危険など全く眼中になく、ガイガーカウンターがジージーと音をたてるなかを目を開いて調査して回るのである。
 ここで見られる山根博士の「知性」は、その目的や対象研究のためには自身の危険も省みれないほどの客観性を欠いたものになっている。つまり対象に捉われて、一部では盲目的とすら言っていい。

 この傾向はゴジラが東京に出没し、街を焼け野原にしても持ち越される。山根博士は「皆、ゴジラを殺すことしか考えとらん」と言って憤慨する。主役の尾形は、「先生は生物学者だから、ゴジラを生かしたまま捕獲したいんだ」と心情を代弁する。
 しかし街は既に、壊滅的な被害が出た後なのである。いかにゴジラの生命力が、今後の生物学に貢献を成すとしても、それを第一目的におくことのこの盲目性を、物語は鋭く描く。

 そしてもう一つは言うまでもなく、「悪魔の発明」であるオキシジェンデストロイヤーである。芹沢はこの秘密を恵美子に打ち明けた後、この自分の知性が作り出したものの恐ろしさに苦悩する。
「ああ…どうして僕はこんなものを作り出してしまったんだ!」 芹沢の孤独や苦悩は、戦争被害を受けて帰ってきたこと以上に、自らのなかにその恐怖の根源を見出したことによる苦しみがある。しかしそれが何に使われるか、どういう結果を生むかを考えることなく、目的や対象に向かって盲目的に邁進する。その「知性」のもたらした産物こそが、まさに知性の本質なのである。

 これはもちろん言うまでもなく、核兵器それ自体の恐ろしさを寓意している。その意味では水爆実験によって生まれた「ゴジラ」自体も、「知性によって生まれた怪物」なのだ。しかしことの本質はそれだけではない。むしろそれは近代化、文明化を推し進めてきた近代的知性一般に対する、根源的な批判なのである。
 近代的知性は、その理性的合理精神によって、人類社会を進歩に導くと考えられてきた。しかしその進歩の結果は、二度にわたる大戦、アウシュビッツ、ヒロシマというかつて人類が経験したこともないような悲惨と野蛮の応酬だったのである。

 この事実と向き合い、戦後には西洋近代社会を見直す作業が始まった。O・シュペングラーの『西洋の没落』がベストセラーになったのも、そういう時代的雰囲気があってのことである(西洋では第一次大戦の頃から。日本では第二次大戦以降)。
 またドイツのフランクフルト学派の二人、アドルノとホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』では、西洋の近代的合理性のなかにこそ、むしろ「野蛮」の根源があることを洞察することが試みられた。またフランスの思想家M・フーコーも、近代的知性が排除と抑圧の側面と表裏一体であることを浮き彫りにした。

 作品『ゴジラ』は、日本でこれらの近代批判の書が流行する、はるか以前に作られた本格的な知性批判の作品である。そこでは近代的「知性」に伴う盲目性と、対象に捉われた情念が背後にあることを見事に看破していると言える。
 その意味で物語の主役には二人の学者ではなく、一介のサルベージ会社の所員でなければならなかった。そうでなければ、その知性の盲目性を外部から描くことはできない。

 芹沢大助は片目を戦争にやられ、ずっと眼帯をつけた姿で登場する。その知的な面立ちにアンバランスな片目を隠した威容は、この作品の恐ろしさの根源を我々に見せ付ける。その片目は自らの知性の恐ろしさを見つめたために潰れたか、あるいはそれから目を背けなければならなかったために隠されているのだ。
 芹沢大助は最後に人類の生み出した怪物ゴジラを倒すために、自ら生み出した悪魔の兵器オキシジェンデストロイヤーを使うことを決意する。そして芹沢は自らの知性の産物と共に心中することを選ぶのだ。『ゴジラ』シリーズのなかで、人間がゴジラを倒すのはこの最初の作品だけである。

 しかしこの「最後まで見届ける」芹沢の行動もまた、知性という情念に捉われた者の行動である。『ゴジラ』の有名なシーンで、向かってくるゴジラに逃げもせず、実況中継を続けるテレビマンたちの描写がある。
 「あ、こちらに向かってきます、もうダメです。皆さん、さようなら!」と言って、ゴジラに鉄塔ごと倒されるテレビマンたちは、まさに最初の山根博士同様、自らの危険性にも盲目的な「捉われた」人々である。我々は「ゴジラ」の恐ろしさ以上に、その「人間」の恐ろしさにこそ震撼するのである。

 しかしこのような最初の『ゴジラ』の透徹した知性批判の精神は、次回作の『ゴジラの逆襲』では、まるで手の平を返したかのように忘却される。
 前作で「ゴジラの保護」を祈念していたはずの山根博士は、ゴジラ撃退のための単純なアドバイザーに成り下がり、最終的には人間たちの立てた計画でゴジラは雪崩に埋められて封じ込められる。

 これは「ゴジラ」という「知性を超えた脅威」に対して、再びその「知性」でもって対抗した、ということである。これでは再度の「知性の復権」が暗示されたにすぎない。
 最初の芹沢の自らの死をかけたゴジラとの心中が、「知性の暴走」に対する自らの批判精神を伴った責任の取り方だったのに対して、これは一つの「後退」とも言える批判精神の欠落である。これ以降の『ゴジラ』シリーズには、最初の作品『ゴジラ』のような鋭い批判意識は二度と現れることはなかった。
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