昨日、過去を思い出して、号泣した。
さみしさっていうのは、無意識のうちにたまっていくもので、皮膚感覚からそれがうまれてくるのか分からないけど、一定の周期で良いから、出さないと過去が終わらない気がする。
朝、起きた時は、最悪だった。
目は腫れぼったいし、体は動かないし、気持ち悪くて吐きそうだし。
けど、そういうときは、そのままにしておくんじゃなくて、頭痛薬飲んだり、ストレッチして肩の凝りをとったりする。
それで、思考を整理する。
私がしたかったことは何?今日はどこに行って何をする?自分に何ができる?
そういうことを確認していく。
自転車に乗って、星空を見ながら。
その前に、家でこんなことを考えてた。
昨日、俯瞰する頭の使い方を学んだ。
どういうことかって言ったら、自分だけの考えにとらわれない方法。
頭の中はいつだって自分の思考でいっぱいだけど、この世界のどこかでは、私の好きな人たちが活動している。
その人たちをイメージすると、嫌だったことがそれほど嫌じゃなくなった。
同じ時代を生き、同じ土地で、それぞれの役割を担っていっる。
そのことそれじたいがすごく奇跡だと思う。
なぜかって言ったら、生きていることは当たり前じゃないから。
意識なんてしないけど、みんないずれ死ぬ。
そんなの当たり前なんだ。自然の摂理。
でも、見えなくなったとしても、言えなくなったとしても、メッセージは残ってて、この世は、あるものでしか作られない。って考え方を知っていたら、循環していることに気付く。
私もいずれいなくなるけど、塊ではなくなるだけ。
だから、自分がいなくなる前にやれること、あるんじゃないの?って思って、ただその日を精一杯生きる。
どこかの誰かが同じ時間、泣いているかもしれない。その時間、私は、笑っているかもしれないし、怒っているかもしれない。悲しんでいるかもしれない。
でも、私がいることで、誰かの支えになっているんだとしたら、自分がいなくなって良いはずがないとすら思える。
誰かの続きをするために、今、たくさんのものを集めているのだったら、その無駄だと思える過程にも意味があるんだと思う。
まだ出会っていない人、これから出会う人、もう出会ってしまって二度と出会わない人、また再会する人、袖振り合うも多生の縁で、この世の中は成り立っている。
だから、無駄だと思うことをやってみると意外にそれが楽しかったり、今、嫌だと思っていることでも、慣れれば好きって思うかもしれないし。
いつどこでどうなって繋がるか分からないから、とりあえず、自分をもっと知ってあげてほしい。あなたを制御できるのもあなただし、あなたを変えるのもあなたなんだから。
今、目の前に困難があっても、もし乗り越えられる要素が整っていたら、乗り越えられるし、もしまだできない状態であれば、乗り越えられない。そういう時期じゃなかったって思えば良いと思う。
桜の木が冬には咲かないように、できる時期になったらできるよういなるから、それまで耐えて。
今、落ち込んでても良いけど、それをなんとかしようとする思考に変えないと、また同じことの繰り返しになるんだから、必死になって、考えてみてほしい。本当にどうしたかったのか、それは自分にしか分からないことだから。
PR