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武術散策  プロ格闘技論  ⑦武道・競技・興行  一



 「プロレスは存在しない」と前記した。しかしそれは決して否定的な意味ではない。別に言えば同じように「文学は存在しない」と言うこともできるだろう。文学をより狭義に近代文学以降のものと限定したとしても、それは「散文で書かれたもの」という極めて曖昧な定義しかもたない。

 逆にそのような文学は、他のあらゆる記述法を飲み込む「何でもあり」の媒体となる。それは韻文を模倣し、口述を吸収し、歴史記述、思想、現実性と幻想性のあらゆる領域を消化吸収する。--ただし、そのどれかになるのではなく、「どれよりも高い表現形式」として。
 そこには「文学とはこうだ」という決まった形式がない。文学とは自在、形式を持たない形式として、常に新しい形式を更新する運動体としてのみ意味があるのである。その意味では「文学は存在しない」という否定定義によってではなく、「文学とは非存在である」と肯定定義するべきかもしれない。その意味でプロレスもまた「プロレスとは非存在である」と言うべきなのだろう。

 しかし実体としての「プロレス」は、本当に存在しないのだろうか。あるいは「プロレス」を実体たらしめる同一性を、それが「興行」であるということに還元できるかもしれない。それはあくまで「見せ物」なのだ。それは「見せ物/真剣勝負」という対立を越えた「見せ物」--それは実用や達成によって実現されるものではなく、メディアとして初めて成立するものなのだということである。
 実際のところ、プロレスは、ある意味では「存在する」。それはメキシコのルチャ・リブレなどを見れば一目瞭然なのである。7割のレスラーがマスクを被るというその土壌は、マスクによって自分のキャラクターを作り出し、そしてパフォーマンスによってそのキャラクターを実体化する半ば「芸術」に近いような「創作物」として存在する。

 あるいは 「WWFのプロレスは真剣勝負ではない」と宣言したマクマホンのアメリカン・プロレスもある意味では存在するのである。そして日本ではターザン山本によれば、「全日本プロレスは王道である」と言った馬場の全日の方に「プロレス」はあったのだ。
 ターザン山本の言い方では、「プロレス」の表のブランドは紛れもなく全日だった。全日はファンクス兄弟を始め、マスカラスやマードック、後に新日に行くがブッチャーやハンセン、ブローディーといったスターを独占していた。この豪華絢爛たる顔ぶれで、間違いなく馬場は「プロレス」という存在を持っていたのである。

 それに対して新日を旗揚げした猪木は、何とかして裏のブランドを掲げる必要があった。それがカール・ゴッチを呼んだ試合形式「ストロング・スタイル」である。ターザン山本によればゴッチが「プロレスの神様」なのは日本だけで、現役時代はゴッチは間接技がうまいレスラーというだけで前座、いいところが中座のそんなに有名ではないレスラーだった。
 しかしそこで猪木が「真の強さ」という称号で、新しい図式を作りあげる--そう、前章では新日最初の図式を「外人/日本人」と書いたが、真実はそうではない。本当は「通常スタイル/ストロングスタイル」という差異こそが、猪木が最初に打ち出した図式だったのである。

 どこがどう「ストロング」なのかは、よく判らない。しかし猪木とゴッチの地味な試合を、観客はこれが「ストロング・スタイル」なんだと理解した。それは猪木の学習効果が、見事に根付いたことを意味している。しかしこの最初の図式は、それ以降の図式のように直接対決して競いあうものではない。むしろそれはあのUWFから始まる、「認識論的転換」に極めて酷似したものだったのだ。
 猪木はプロレスが、少なくとも「格闘技」としては「何もない」ことを知っていた。にも関わらず「見せ物」のプロレスと差異化を図るため、「強さ」を図式化した。そのために猪木は、絶えず「外部」を求め、物語を紡ぎ続けるような「興行」をせざるをえなくなるのである。

