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特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ⑥



 ルーマンは社会学の根本的な問題を「社会秩序はいかにして可能か」を説明することと定義している。逆に言えば「社会」は、既に存在している。それは「何故存在するのか、どのように形成されるのか」不明なまま、現実にただ存在している。

 体制批判とは、そのような既に存在している「社会」に対して、それを可視化するための一つの「モデル」なのである。そのような体制批判により、その体制が倫理的観点から批判され、より別な形態の体制が模索される。体制や秩序はいつも「別な可能性」を有している。
 それは実際に中国と日本といった異なる国家か存在したことや、ギリシアの都市国家(ポリス)が異なる多様な政治体制を有していたことが、その「比較」を通して「別の可能性」の存在を指示していたことにもつながる。

 しかしどんな体制や秩序であろうと、「社会」という土壌はその可能性全てを包括している。抽象的な意味での「社会」とは、全ての現実性と可能性を包括しているのである。民主主義は、それまで不可避的と思われてきた「体制」と「支配者」を、切り離して考えたことに発端を
持っている。
 そのような観点が可能になるためには、倫理的根拠から「社会」を観察することによって、「体制」には必ずしも「支配者」が必要な訳ではないということが認識されなければならない。そこでは「支配者によって体系・秩序が維持される」という、社会の「モデル」が批判されるのである。

 そして新しい「個人によって体系・秩序が維持される」というモデルに代替される。この近代の「個人」とは、発明的な概念である。近代の「個人」とは、そのように「社会」の可能を説明するための一つの「モデル」の産物なのである。
 社会の近代化とは、そのような「社会」の根拠を「個人」という新しい基礎に移し替えることから始まった。その「個人」とは、根本的には「倫理」的な準拠点である。つまりそれは人民が体系・秩序を欲するがために、それを形成する--「個人」の倫理的な意志によって「社会」は形成されている、という説明に他ならないのである。

 そのためにそれまで大半の人民に関係なかった体制、秩序、法律、経済、そして文化といった支配者層によって担われていたものを、新しい「個人」という基礎に植えつける変更が行われた。その変更はそれらの、それまでの存在形態そのものに理解と在り方の変更を迫るものとなったのである。つまりそれまでの「支配層」を基盤にした社会の「モデル」から、全く新しい社会のモデルが必要となったのである。
 それは19世紀末の人文社会科学の台頭は、新しい社会を観察するために新しい「モデル」が必要性だったことを物語っている。それは海外の植民地経営も含めた国際市場の動向を説明する経済理論であり、異なる社会形態に対応して「社会」という普遍的な形態から集団活動を捉えようとする社会学であり、社会階層や民族を越えた精神の営為を説明しようとする精神分析などであった。

 そのような「モデル」は観察可能な領域を拡大し、行為に対する指針を与える。「モデル」が行動に指針を与えるということを軽視すべきではない。最近ではアメリカ型の開放市場が、「成長する経済構造」として語られたことが「モデル」と言ってよい。
 この「開放市場」という「モデル」は、そのモデルが「正常」な構造であるという主張を背景に、現実に複数の経済体制の変更を促してきた。日本では金融ビックバン、規制緩和といった橋本政権によって実現された構造改革がそれであり、またアメリカとIMFが東南アジアに対して行った経済圧力もその主張を背景にしている。「モデル」は、世界を現実に動かす。

 逆に言えば、現実が動くのは「モデル」があってこそである。しかし問題なのは、その「モデル」が必ずしも、正確なモデルかどうかは、そのモデル自体では証明できない点である。実際、談合や終身雇用制、天下り、護送船団方式といっ日本型経済構造は、アメリカが不景気だった80年代には、西欧式経済構造を越える新しい経済体制として注目された時期もあったのである。
 特に会社内部の組織作りに関しては、トヨタの「トヨティズム」などが注目をされた。その「可能性のある経済体制」として注目された日本型経済体制が、15年後くらいには「不健康な経済体制」として批判されることになる。

 その時々の「モデル」の有効性は声高に語られるが、その「モデル」が本当に真実なのかどうかは全く別なのである。しかしだからと言って、我々は「モデル」を全く捨てる訳にはいかない。「モデル」を持たないことは、観察それ自体を放棄することになってしまうからだ。
 あくまで観察は、「モデル」を通すことによってのみ可能になるのであり、そしてその観察を通してのみ、行為ができるのである。

 このような「モデル」のなかでも、20世紀特に大きな影響を与えたのがマルクス理論である。経済を市場分析ではなく、生産と利益の再分配から分析し、「支配/被支配」の社会階層を「搾取する側/搾取される側=資本家/労働者」の経済階層に還元することによって新しい観点を社会観察にもたらした。
 ロシア革命と中国の共存革命は言うに及ばずだが、日本でも55年を最高潮にする労働争議や、60年安保などの学生運動には「モデル」してのマルクス理論が背景として存在する。それが70年代に入って「モデル」としての機能を失ったことは前述した。

 しかし70年代に、それに替わる「モデル」は存在したか。それは存在しなかった。人々は来るべき大衆消費社会に対して、また新たな複雑性と細分化を遂げる現代社会に対して、適切な「モデル」を持たなかったのである。
 話を先取りして説明するが、現在の社会理論として最も精密なルーマンの「社会システム理論」は、その極度に細分化され複雑性を増大させた現代社会を適切に捉えているが、しかしその対象同様に高度に抽象的であり難解で知られる。

 それは確かに観察可能な領域を拡大する力は持っているが、それが「モデルとして社会に浸透する力はマルクス理論に遠く及ばない。その説明法は「個人によって体系・秩序が維持される」という観点から大きく変更し、「システムによって体系・秩序が維持される」という形に変換される。
 しかしこれは「体系によって体系が維持される」と言っているも同然である。ルーマン理論が「同語反復にすぎない」という批判があるが、それはこのような事態に対しての事である。しかし無論それは、ルーマン理論を十分に理解してないばかりか、現代社会の正確な側面を捉えていない。

 それは「体系が、体系自身を維持(生産)する」という「自己準拠」あるいは「オートポイエシス」という問題系として把握されている。その専門的な議論はおいておくが、一つ確かなことはマルクス理論以降、大きな影響力を持つ「モデル」は失われ、現代社会を正確に捉えるのはもはや一筋縄ではいかないことである。
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