そういう行動をするけど、本当にそうならないと思っていたら、そうなるための行動なんかしない。
だいぶ前に、ネットで、落語の話を読んでた。
その時、若者に師匠がこんなことを言ってた。
君は本当に自分がそうなるとは思っていない。だから、やらないんだ。って。
この言葉を聞いた時、ハッとした。
どうしてか?
私の周りを見てみると、みんな自分のやることからどんな状況であっても逃げない。
そうなろうとして、必死。
跳ね起きの練習を兄がしていた。
みんなできるのに、なんで俺だけ。
できるようになりたい。
頭打ちつけながら、座布団引いて必死にやってた。
私は兄のそういう無様で、下手くそな姿を見て、感銘を受けた。
無様でも良い。下手くそでも良い。
そうなろうとするその心が大切なんだって思った。
それから14年間、今の私は過去の私とは違う。
吹奏楽でチューバを吹く私じゃないし、大学受験で涙を流しながら勉強する私じゃない。
水泳をする私でもなければ、夜勤のライン工場でふらふらになるまで働く私じゃない。
数十年前の私とは比べものにならないくらい、成長してた。
成長している時って、その痛みのせいで嫌なことを思い出したり、もう終わったはずの記憶に襲われたりとなんと厄介な時期なんだろうって思う。
でも、嵐の中のコップから何かの拍子に外に出たら、極楽だなって思う。
もし例えば、もう一回、学校に行って、自転車こいで、授業受けて、部活動の練習して、家に帰って、ご飯作って宿題して、夜練で走って、お風呂に入って寝て、起きて、すぐにまた早朝練習してって考えるとかなりしんどい。
そういう時期があったり、一年間、予備校行って試験受けて、全然成績が伸びない時期があってって考えると、また泣き出したくなる。
そして、また何度も受かるまで試験を受けなければいけないのだとしたら、こんなに窮屈なことはない。
でも、これは、もうやってしまったから言えるのであって、頭ばっかり冴えて、やらないことを増やすと私は、おそらくもっと人を差別する人間になってたと思う。
自分の劣等感を棚に上げ、他人が悪い、他人のせいで、お前なんかのせいでっていう気持ちが大きくなればなるほど、醜くなる。
じゃあ、その相手をも、救おうとする自分をなぜ作らなかったんだ!
その責任は自分にある。
他人にも同じことが言える。
誰かのせいにするなら、自分の甘さに甘えた自分をどうにかしようとしなかったその人の責任だって思う。
だから、その二人ともが悪い。
自分の都合を押し通そうとして、相手の気持ちを考えなかったんだから。
どっかで歪みが出る。
なんとかしようとした。それで、うまくいったのと、なんとかしようとした。それで、うまくいかなかった。このことは同じことだって思うけど、何もしなかった。それで、うまくいかなかったのと何もしなかった。でも、うまくいった。はやっぱり違う。
今までやってきたことの貯金で今回なんとかいけたけど、その先は分からない。
今度同じようなことが起こったら、足りないかもしれない。
もしそうなったら、八方ふさがりになる。
だって、病気になって、医療費がいる。でもお金はありません。仕事はしています。でも、今まで通り、働けませんでは困るんだよ。
職場に行けば、あいつは仕事ができない。
って言われて、給料泥棒って言われる。
行きたくないって思う。でも、治療費を稼がないといけない。だったら、どんな状態に陥っても頑張るしかないんだよ。
だから、逃げられない。
命を自分で絶っても、死に切れなかったら?
周りの人の気持ちを考えないって言われる。
死んだ後も、気持ちは残る。
だったら、どうなるか分からないから、やってみれば良い。
どうせ下手くそでどうせ無様な自分と結局は向き合うことになる。
あの時、バカにした人の気持ちを、今度は自分の心で、なぞることになる。
だから、回り回って自分に返ってくる。
やらなかったのは自分なんだから。
逃げていても、渡されたバトンを次の人に渡さないと同じようになる。
だったら、全力で走って、次の人に渡せば良い。
どうも、こんにちは、新しい人って。
新成人に大人になることがどういうことが教えてあげれば良い。
体験してみなければ分からないことが山ほどあるんだから。
想像以上にしんどいことを、その身をもってやれば、他人をないがしろになんてできない。
それがその人の痛みを感じさせる感性となるものなんだから。
それが自分を育てる最高の栄養剤になるんだって思う。
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