 本来「プロレス」とは「特撮」のように、定期的に「正義が勝ち、悪が負ける」物語を反復する--まさにルチャ・リブレのような興行でも良かったのである。しかし猪木はその意味を変えてしまい、プロレスが「最強の格闘技」であると言ってしまったのだ。
 では格闘技とは何だろうか。格闘技では恐らく武術と競技が、その近接的な存在形態であると言えるだろう。武術とは、過去に存在した「戦争」という局面に対応する殺人護身の技術を「武術」と言えるだろう。それは実用という観点から作られ、そして意味を持つものである。

 対して、戦う技術を体系化し安全なものにした上で、運動能力の向上や実用、観賞用の媒体にしたのが「競技」--つまり「スポーツ」化された形態であるといえる。この両者に対して「プロレス」は、武術でも競技でもない、決定的な差異を持っている。それは何か。
 武術・競技の、プロレスとの決定的な差異は、その「自足性」という点である。自足性とは、武術や競技が、それ自体でそのものの意味を持っているということである。武術とは達人として達成することに意味があり、別にそれを「見せる」必要はことさらない。

 競技は、それを見る大会はあるがそれは経済収入を得るためではなく、根本的には一般競技者という愛好者が存在することを前提にしている。つまりその技術の知識や、そこからもたらされる身体性の効果がそれ自体で意味を持っているのである。
 しかしプロレスは、常に「観客」を必要とする。プロレスは「興行」として存在することで、初めて意味を持つのである。では「総合格闘技」はどうだろうか。「総合格闘技」は基本的には、「路上の喧嘩」を前提にしている。しかし実際には前記したように、現実の戦いにおいては平地で、武器のない、一対一の戦いなど滅多にない。「総合格闘技」は現在のところ、少なくとも「見せる」ことによって成立しているのである。
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特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ⑤



 観察が可能であるためには、ある種の「モデル」が存在しなければならない。これは決定的なことである。言い換えれば、人間はある種の「モデル」を通してのみ、「現実」というものを認識することができる。しかし、そのような「モデル」は、決して「現実」とイコールではない。

 にも関わらず「現実」は、「モデル」を通してのみ、その「モデル」によって可能になる範囲でのみ、観察可能になる。ルーマン理論ではそれを「システム」の機能といい、ラカン理論ではそれを「象徴体系」と名付けるだろう。だがここではそれを、その仮構性を強調する意味で「モデル」としたままにしよう。
 そのような「モデル」は、あらゆる領域に見出される。それは現象的には物理学の体系である。予想した出来事が実際に起きるという現象は、必ずしもその現象についての説明と現象それ自体が合致していることを意味するものではない。

 何か別の原因によってその結果が誘導されていたとしても、その時点では現象はその説明によってのみ可能になる領域でのみ観察可能である。と同時にその時点では、その説明がそれ以上の説明を有しているかいないかは決定できない。説明が現象に即しているということは、必ずしもそれが真理であることを意味しないのである。少なくとも、その説明それ自体では、その説明自体の真理性は保証できない。
 事実、相対性理論が導き出される以前、ニュートン物理学の計算では異なるはずの位置に恒星が存在することが確認されていた。しかし当時の物理学者はその恒星についても、ニュートン物理学の理論の範囲内で、細部の修正をほどこしただけでそれを「説明」していたのである。

 しかしそれは相対性理論が出た後に、その説明が「不適切」であることが判った。つまり現象に対してはどんな次元での「モデル」でも説明が可能であるし、その時点での理解は可能である。しかしその「モデル」自体を観察可能にするような新たな「モデル」が登場した時、その以前の「モデル」は自らが観察しきれていなかった領域を明かされることになる。
 それは「モデル」があって初めて、「現実」が観察可能になるという事態を極めて明瞭に表している。がしかし、これを捉えて「科学は真理ではない」などと言うべきではない。むしろここで必要なのは、「真理」という概念の意味内容に対する、より重要な考察なのである。

 またそれは心理的には「自己」という意識である。『私』は社会的条件--他者の視底を通過した「私」という「モデル」によって、自己を認識する。しかしその「私」が、必ずしも自身を完全に把握している訳ではない。
 例えばフロイトの臨床例を読むと、ほとんど患者が自らの肉体的疾患について、一通りの自分なりの脈絡のある理解を持っていることが判る。しかしフロイトによるカウセリングを受け、その無意識の領域に踏み込んで行くと、その原因は本人が考え説明したのとは全く異なる原因から発生していることがしばしばある。

