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思索の道程  『盗まれた手紙』について



 フランスの精神分析家ラカンは、その著書『エクリ』の冒頭に「『盗まれた手紙』のセミネール」という論文を掲げている。これはE・A・ポーの短編小説の解読をしつつ、自らの精神分析の手法やフロイト理解を示した非常に有名な論文である。

 ラカンは「ラカン派」と言われるほどの大きな学閥を作り、またポストモダンの現代思想家のなかでも極めて有名な位置にいた分析家である。その理論の難しさや、その語彙センスの特殊さもあって、ラカンというのは「難解な思想家」の代表みたいなものであった。
 しかし話はこれだけでは終わらない。このラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」に批判を加えたのが、アルジェ出身の非常に高名な哲学者J・デリダだった。その読解はまたラカン以上に難解な語彙センスで、しかし的確にラカンの要点を批判していたのである。

 実はこの経緯に非常に興味をもって強く取り組んだ時期があり、論文も幾つか書いた。「探偵小説」について触れたので、ネタになるかと思って昔の論文を読み返したら、難しくて頭が少し痛くなった。
 何もこんなわけの判らない語法を使わなくても…とか、今では思う。「難解さ」の大半は、語法によるものであって、論理の複雑さに伴うものではない場合も多々ある。そのなかでも若干、読めそうなものから、ちょっと引用してみたい。精神分析の話をしているところである。

    *   *   *

『端的に言えば患者本人は、自分自身に対して整合性のある自己像を意識下では形成しているが、実際にはその整合性から逸脱した体験を抱え込んでいるのである。
 注意すべきなのはその整合性自体の本質的な特質として抑圧機能が働いており、しかも意識自体によっては抑圧という自身の本質的な機能を認識できないという点である。つまりこの場合自身は、自己意識を巧妙に、ではなく、原理上完全に欺いているのである。

 自己意識は整合性のある自己像を構成することによって、普段は自己を完全に欺いている。つまり人は、自身に対して全くの無知であり、原理上その無知を自覚できないのである。この整合性のある構成による誤謬という段階を、「虚偽の謎解き」の段階になぞらえる事ができる。
 患者は自分なりに自身が忌避している事や原因にあたりをつけているが、それは常にはぐらかされた結果の注意であり、「それの隠しているものが覆われているのを見ていると思い込むまなざし」でしかない。この場合、メタ自己的な反省意識自体が、それの反省できない領域によって欺かれているのである。

 では分析医は何をする者なのか。催眠下にある患者は、意識の整合性から少しだけ開放された状態にあり、そこで自身についての断片的な表徴を放出する。分析医とはその断片的な表徴を「読解し」、遡行することによって、その整合性が排除したものを表に出そうとする存在である。
 つまり分析医は、整合性を持つように見える構成のなかに、逆に自らを欺こうとする「虚偽の謎解き」の意図を見出すのである。これは第二の時間の眼差しが「覆われている」と思っていることを見て取ることによる逆説的な遡行といえる。この読解の手続きについてジジェクは次のように書いている。

 「われわれは精神分析家の手続きと探偵の手続きとの類似性に到達したのである。探偵が直面する犯罪の現場もまた、一般に、殺人犯が犯行の痕跡を消し去るために作り上げた偽りのイメージである。
 その場面は有機的でごく自然に見えるが、それは囮であって、探偵の仕事は、まず、表面的なイメージの枠にぴったり嵌まらない、突出している目立たない細部を発見することによって、その場面を変性させることである」(スラヴォイ・ジジェク 『斜めから見る』)

 ジジェクは探偵が、犯罪者の狡知を考慮にいれることによって真実に到達することを指摘している。それは知っているはずのことを知らなかったり、逆に知らない筈の事を知っていたり、あるいは起こるはずべき事が起こらなかったことや、起こった事が起こらなかったかのように見なされることが発端となる。
 それらは整合的に見える事態の解釈のなかで、見落としかねない細部として現れる。犯人は事態をそれ以外の部位を整合的に構成してしまうことによって、逆説的にその意図の痕跡を残してしまうのだ。つまり犯人は真実を知っている。

 探偵は犯人の意図を逆手にとる事で真実に辿り着くのであって、物証や直接の推論で真実に辿り着くのではない。ジジェクはこれを「探偵の全知は、転移の結果である」と言っている。これらのことは意識自体にもそのまま当てはまる。分析医の全知の理由は、患者が全てを知っているという一点に尽きるのである。

(中略)
 
 興味深いのはここでフロイトが「解釈の正しさ」という言葉を使っている点である。フロイトはこの前段で精神分析の展開史を慨要しているが、そこでは初期の精神分析の課題について「精神分析は、何よりもまず解釈の技術であった」と書いている。
 それはつまり本人の自身に対する解釈を超えた解釈をするということ、言い換えればある人物についての既存の解釈から、別の解釈をするということである。それは通常、細部に対する注意、つまり表徴から深層へと移行する「読み」として現れるのである。

 そしてこの次の段階では、その新たな解釈に対する本人の「抵抗」という問題をフロイトは書いている。しかし更なる段階としての「反復」は、「抵抗」とはさらに異なる現象として現れている。「抵抗」の段階ではそれが意識的なものであれ、無意識的なものであれ、患者はそれが少なくとも本人の忌避する部分、つまりは本人に属するものとして認識しているということが言える。
 しかし「反復」の場合、原理上完全に自己体験を忘却している本人自身は、分析医から聞かされる自己体験を、全くの初体験として経験しなければならないのである。「追想」と「反復」の違いはここにあり、反復は原理上既知あるいは自己に属するものであるにも係わらず、それは未知の外来物として受容されなければならない。

