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思索の道程  モラル・ハラスメントに対する認識



 『モラル・ハラスメント』という言葉で検索してみると、その専門的な著作は4,5冊ほどしか出てこない。日本人の手になるものは香山リカの『他人を傷つけずにはいられない』くらいで、しかもこれは前掲した『モラル・ハラスメント』の要約に近い本と言われている。
 まだまだ認知度の低いモラル・ハラスメントだが、被害者関係のブログが増えてるところを見ると、現象自体は明らかに増加の傾向にあると思われる。ここでは前掲書から、モラル・ハラスメントそれ自体に対する認識部分を引用してみる。

「モラル・ハラスメントの暴力は相手の心を支配し、自分の思うように操るという形でふるわれる。そういった行為には魅力があり、かなり多くの人間が惹きつけられる。反対にその暴力をふるわれることを考えると恐怖を覚える。
 その結果、普通の人々はモラル・ハラスメントの加害者を見ると、羨ましいと思うことさえある。というのも、そういった人は並外れた力を持っていて、いつも勝者の側に立ってるように思えるからだ」

「一番強い者がより多くのものを享受し、苦しみは他人に押しつける。その反対に、被害者のことはあまり問題にされない。被害者は弱く、世慣れていない人間だと見なされ、それだけで軽く扱われる…。
 そうして、他人の自由を尊重するという口実のもとに、状況がいくら深刻でも社会全体がモラル・ハラスメントに目をつぶってしまうのだ。確かに他人の意見や行動に口を出さないというのは現代の風潮である。私たちはそれが不愉快で、道徳的に非難すべきことのように思われても、何も言わずにいることが多い。

 また私たちは権力を握っている人間が嘘をついたり、他人を操ったりしているのを見ても、そのことに対してはびっくりするほど寛容になっている。目的が手段を正当化するのだ。
 だがそれはどこまで受け入れてもよいことなのだろうか? していいことと悪い事の境界線が判らなくなって、他人のすることに無関心になっている。だが、それによってモラル・ハラスメントの共犯者になっているのではないか? 寛容になるのもよいが、それにはっきりと定められた限度を設定する必要があるのではないか?」

「モラル・ハラスメントの暴力とは、それがいくら恐ろしくても心の領域でふるわれるものである。また、現在の社会や文化はこのタイプの暴力を大目に見る傾向にあり、その結果、モラル・ハラスメント的な行為は広がりつつある。
 それに加えて、私たちの時代はそれがどんなものであれ、基準を設けるのを拒否する時代である。そういったなかでモラル・ハラスメントの基準を設定することは、他人の権利に対する侵害だと見なされる。そんなことをしたら、逆に自由を束縛すると思われてしまうのだ」

「被害者がセラピスト、とりわけ精神分析医のもとに相談にいった時、話を判ってもらえなかったということが多い。だが分析医がそういった態度をとるのもしかたがない。精神分析は患者の心的装置、すなわち、患者の心に起こったことだけを問題にして、現在患者がおかれている状況は考慮に入れないからだ。
 その結果、医師は被害者を加害者に対するマゾヒスト的な共犯者だと考えがちで、そう考えることがどんなに重大なことか判らないのである。
 仮に患者を助けたいという気持ちがあったとしても、道徳的な価値判断をしないという理由から『加害者』と『被害者』という言葉を使うことをためらい、結果として被害者の罪悪感を増大させて事態を悪化させてしまうこともある」

「私の目的は加害者の罪を問うことではない。そうではなく、ほかの人間にとって加害者がどれほど危険な存在であるかを知らせることによって、現在や未来の被害者が身を守れるようにすることである。
 加害者の行動が抑うつ症やほかの精神病から自分の身を守る防衛措置だとしてもーそれはまったくそのとおりなのだがーだからと言って、これほど『変質的』な、すなわち凶悪な行為が許されてよいはずはない。

 加害者はそのひとつひとつを見れば、取るに足らない言葉や態度を通じて被害者を苦しませたり、操られたという屈辱感を抱かせたりする。いや、もっと重大なことには、被害者のアイデンティティーを破壊して、死に追いやることさえあるのだ!
 またモラル・ハラスメントの加害者は被害者にとって直接危険であるばかりではなく、まわりの人々にも間接的な影響を与える。加害者の行為に触れることによって、まわりの人々は善悪の判断基準を失い、他人を犠牲にしても自分さえよければ何をやってもいいというふうに思う恐れがある。これは重大な問題である。
 このような考えから、この本のなかではモラル・ハラスメントがどういうものであるか理論によって説明した部分は別にして、そのほかの部分では意図的に『被害者学』の立場にたって、すなわち被害者の側に立って話を進めている」

「セラピストが精神分析医であった場合、そちらの立場から言えば、ナルシズムを傷つけられた患者に対して、いわゆる好意的中立(患者に対して中立性を保たなければならないという分析家の態度)からくる冷淡な態度は望ましくない。
 フロイトの弟子であり、友人でもあった精神分析医のフェレンツィは、心的外傷とそれを分析する技法に関してはフロイトに反対し、1932年にこう書いている。
『精神分析の現場で患者に対してそういった冷たく、職業的で偽善的なよそよそしい態度を示すと、患者は自分の殻に閉じこもってしまう。分析家の態度に患者が感じるものは、以前ーつまり子供の頃に感じて患者を病気に追いやってしまったものと本質的に違わない。それを患者は全身で感じるのである』

 セラピストが冷たく沈黙を守っていると、モラル・ハラスメントの被害者は加害者からコミュニケーションを拒否された状況を思い出し、治療の現場でもう一度傷ついてしまうのだ。
 モラル・ハラスメントの被害者の救済を考えることは、私たち精神分析医にとっても、これまでの知識や治療の方法を問題にするきっかけとなる。私たちは全知全能の立場にたつのではなく、もっと被害者の立場にたつ必要があるのだ」

 好意的中立の立場が被害者を傷つけるのは、治療者だけでなく周囲の反応も同じことである。これはDVの被害者や、おそらくは被虐待児童などにも言える。
 力ある者に惹かれ、個人の自由を尊重するという価値観に隠れて、真に傷ついた者、弱い立場にある人たちへの共感や顧慮をなくすことは、最終的には我々の社会を住みにくいものにする。それは誰の身にもふりかかることなのである。
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