 それは常に本人がなるべく思い出さないようにしていたことや、また本人が余り重要ではないと判断していた過去の経験に基づいている。それは無意識が「自我」の安全を計るために、その防御のために働くメカニズムなのだが、その機能の結果が肉体疾患や本人の忘却という事態となって現れる。
 つまりそれは本人の「自我」を守ってはいるものの、本人にとって無害とは言い難い結果となって現れる。「私」とは、そのような無意識のメカニズムによって極めて巧妙に遠ざけられた過去の記憶の排除に基づいた構成された「モデル」なのであり、それは「自己」についての観察を可能にすると同時に、自身の精神機能の氷山の一角にすぎないのである。それは場合によっては、自身から「自己」を遠ざけるものですらあるのだ。

 しかしだからといって我々は、「私」という意識を捨てることはできない。我々の社会は「私」という意識を根底に構成されており、その障害は痴呆症のように自己の客観的認識そのものの欠如となって現れることになる。
 そしてそれが全体性の場合には、あらゆる意味での社会思想、社会理論、あるいは道徳思想などであると言える。現在の民主主義の到来は17世紀の啓蒙時代あたりをその契機として持つが、それはまず「社会批判」という形の自己主題化--「社会が社会を問題にする」ことを通してのみ実現した。

 その社会批判はその時代の「体制」に対する批判となるが、この批判を可能にするためには現体制とは異なる原理を持ってこなければならない。ホッブスの場合には「偽史」としての法と体制の成立過程を描き、原初的な社会の「万人の万人に対する戦い」という無秩序状態からの脱出する方法としての「体制」の根拠を描く。
 それは「体制」それ自体が持っている 「本来の目的」を取り出すことに意味があるのであり、その「本来の目的」の延長線条に、より「あるべき姿」としての社会を描き出すことになる。またルソーの場合には、原初社会の「楽園」性を描き、文明や人為的体制というものが、いかに人間本欄の感受性を抑圧するかということを描写する。そのことを通して、指標となる倫理的指針を作り、それを通して社会批判を成すのである。
 
 重要なのはこのような「体制」批判をする観点が、現在の社会体制以外の体制を想像することによって、あらゆる体制を包括する抽象的な「社会」というものを観察可能にする点である。「社会」とは、単なる「人間の群れ」ではない。「社会」とは、ある体系だった秩序を意味している。
 問題はその社会体系と秩序がいかにして形成されているかということであり、その体系と秩序の根拠である。最初の段階では体系と秩序は、超越的存在である「神」に根拠を持つ例が多い。それは天皇が天照大御神の末裔であることを「日本書紀」で文書化して根拠づけようとしたり、また絶対王政期の「王権神受説」などもそのバリエーションと考えられる。

 次の段階では体系と秩序は「倫理」的目的から根拠づけられる。つまり体系と秩序は、それなしに起こると想定される争乱状態の防衛のために、必然的に生まれてくるものなのである。中国の諸子百家の「王道・覇道」という思想はそれであるし、また法学の最初期の「自然法」という発想もそれだろう。
 体系と秩序に対して、超越的根拠は必然性から説明を試み、倫理的説明はその不可欠性を説明する。そこでは支配者の支配も「統治がなければ国が荒れる」という、「ないよりはまし」という倫理的条件から不可避的なものとして受け入れられることになる。それらは全て既に現実に存在してしまっている「社会」という現象に対する説明なのである。

武道随感  いよいよ都大会



 今日の稽古を休んだので、この前の日曜日の合同稽古が、都大会前の最後の練習となった。今日、休んだのは奥さんも僕も明日の仕事が大変なため。奥さんは新店舗の開店オープン、僕はGW直前の最後の繁忙日である。

 しかし正直、もうちょっと練習時間が欲しかった、とか思ってしまう。18日の午前だけの合同稽古で、ある受けの形と新しい技のヒントを得て、それが結構使えると判った。しかしまだ確実に「自分の技」にしたとは言いがたい。

