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特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ⑤



 観察が可能であるためには、ある種の「モデル」が存在しなければならない。これは決定的なことである。言い換えれば、人間はある種の「モデル」を通してのみ、「現実」というものを認識することができる。しかし、そのような「モデル」は、決して「現実」とイコールではない。

 にも関わらず「現実」は、「モデル」を通してのみ、その「モデル」によって可能になる範囲でのみ、観察可能になる。ルーマン理論ではそれを「システム」の機能といい、ラカン理論ではそれを「象徴体系」と名付けるだろう。だがここではそれを、その仮構性を強調する意味で「モデル」としたままにしよう。
 そのような「モデル」は、あらゆる領域に見出される。それは現象的には物理学の体系である。予想した出来事が実際に起きるという現象は、必ずしもその現象についての説明と現象それ自体が合致していることを意味するものではない。

 何か別の原因によってその結果が誘導されていたとしても、その時点では現象はその説明によってのみ可能になる領域でのみ観察可能である。と同時にその時点では、その説明がそれ以上の説明を有しているかいないかは決定できない。説明が現象に即しているということは、必ずしもそれが真理であることを意味しないのである。少なくとも、その説明それ自体では、その説明自体の真理性は保証できない。
 事実、相対性理論が導き出される以前、ニュートン物理学の計算では異なるはずの位置に恒星が存在することが確認されていた。しかし当時の物理学者はその恒星についても、ニュートン物理学の理論の範囲内で、細部の修正をほどこしただけでそれを「説明」していたのである。

 しかしそれは相対性理論が出た後に、その説明が「不適切」であることが判った。つまり現象に対してはどんな次元での「モデル」でも説明が可能であるし、その時点での理解は可能である。しかしその「モデル」自体を観察可能にするような新たな「モデル」が登場した時、その以前の「モデル」は自らが観察しきれていなかった領域を明かされることになる。
 それは「モデル」があって初めて、「現実」が観察可能になるという事態を極めて明瞭に表している。がしかし、これを捉えて「科学は真理ではない」などと言うべきではない。むしろここで必要なのは、「真理」という概念の意味内容に対する、より重要な考察なのである。

 またそれは心理的には「自己」という意識である。『私』は社会的条件--他者の視底を通過した「私」という「モデル」によって、自己を認識する。しかしその「私」が、必ずしも自身を完全に把握している訳ではない。
 例えばフロイトの臨床例を読むと、ほとんど患者が自らの肉体的疾患について、一通りの自分なりの脈絡のある理解を持っていることが判る。しかしフロイトによるカウセリングを受け、その無意識の領域に踏み込んで行くと、その原因は本人が考え説明したのとは全く異なる原因から発生していることがしばしばある。

 それは常に本人がなるべく思い出さないようにしていたことや、また本人が余り重要ではないと判断していた過去の経験に基づいている。それは無意識が「自我」の安全を計るために、その防御のために働くメカニズムなのだが、その機能の結果が肉体疾患や本人の忘却という事態となって現れる。
 つまりそれは本人の「自我」を守ってはいるものの、本人にとって無害とは言い難い結果となって現れる。「私」とは、そのような無意識のメカニズムによって極めて巧妙に遠ざけられた過去の記憶の排除に基づいた構成された「モデル」なのであり、それは「自己」についての観察を可能にすると同時に、自身の精神機能の氷山の一角にすぎないのである。それは場合によっては、自身から「自己」を遠ざけるものですらあるのだ。

 しかしだからといって我々は、「私」という意識を捨てることはできない。我々の社会は「私」という意識を根底に構成されており、その障害は痴呆症のように自己の客観的認識そのものの欠如となって現れることになる。
 そしてそれが全体性の場合には、あらゆる意味での社会思想、社会理論、あるいは道徳思想などであると言える。現在の民主主義の到来は17世紀の啓蒙時代あたりをその契機として持つが、それはまず「社会批判」という形の自己主題化--「社会が社会を問題にする」ことを通してのみ実現した。

 その社会批判はその時代の「体制」に対する批判となるが、この批判を可能にするためには現体制とは異なる原理を持ってこなければならない。ホッブスの場合には「偽史」としての法と体制の成立過程を描き、原初的な社会の「万人の万人に対する戦い」という無秩序状態からの脱出する方法としての「体制」の根拠を描く。
 それは「体制」それ自体が持っている 「本来の目的」を取り出すことに意味があるのであり、その「本来の目的」の延長線条に、より「あるべき姿」としての社会を描き出すことになる。またルソーの場合には、原初社会の「楽園」性を描き、文明や人為的体制というものが、いかに人間本欄の感受性を抑圧するかということを描写する。そのことを通して、指標となる倫理的指針を作り、それを通して社会批判を成すのである。
 
 重要なのはこのような「体制」批判をする観点が、現在の社会体制以外の体制を想像することによって、あらゆる体制を包括する抽象的な「社会」というものを観察可能にする点である。「社会」とは、単なる「人間の群れ」ではない。「社会」とは、ある体系だった秩序を意味している。
 問題はその社会体系と秩序がいかにして形成されているかということであり、その体系と秩序の根拠である。最初の段階では体系と秩序は、超越的存在である「神」に根拠を持つ例が多い。それは天皇が天照大御神の末裔であることを「日本書紀」で文書化して根拠づけようとしたり、また絶対王政期の「王権神受説」などもそのバリエーションと考えられる。

 次の段階では体系と秩序は「倫理」的目的から根拠づけられる。つまり体系と秩序は、それなしに起こると想定される争乱状態の防衛のために、必然的に生まれてくるものなのである。中国の諸子百家の「王道・覇道」という思想はそれであるし、また法学の最初期の「自然法」という発想もそれだろう。
 体系と秩序に対して、超越的根拠は必然性から説明を試み、倫理的説明はその不可欠性を説明する。そこでは支配者の支配も「統治がなければ国が荒れる」という、「ないよりはまし」という倫理的条件から不可避的なものとして受け入れられることになる。それらは全て既に現実に存在してしまっている「社会」という現象に対する説明なのである。
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