 患者は自身のなかにその根拠を見出せないため、当然分析医の「解釈の正しさ」に自信を持てない。解釈の「正しさ」の根拠は対象、つまり自己のなかにしかありえない、にも係わらずその対象にはその根拠が見出せない。患者は正しさに根拠に確信が持てないまま、それを「正しさ」として無条件に受容しなければならないのである。
 この「正しさ」の根拠はどこにあるのか。順を追って見てきたように、それはあくまでそれが本人に自覚がなくとも、本人に係わるものであることが間違いないことである。分析医は恣意的な解釈をしているのではなく、あくまで本人の表徴に基づいているのである。新しい解釈は、最終的には本人に再び還元される。

 ラカンはこのことからこの『盗まれた手紙』の隠された真実を、「『盗まれた手紙』さらには『保管中の手紙』なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り主に届いているということなのです」と結論づける。それは手紙を取り戻した探偵が、再び手紙を元の持ち主である王妃に返すという結末に基づいている。
 しかし対象に対する解釈が対象に還元されるという事それ自体は、真実性の保証に関して何の基準にもなりえない。それは一種の同語反復だからである。では新しい解釈の真実性は、何によって満たされるべきなのか。

 初めに書いたように、ラカンはそれを「二つのまなざしを見ているまなざし」と書いている。つまりそれは「虚偽の謎解き」を経ることによって、その「謎解き」の真実性が保証されているということなのである。
 つまり真の「謎解き」は、本質的に「虚偽の謎解き」を必要としている。それは物語上の必然であるよりは、認識論的な意味での必然性なのである。新しい解釈は、既存の解釈を見通しているが故に優位な位置にある。こうなると問題はもはや二つの視線の間の差異ではなく、二つの視線の間の段階性と優位性の問題となる。つまりそれは解釈を解釈すること、あるいは「読みを読む」ということの問題域に入るのである。

 デリダの「真実の配達人」は、特殊な入り組んだ構造をしたテクストであると言える。ラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」を読んだこのテクストは、それ自体が既に「読みを読む」という特殊な形態であることを明確に印象づけている。
 つまりポーの『盗まれた手紙』、を読むラカンの読み、を読むデリダという段階構造である。これ自体が既に「謎→虚偽の謎解き→謎解き」というあの三段階(ラカン的には三つの時間)を想起させる形になっている。
 
 その上でデリダは、まずこの「セミネール」の背景を指摘している。つまりラカンの「セミネール」の前に、既に『盗まれた手紙』に精神分析的解釈を施したマリー・ボナパルトの読みの存在を上げている。ラカンは「セミネール」のなかではこの解釈には全く言及していないが、それを読んでいる事は確実であることをデリダは指摘する。
 つまりラカンの「セミネール」自体が、「ポーのテクスト→ボナパルトの読み→ラカンの読み」という自ら第三のまなざしに入るものだということである。しかもこれには別の暗喩がある。

 それは「フロイトのテクスト→フロイト派の読み→ラカンの読み」というフロイト解釈をめぐる分派問題である。 このデリダによるラカン言説の要約には補足が加えられている。それはつまり、ラカンがデュパンを二重化するとき(手紙を見つけるデュパン・手紙を戻すデュパン)、ラカンは他の分析家と自身を区別することによって批判しているのである。
 「虚偽の謎解き」は、それ自体では整合性の破綻が見つけることができない。つまり「謎解き」と思われたものが「虚偽の謎解き」であったとされるのは、常に新たな「謎解き」が現れることによってであり、内在的にその破綻を包含している為ではないのである。である以上、全ての整合性を持つと思われる「謎解き」は、いつでもそれが「虚偽」=「誤謬」になる可能性を持っている。「手紙を戻す」とは、そのような連鎖をそこで断ち切ることを意味しているのである。

しかしデリダの読解はそれとは異なる結論を導き出す。デリダはデュパンが手紙を返したことではなく、「模造品の手紙」を残しそれに署名「D」を残したことに注目する。デリダはこの作品をラカンとは正反対に「三角形の象徴的空間に入るどころか、この空間を果てしなく、オリジナルなき分身の迷宮、真正かつ分割不能な原文なき模造の、本筋なき偽造の迷宮へと引きさらっていき、盗まれた手紙に修正不可能な無方向を刻印するのだ」と結論する。
 それは「手紙」が「宛先に届かないことがつねにありうる構造のもの」であるためだとする。そのためにデリダがとった主な方法は、『盗まれた手紙』をラカンが読まなかった「細部」を読みながら、ラカンの術語に従いつつもそれと正反対の結論を導き出すという方法である。

   *   *   *

 いや、ちょっと無意味に長い引用だったかも。要はラカンは自分の分析(解釈)が正しいものであることを主張するが、デリダは「正しい解釈」なるものは存在せず、「解釈」それ自体は常に拡散していくものだと語ったのである。
 この頃の僕は「読解」の倫理性についてこだわっており、作品は「好きに読まれうる」というテクスト論者の立場も批判しつつ、作者の自叙伝的な経歴や時代背景を「作品それ自体を読む」事に替えてしまう作者論者の双方を批判しようとしていたのである。

 しかし心理臨床的な観点から見れば、ある患者への解釈が真実であるかどうかは、それ以上にその患者が「治るかどうか」の方が重要である、という観点もなりたちうる。
 無論、そのような立脚点それ自体が、「解釈の多様性」という現象そのものであるという見方も成り立つ。現在の僕の立脚点は…普段の日記にある感じ、である。
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