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雑断想  『笑い』を考える



 前に書いたことを概括してみると、『笑い』というのは、期待される通常の意味コードが外れたときや、それがずれた時に起こる現象ではないかと考える。

 それを踏まえた上で別シリーズ的ネタではあるが、「ロボットは笑いの機能をもてるか?」を考えてみよう。これは実は、意外に大変な課題なのだということが判る。
 と、いうのはロボットが社会的コミュニケーションに必要な意味コードを学習したとして、その意味コードにそぐわない現象は基本的には「エラー」と判断する、という事が想定されるからだ。つまりロボット的には「笑い」の起きるような意味の現場は、単なる「間違い」でしかないかもしれない、ということである。

 実際、前にあげたように、「笑い」のネタには「間違いを繰り返す」などのものもある。これは考えてみると不思議である。一回目ならただの間違い、二回目だったらイヤになるかも。けどそれが三回、四回と続くと、かえって「笑い」を引き起こす場合がある。
 この場合、意味コードの情報価は、単に「エラー」を複数重ねたにすぎない。情報論的には情報価は最初の一回目が一番大きく、その後は低下していくとされている。しかしこの場合、「繰り返す」ことが、新たな「認識」を引き起こしてるわけである。

 ロボットはこの質の「笑い」を理解、再現することが可能だろうか? 実際、このような局面では、人によっては可笑しいが、まったく笑えないという人もいる。つまり意味コードのずれに対する人の反応は、けっこう個人差がある。
 これを統一的に「Aのケース=笑い/Bのケース=エラー」という風に領域設定してプログラムを組むのは極めて困難と思われる。何がエラーで何が笑いになるかは、全く恣意的な領域だからだ。さらには同じ現象であるにも関わらず、ある場合にはエラーで、ある場合には笑い、ということすら存在し、その境界設定は全く明瞭じゃない。

 逆に言うと、我々が「笑う」というのは極めて不思議なことだ。例えばロックと遊んでるとき、ロックが「喜んでいる」と感じることがある。思い切り走り回って、追いかけっこをし、ボールにジャレついて遊ぶ。そこでは全身に「喜び」が表現されている。
 つまり犬なら「喜」がある。喜怒哀楽というが、その喜もあるし、怒、哀、楽もあると思う。しかし「笑」はどうか? 残念ながらロックに「笑」があるとは思えない。「笑」は、「喜」とも「楽」とも異なる反応だと僕は考えている。

 それは「意味」というものに深く関わっているからだと思うからだ。その意味のコードがまず理解されており、それが何らかの形でずれた時にだけ、「笑い」というのは起きる。しかしその意味のコードは、深く「言語」そして「人間社会」のルールに根深く関わっているのだ。
 そのような深い領域のコード使用の現場で、何故、「笑い」というものが生まれたのかが、逆に不思議に思われる。と、いうのもエラーに対しては修正情報を与えるだけで充分であり、そのエラーに対して何らかの付加意味を加える必要は、合理的にはそれほど重要じゃないのではない気がする。

 しかし恐らくは、「間違い」を初めとする様々な意味使用の現場で、その「意味の重さ」の度合いを「軽減する」必要から笑いというのは生じたのではないか、と思っている。
 大変な間違いをしたときとか、あまりにも緊張した場面で、その意味の「重さ」を軽減する。そういうことが「笑い」の始まりだったのではないだろうか。
 
 『笑い』というのはつまり「意味の重さ」を軽減する装置でもあるわけだが、これが場合によっては、『笑い』が政治批判の手段となったりする所以であると思う。つまり「真面目で重々しい」政治の命令コードを、『笑い』を入れることによって「軽く」してしまうのだ。
 そういう所からか、昔から圧政者というのは大体、「笑い」を嫌う。と同時にまた笑いを提供する側も、「風刺」というような洗練された手法を使い、『笑い』によって政体を批判してきた歴史がある。つまり「意味コードのずれ」を意識的に利用するのである。

 記号学者U・エーコの原作の映画『薔薇の名前』では、ある秘密の文献をめぐって事件が起きる。それは教会関係者が、どうしても秘匿したかった書物だったのだ。
 それがアリストテレスの『喜劇論』だった、というのが作品の主題である。無論、アリストテレスには『詩学』(悲劇論)は残っているが、喜劇論というのは発見されていない。それはフィクションである。

 しかしこの「喜劇=笑い」を、教会者が秘匿しようとした、というのが痛烈な主題なのだ。教会が象徴する宗教的言説は、常に「真面目で」「重く」なければいけない。それに対して「喜劇」は、その「重さ」を破壊してしまう力を持っている。他ならぬアリストテレスがそんなものを残したことは、どうしても秘密にされなければならない…というのが、その登場人物の言葉だった。
 「重さ」とか「軽さ」なんていうと、僕は一方でミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を思い出す。どうしても愛の重さを理解せず、浮気をやめない脳外科医の夫に愛想をつかして、妻は「貴方の存在の軽さに耐えられない」といって家を出るのだ。

 しかしその出た先の外国での政治的激変の「重さ」にふれて、その「重さ」にも耐えられなくなって妻は再び夫の元へ戻る。人生は「軽い」ばかりでもいけないが、「重い」ばかりでも大変なのだ。
 と、「笑い」のようなものを「真面目」に考える僕は気質的には、どっちかというと「軽さ」の足りない方である。重いんだね、体重は軽いくせに。……そんなわけで、今、「軽さ」を学習中というわけである。けどこれはどうも、ドロロ君の二の舞になりそうな気配がしてる。
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