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武術散策  プロ格闘技論  ⑦武道・競技・興行  一



 「プロレスは存在しない」と前記した。しかしそれは決して否定的な意味ではない。別に言えば同じように「文学は存在しない」と言うこともできるだろう。文学をより狭義に近代文学以降のものと限定したとしても、それは「散文で書かれたもの」という極めて曖昧な定義しかもたない。

 逆にそのような文学は、他のあらゆる記述法を飲み込む「何でもあり」の媒体となる。それは韻文を模倣し、口述を吸収し、歴史記述、思想、現実性と幻想性のあらゆる領域を消化吸収する。--ただし、そのどれかになるのではなく、「どれよりも高い表現形式」として。
 そこには「文学とはこうだ」という決まった形式がない。文学とは自在、形式を持たない形式として、常に新しい形式を更新する運動体としてのみ意味があるのである。その意味では「文学は存在しない」という否定定義によってではなく、「文学とは非存在である」と肯定定義するべきかもしれない。その意味でプロレスもまた「プロレスとは非存在である」と言うべきなのだろう。

 しかし実体としての「プロレス」は、本当に存在しないのだろうか。あるいは「プロレス」を実体たらしめる同一性を、それが「興行」であるということに還元できるかもしれない。それはあくまで「見せ物」なのだ。それは「見せ物/真剣勝負」という対立を越えた「見せ物」--それは実用や達成によって実現されるものではなく、メディアとして初めて成立するものなのだということである。
 実際のところ、プロレスは、ある意味では「存在する」。それはメキシコのルチャ・リブレなどを見れば一目瞭然なのである。7割のレスラーがマスクを被るというその土壌は、マスクによって自分のキャラクターを作り出し、そしてパフォーマンスによってそのキャラクターを実体化する半ば「芸術」に近いような「創作物」として存在する。

 あるいは 「WWFのプロレスは真剣勝負ではない」と宣言したマクマホンのアメリカン・プロレスもある意味では存在するのである。そして日本ではターザン山本によれば、「全日本プロレスは王道である」と言った馬場の全日の方に「プロレス」はあったのだ。
 ターザン山本の言い方では、「プロレス」の表のブランドは紛れもなく全日だった。全日はファンクス兄弟を始め、マスカラスやマードック、後に新日に行くがブッチャーやハンセン、ブローディーといったスターを独占していた。この豪華絢爛たる顔ぶれで、間違いなく馬場は「プロレス」という存在を持っていたのである。

 それに対して新日を旗揚げした猪木は、何とかして裏のブランドを掲げる必要があった。それがカール・ゴッチを呼んだ試合形式「ストロング・スタイル」である。ターザン山本によればゴッチが「プロレスの神様」なのは日本だけで、現役時代はゴッチは間接技がうまいレスラーというだけで前座、いいところが中座のそんなに有名ではないレスラーだった。
 しかしそこで猪木が「真の強さ」という称号で、新しい図式を作りあげる--そう、前章では新日最初の図式を「外人/日本人」と書いたが、真実はそうではない。本当は「通常スタイル/ストロングスタイル」という差異こそが、猪木が最初に打ち出した図式だったのである。

 どこがどう「ストロング」なのかは、よく判らない。しかし猪木とゴッチの地味な試合を、観客はこれが「ストロング・スタイル」なんだと理解した。それは猪木の学習効果が、見事に根付いたことを意味している。しかしこの最初の図式は、それ以降の図式のように直接対決して競いあうものではない。むしろそれはあのUWFから始まる、「認識論的転換」に極めて酷似したものだったのだ。
 猪木はプロレスが、少なくとも「格闘技」としては「何もない」ことを知っていた。にも関わらず「見せ物」のプロレスと差異化を図るため、「強さ」を図式化した。そのために猪木は、絶えず「外部」を求め、物語を紡ぎ続けるような「興行」をせざるをえなくなるのである。

 本来「プロレス」とは「特撮」のように、定期的に「正義が勝ち、悪が負ける」物語を反復する--まさにルチャ・リブレのような興行でも良かったのである。しかし猪木はその意味を変えてしまい、プロレスが「最強の格闘技」であると言ってしまったのだ。
 では格闘技とは何だろうか。格闘技では恐らく武術と競技が、その近接的な存在形態であると言えるだろう。武術とは、過去に存在した「戦争」という局面に対応する殺人護身の技術を「武術」と言えるだろう。それは実用という観点から作られ、そして意味を持つものである。

 対して、戦う技術を体系化し安全なものにした上で、運動能力の向上や実用、観賞用の媒体にしたのが「競技」--つまり「スポーツ」化された形態であるといえる。この両者に対して「プロレス」は、武術でも競技でもない、決定的な差異を持っている。それは何か。
 武術・競技の、プロレスとの決定的な差異は、その「自足性」という点である。自足性とは、武術や競技が、それ自体でそのものの意味を持っているということである。武術とは達人として達成することに意味があり、別にそれを「見せる」必要はことさらない。

 競技は、それを見る大会はあるがそれは経済収入を得るためではなく、根本的には一般競技者という愛好者が存在することを前提にしている。つまりその技術の知識や、そこからもたらされる身体性の効果がそれ自体で意味を持っているのである。
 しかしプロレスは、常に「観客」を必要とする。プロレスは「興行」として存在することで、初めて意味を持つのである。では「総合格闘技」はどうだろうか。「総合格闘技」は基本的には、「路上の喧嘩」を前提にしている。しかし実際には前記したように、現実の戦いにおいては平地で、武器のない、一対一の戦いなど滅多にない。「総合格闘技」は現在のところ、少なくとも「見せる」ことによって成立しているのである。
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