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武術散策  プロ格闘技論  ⑥アントニオ猪木と長州力  八



 対して長州の「反骨」とは何か。長州は猪木のように「プロレス」の実体を疑ってはいない。だから「外部」に対する意識があるわけではない。長州の戦いは常に現存する構造に対する挑戦、抵抗の反乱なのである。

 それはつまり「内部変革」を意図している。猪木はこの「内部変革」を起こす長州の「反骨」を、自らの「物語」にはめこみ図式化した。猪木の「外部拡張」、そして長州の「内部変革」が新日の歴史を形作る原動力となったのである。
 これは調度、猪木の70年代、長州の80年代という時代の雰囲気にピッタリ対応している。70年代とは新しい消費社会が始まり、あらゆる分野のメディアにおいて新しい表現方法が模索され、次々と確立された時代--思想的には構造主義の時代である。

 そして80年代とは、既に確立されたスキルを「枠(構造)」として前提にし、その「構造」のなかでそのスキルの通常の意味を変えていこうとする--思想的にはポスト構造主義の時代となる。その意味変革の実現は、否定や転倒、反復など様々な形態を持ったが、その「差異化」する運動のなかで、新しい流れが連続性を持ちつつ現れる。
 UWFとはその差異化の落とし子であり、それは既存の意味体系全体を否定するものとなっていく。思想的にはそれはポスト構造主義から発生したポストモダン--意味体系全体の否定の運動と対応するだろう。

 それは冷戦構造が崩壊したことを自覚するに至る、95年までの主流となる。しかしアルティメットの波--アメリカの市場原理はその後に全面的に現れるのであり、それはポストモダンやU系格闘技をまたたく間に駆逐していくのである。
 しかし前記したように、「PRIDE」の人気が昂まり現在チケットが売れているからと言って、「PRIDE」が面白くなったわけではない。ポスト構造主義者と見做されるミシェル・フーコーやデリダ、ロラン・バルトなどが当初、構造主義者と見做されたように、構造を明らかにしつつそれに「反骨」する姿勢はまだしも意味を有している。

 しかしその意味体系それ自体の根拠を、「何もない」ものとして暴露するポストモダンは、その意味体系全体を脅かす要素を持っているのだ。猪木にすれば長州は「プロレス」を変動させはするが、その「無根拠」を暴いたりはしない点で安全である。
 しかしUWFという存在は「プロレス」それ自体の無根拠性を暴く可能性がある点で危険なのである。それは「何もない」空間を埋めてきた「物語」に対して、それは「図式」なのだという「認識」論として現れた。冒頭に書いた「図式論」から「認識論」への展開とはこのような意味である。

 そしてその認識論的展開の後には、アメリカ型市場主義--アルティメットが到来し席巻する。それは言わば「構造主義・ポスト構造主義・ポストモダン」全てを無化しようとする物質的な影響力--経済、そして何よりも「政治性」の復権と言っていいだろう。
 政治性とは抑圧--無言の抑圧なのである。だが本来は、そのような政治性に対してこそ、思想という抵抗力、免疫力が必要なのだ。そうでなければ人間は、たやすく政治の力に飲まれていってしまう。しかし現在の政治性は経済の陰に、その力を隠して浸透してくる。

 思想体系の意味自体を否定したポストモダンは他ならぬ「思想」そのものだったが、市場原理はポストモダンのような顔をした政治の力に他ならない。その風貌は「思想」を否定する点で似ていたとしても、根本的に異なっているのである。
 ポストモダンと市場原理 (それは市場原理の反動としておこる共同体主義も含む)は、90年代を通してほとんど地続きに見える。しかしどんなに地続きに見えたとしても、本来的にU系団体とアルティメットは、別物だったはずなのだ。「物語」を否定したとしても、U系団体は「見せる」ことまで否定した訳てはない。

 U系は「図式」を見せるのではなく「技術」を見せることに依拠していたのだが、アルティメットは単に「勝者」に光を当てるくだらないイベントにすぎない。それはターザン山本風に言えば、勝者に光を当てる発想--「進化論的」図式に基づくアングロ・サクソン的な見方にすぎない。
 それは一方が一方を「潰す」だけの、一人勝ちの思考なのである。ポストモダンが思想を否定しつつも、究極のところ「思考」することを要請するのに対して、市場原理はむしろ「思考」することを圧力で放棄させるのである。それはアメリカ企業がアジア(特に中国)などで、「アメリカ型」の経営、取引交渉などを「国際基準」として「教化」して回っていることに如実に現れている。

 それは経済的な行為などではなく、間違いなく「政治的」な行為なのだ。それは「普遍性を教化する」という、西欧のいつもながらの、歴史的に幾度も繰り返されてきたあのドグマティックな行為の反復である。ポストモダンが例えば、法の無根拠性から法律それ自体が白人主義的な根拠を有していることを暴露するような倫理性に支えられていたのに対して、市場原理は一人勝ちの勝者が弱者を抑圧することを是認する一つの方便にすぎない。
 市場原理が「思考」を排除するように、「PRIDE」は格闘技を見るということを「貧しく」している。そこにはパンクラスで見られたような高い技術の攻防が生み出す「名勝負」もなく、新日全盛において実現されたような「熱狂」の試合もない。

 素人の観客は血だらけの殴り合いか、応援する日本人選手の勝利が見たいだけ。こんな貧弱な土壌の上で格闘技は進んでいくしかないのだろうか。船木や田村が見せたあの「技術」も、猪木が観客を熱狂させたあの「図式」も、もはやそれは過去のものでしかないのだろうか。
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