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作品を読む  『超時空要塞マクロス』  ③デ・カルチャな80年代



 つきつめて言うと、『マクロス』とはどんな物語であったのか? それに答えるならば、それは『70年代以前のマジメ文化から、80年代のポップカルチャーに出会って驚く』という物語であると、僕は言うだろう。

 戦闘種族として巨人に進化し、男女に分かれて宇宙戦争を繰り広げていた宇宙人。その宇宙人の船が地球に墜落し、地球はそれを『マクロス』として改造する。
 しかしワープの失敗でマクロスは都市をまるごと一つ艦内に抱え込んでしまう。巨大戦艦マクロスは、内部に一般市民の暮らす大衆消費都市を抱きかかえたまま、おしよせる宇宙人の攻撃に応えつつ宇宙空間を地球に向けて帰還する。…というのが、物語の概要である。
 
 このマクロス内部に、巨人族(男)のゼントラーディーは三人の斥候を艦内に侵入させる。そこで生まれながらに兵士としてのみ鍛えられ、生きてきた三人が目撃するのは、めくるめく明るさと軽さに満ちた80年代的な都市型消費生活だったのである。
 この宇宙人たちの言葉に「デ・カルチャ!」という言葉がある。意味としては「Oh my God!」と「What’s!?」を足して混ぜたくらいの感じではないだろうか。その宇宙人語の語源としては、「カルチャ」=文化に接頭語がついたものらしい。

 しかし全ての人間が兵士になるためのクローンである宇宙人たちには、「文化」というものがない。だから「カルチャ」はもはや「失われたもの」として、慣用句に残っているだけなのだ。
 しかしこの斥候たちが目にしたマクロス艦内の「都市生活」こそ、まさに「デ・カルチャ」に満ちたものだったのである。そこには歌があり、色彩があり、商品と広告があり、そして男女の恋愛があった。それは全て斥候たちにとって、「未知なる」初めての刺激だったのである。

 この享楽と明るさとラブ・ロマンスに満ちたスペクタクルな都市生活が、全ての「文化」を代表するわけではない。例えば学問の営為や、芸術、農耕技術や民俗的生活様態なども、無論、「文化」である。しかし作品『マクロス』のなかの、「デ・カルチャ!」の対象はそういうものではない。
 あくまでその「デ・カルチャ」な対象は、スーパーアイドル、リン・ミンメイに象徴される歌や音楽、きらめくライトと美少女の微笑み、スクリーンのなかで演じられるラブ・ストーリーといった、感覚的で享楽的な文化生活こそが「デ・カルチャ」の対象となったのである。

 このマクロス艦内にあった生活様式は、まさに80年代ポップカルチャーの様式であり、それこそが「デ・カルチャ」の対象だったのである。そして重要なことだが、このマクロス艦内の生活に馴染んでいくうちに、三人の斥候はすっかりこの80年代的消費生活にハマっていくのである。
 考えてみれば、軍隊的な生活様式しかないところから、明るく楽しいマクロスへとやってきたのである。ここで得た享楽的生活に比べれば、元のゼントラーディー軍での暮らしは、「暗くて、マジメで、つまらない」生活であることに間違いはないのだ。

 監督の河森正治と、ある年配アニメ監督との対談で(確か宮崎駿ではなかったかと思うが、記憶が定かではない)、相手の監督がこう言っていた。「マクロスの艦内で、無重力になって色んな食べ物がフワフワ浮いたりしてますよね。ああいうのを見ると、『ああ、あの食べ物はどうなるんだろうか』とか、我々の年代だと、そういう事が気になるんですよ」
 考えてみればマクロスというのは、一つの巨大戦艦の内部なわけであって、食料は何処から調達しているのかとかは、とにかく謎である。謎であるが、「ふんだんに消費しても大丈夫」というくらいに物は溢れており、そこでは食料難や物資不足に苦しむ市民の姿はない。マクロス市民は縦横に都市型消費生活を楽しんでいる。

 例えば宇宙から地球に帰還するというシチュエーションならば、『機動戦士ガンダム』のホワイトベースも、同じ位相にあった。しかしホワイトベースではサイド7の一般人を乗せているために食料に気を使い、なかでは老人が子供の食料をかすめる、というような描写さえなされていた。
 しかし『マクロス』にはそのような深刻な物資難というものはない。ばかりか、戦争を請け負ってる兵士たちの生活それ自体にも、ある意味での「真面目さ、深刻さ、暗さ」などが見られないのである。

 例えばシャアやグフの攻撃に慄きの声を上げるアムロ達の「戦場での兵士」が受けた心理というのは、見た目以上に過酷なストレスを本人たちに与えている。アムロの精神が段々おかしくなっていく描写が初期の頃にされているのは、当時はそういう研究はまだ一般的では知識として広がってはいなかったが、明らかにPTSDの兆候が見られるものとして捉えることができる。
 これに対して『マクロス』の主人公、一条輝はアムロのような深刻さを根本的に抱え込んでいない。戦場に出て、自分もまた柿崎のように撃墜されるかもしれないのだけど、アイドルであるリン・ミンメイとブリッジにいる早瀬美沙との三角関係のラブ・ロマンスを演じたりする余裕があるのだ。

