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事実であるかどうかが本になる

東大や京大、慶應義塾大学などを卒業した人の本を読むと、なぜ、彼らがそこまで勉強ができるようになったのかが分かった。


それは、すべて、感覚ではなく、理論を組み立てて、実践しているからだ。

例えば、目次を見た時、ほとんどが、断言している。

そして、それらをまとめて章を作る。

そして、章をまとめたものが、タイトルとなっている。


ある事実を抽象化し、その抽象化した内容をさらに抽象化している。

例えば、一個人から家族になり、家族から地域になり、地域から市区町村になり、そして、都道府県になり、最後に国家レベルまで引き上がる感じ。


抽象化による、抽象化。


そうして、理論を展開している。

さらに、面白いのが、ほとんどの目次が、肯定的であるということ。

こういうことはない。
っていう項目よりもこういうことです。っていう項目ばかりを集めている

こう思うっていうものは一切排除して、こうなんだって項目ばかり。

たまに問題提起もするけど。

つまり、勉強ができるっていうのは、断言して何かを言うってことなんだなって改めて思う。


それと最近、考え付いたことでこういうことがある。
簿記の勉強をしてたら、純資産、資産、負債、収益、費用って項目が出てくるのだけど、これを二分化して考える。

借りと貸しについて。

貸借対照表とか損益計算書ってものも出てくるのだけど、結局は、抽象化しているだけにすぎないなってことに気付く。

資産、純資産、負債を合わせて考えたものが、貸借対照表で、収益と費用を合わせて考えたのが損益計算書。

結局は、何かと何かを組み合わせたり、ある一つの物事を二つの立場に分けて考えて、あるフィルターに通すと、違う言葉になるってだけなんだと気づく。

この考え方って結構いろんなところで使われてて、最近読んだ清風高校の中高一貫の成功の秘訣っていう本の中の冒頭で、学習についてこう説明されてた。

学習イコール勉強って考え方が主流だけど、心理学では、訓練や練習によってもたらされる比較的持続的な行動の変容と定義されるって。



つまり、学習って言葉をどう捉えるのかが重要なんだろうな。


ある立場からしたら、そういう答えになるし、ある立場からしたら、また別の答えになるんだろうな。
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