自分の生きる道がなんとなく定まってきて、こうしよう、ああしようが私の中にある。
そのためには、こういうことが必要だなって思っていて、でも、やりすぎちゃうといけないから、時間を決めて、緩急をつけている。
そんな中、今回、ご紹介したい話は、俯瞰についてのお話
まず、初めになぜ、俯瞰について話したいと思ったのかと言うと、私の読む本に、よく出てくる話だから。
それで、その本を読み切った後、たまたま動画で、お坊さんが俯瞰するという視点の話をしてくれたので、紹介したいと思った。
っで、もう一つ言っておかなくちゃいけないことがある。
それは人生って、一人でできているものじゃないって話。
当たり前のことなんだけど、どうしても人って自分の考えに固執してああだ、こうだと言いたがる。
私の場合はこうだとか、ああだとか。
でも、それは一般的じゃないし、個人的な話をされても、それ以上話は膨らまない。
ああ、そう。ご苦労だったね。で、終わる。
でも、それをそういう風なかたちで終わらせても、しょうがなくて、俯瞰して見ると言うことを覚えたら、かなり生きやすくはなると思う。
なぜなら、その断片的な体験も、大切なことたったと思えるから。
っで、じゃあ、俯瞰して見るってどういうことかというと、空から見る感覚と同じ。
地図を見ているように、自分がどこにいるのか確認するのと同じ。
もう一個、分かりやすい例えをするなら、学校を外から見る感じと同じ。
運動場で運動する生徒もいれば、プールで泳ぐ生徒もいる。体育館で運動する生徒もいる。
一年生のクラスでは、英語、数学、社会、理科、国語の授業を受ける生徒や音楽室で歌を歌う生徒もいる。
それぞれがそれぞれの場所で機能している。
これって、喜怒哀楽も同じ。
喜んだりしたと思ったら、怒ったりして、哀しいと思ったら、楽しいと思ってみたり。
とどまることがない、ただ一つのこと。
マンションを外から見ていても同じことが言える。
1号室には新婚さんが愛を語っていたり、2号室には単身赴任のお父さんがいて、寂しそうにお弁当食べてたり、3号室には若者がいて、恋人と喧嘩していたり4号室には大家さんがテレビ観てせんべいかじっていたり、それぞれ、ほぼ同じ構造でできていたとしても、そこにいる人々によって、状況は変化する。
だから、自分も同じ、無常なんだよな。
同じだと思っていても、体はどんどん年老いていく。
若い頃にできていたこともできなくなっていったりする。
でも、逆に、若い頃に解けなかった問題が解けるようになったりもする。
言葉では捉え切れなくて、解決できていない問題も数多くある。
でも、結局は、お釈迦様の手のひらに乗せられて、じたばたもがいていた自分が本当なんだろう。
いくら、俺は偉いんだ!って言っても、仏様や神様から見れば、所詮、みんなやっていることは同じだと思う。
あらがって無駄なときもあれば、あらがって動くときもある。
だから、変えなくちゃいけないこと、変えちゃいけないこと、変えても変えなくても良いもの、それらをちゃんと見極める審美眼を身に付けたいって思う。
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