 河森正治はその対談で、「例えば軍隊がああいう描写になっちゃうのは、アメリカ軍が実際に物資が豊富で、ちゃんと週休もらってたりすることを知ってる背景があるからなんですよ」というような事を答えている。
 実際、米軍と言うのは第二次世界大戦の頃から、前線の兵士が休暇をもらって帰還する、ということが普通に行われていた。これは前線に送り込むだけ送り込んで、「食料は現地調達」とかで東南アジアに乗り込んだ旧日本軍と比べると、雲泥の体制である。

 どちらかと言えば『ガンダム』の軍隊内部の描写は、「貧しく辛い」日本軍式の軍隊生活を背景に持っている。これに対して休暇の時はバーに行って酒を飲んだり、「戦闘機乗り」を題材にしたアイドルが慰問的な感覚でヒットを飛ばしてる描写は、アメリカ型のイメージに近いだろう。
 ただし、近年ではベトナムに行った兵士たちが深刻なPTSDを抱えて帰ってきたり、また人材不足を補うために家庭の主婦を前線に送りこむなど、アメリカ軍の体制も「明るく、豊か」とは必ずしも言えない面があることも判っている。

 ただここでは『マクロス』がその意味で、「リアルな軍隊、リアルな戦争」を描いていない、という事を問題にしたいのではない。むしろ重要なのは、『マクロス』が、徹底してそのような意味での「リアル」さをむしろ意識的に排除したということが重要なのである。
 いわばそのように「真面目に」戦争というものを描写し、それに「深刻」に関わるのを70年代的な「暗さ」だと捉えよう。それに対して『マクロス』は、「そんな真面目さより、明るく楽しい80年代の方がよくない?」ということを、対照として前面に出したのである。

 例えば今現在、ネット右翼なる人たちを中心に、「日本も核武装すべきだ」というようなことが『真面目に』語られる時代となった。だがその真面目さはある意味、「祖国のため」や「信念のために」、自爆を含めたテロを行ったりするような『真面目さ』と、同質なものではないだろうか。
 そういう『真面目さ』よりも、不真面目であったとしても『明るく楽しいポップカルチャー』の方がいいだろう、というのが『マクロス』のテーマである。であるがからこそ、敢えてマクロスには物資難だとかが出てこないのだ。むしろそういう「真面目さ」を捨てて、リン・ミンメイにエールを送るようになれば、世の中は案外平和かもしれない。

 最終的に物語は、リン・ミンメイの『歌』という「デ・カルチャ」な武器を敵軍にぶつけ、その動揺を突いて戦争継続派の敵対勢力を撃滅して宇宙人と和平にいたる、という流れとなる。つまり「デ・カルチャ」が、兵器に勝ったのだ。
 つまるところこれは、80年代的ポップカルチャーが、真面目で深刻な70年代以前のハイカルチャーを中心とした「思想」を破ったことを意味している。これは「大衆消費社会」による、「近代国家建設型」の思想との決別と言ってもよいのだ。

 ジャーナリストの大宅壮一はその昔、「一億総白痴時代が来る」と述べて物議をかもした。これはテレビ時代の到来を前に、書籍を中心にした教養主義的な世界の衰退を警告した言葉だったのである。しかしこの「一億総白痴」は、1957年に書かれたものであり、まだテレビもカラー化されず、テレビそれ自体も普及する以前に言われた言葉だった。
 さて大宅の言ったようにテレビの普及によって、国民は本を読まなくなっただろうか? あるいは国民は白痴化したのだろうか? これは正直、一概にはなんとも言えない部分もあるだろう。

 しかしネット右翼のような人物達は、逆説的によく「本を読んでる」と思うことがしばしばある。通史が出来てなくて自由主義史観系の書物に偏っているなどの傾向はあるが、細部のディテールには実に詳しい。彼らは「マジメ」なのである。
 さてこれに対してもう一つ、「萌え」を中心キーワードに据えた「ヲタク文化」が存在する。彼らの多くは善良で、なるべき他人を傷つけたりするような言動を好まず、自分の好きなものに、自分の好きなように肩入れするだけの人たちである。

 「萌え」を選んだ人々は、ある意味で「デ・カルチャ」な人々なのだ。マジメで深刻なゼントラーディより、マクロス艦内の80年代ポップカルチャーの延長線上にある「ヲタク」文化を選んだのだと言ってもいい。
 この「ヲタク」文化が、今や世界に広がっているというのは実に興味深いことなのだ。「ヲタク」文化はポップで可愛くて、無害で、優しくて柔らかい。それが海外の「ヲタク」文化観なのである(だからそのなかには「鬼畜系」美少女ゲームとかは含まれない)。

 これは言ってみれば海外の人たちが「デ・カルチャ!」な衝撃に当てられた結果と見てもいい。民族対立や各地の紛争、宗教問題などを抱える外国に比べて、「日本」という島国はそういう『真面目』な問題に当てられにくい。
 そういう深刻な対立を「ヲタク」文化は、柔らかく解消する。美少女に萌えて、コスプレして、DVD買って幸せなら、民族も宗教も関係ない。そんな「デ・カルチャ」な暮らしのほうが楽しい上に、平和的じゃないだろうか。

 西欧中心で教養主義的な真面目なハイカルチャーに対して、デ・カルチャなヲタク文化が今や時代を席巻している。これを「一時的な流行」と見るか、それとも「新しい文化形態の到来」と見るか。
 その是非も、予想にも言を述べることはできないが、少なくとも今現在に『超時空要塞マクロス』を見返すとき、それがある種の時代の予言となっていたことに不意に気づかされるのである。
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