 この前(25日)の合同稽古は、午前・午後を通した一日稽古。疲れた~。激しいと同時に、和やかな感じの一日だった。昼ご飯はみんなで戸外にビニールシートをひき、持ち寄ったお弁当を食べる。こういう時、だいたい数人がオヤツを持ってきているので、それをいただく。手作りケーキが美味しかった。
 さすが、大半が主婦の人たちの集まりである。オープンしたばかりの「しまむら」の話とか、漬物の漬け方とかの話しで盛り上がってる。む~。天気がよかったので、妙にほんわかしていた。

 けど、わざわざ来ていただいたG先生の指導は厳格そのもの。午後は防具と型部に分かれて稽古したけど、ヘロヘロになるまで動いた。今日もまだちょっと、足に筋肉疲労が残ってる。ちょっと堪えた。
 ほとんどを防具の稽古ですごしたのだが、ここでも発見が。なかで「とにかく攻める/とにかく守る」という対練をしたときに、攻めて崩すやり方と、守りにおける薙刀の使い方や体捌きにちょっと発見があった。

 できたらこれを納得のできるまで精度を上げてから試合に臨みたかった、と思うけど、まあこれも仕方なし。けど、「気づき」自体が財産なので、それは大会後の研究課題にする。
 一応、都大会の防具の試合に出るということで、それを中心に稽古をしてきたが、ここにきて、ふと型や理合上の発見が体感覚としてヒントがあった。試合自体も何か勉強になればいい、というくらいの感じでいる。

 考えてみると一年前は、都大会を「ほぼ薙刀素人」として見物したのだった。あれから一年かあ~。早い。あっという間だ。そしてその時は、奥さんのペアが三位入賞したのだった。今ならその凄さが、よく判る。去年もやはり五月四日の開催日だ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157372358&owner_id=16012523
 しかしまさか、一年後に自分が出ることになるとは考えもしなかった。男子は競技人口が少ないので出やすい、という事もあるが、やはりかなり早いペースらしい。ちょっと無謀、とか思わないでもない。

 というのも、女性の方は「高校生の部」とか「一般女子、初二段」とか年齢と段位で、試合がクラス分けされているのだ。それに対して男子は、「男子の部」だけ。…おいおい、高校生もいれば二、三段の上段者もいるってか。僕みたいな経験一年の二級選手が出るような場所じゃないだろ。
 まあけど、せっかくのお話なので、楽しんでこようと思う。なにせ男性と薙刀を合せる機会というのは、驚くほど少ないのだ。エースのC君くらいしか普段手合わせする男性がいないので、上段者の薙刀を味わってこようと思っている。

 そんなわけで、後は試合後の結果報告で。気負わずに頑張ってきます。
  

武術散策  プロ格闘技論  ⑥アントニオ猪木と長州力  八



 対して長州の「反骨」とは何か。長州は猪木のように「プロレス」の実体を疑ってはいない。だから「外部」に対する意識があるわけではない。長州の戦いは常に現存する構造に対する挑戦、抵抗の反乱なのである。

 それはつまり「内部変革」を意図している。猪木はこの「内部変革」を起こす長州の「反骨」を、自らの「物語」にはめこみ図式化した。猪木の「外部拡張」、そして長州の「内部変革」が新日の歴史を形作る原動力となったのである。
 これは調度、猪木の70年代、長州の80年代という時代の雰囲気にピッタリ対応している。70年代とは新しい消費社会が始まり、あらゆる分野のメディアにおいて新しい表現方法が模索され、次々と確立された時代--思想的には構造主義の時代である。

 そして80年代とは、既に確立されたスキルを「枠(構造)」として前提にし、その「構造」のなかでそのスキルの通常の意味を変えていこうとする--思想的にはポスト構造主義の時代となる。その意味変革の実現は、否定や転倒、反復など様々な形態を持ったが、その「差異化」する運動のなかで、新しい流れが連続性を持ちつつ現れる。
 UWFとはその差異化の落とし子であり、それは既存の意味体系全体を否定するものとなっていく。思想的にはそれはポスト構造主義から発生したポストモダン--意味体系全体の否定の運動と対応するだろう。

 それは冷戦構造が崩壊したことを自覚するに至る、95年までの主流となる。しかしアルティメットの波--アメリカの市場原理はその後に全面的に現れるのであり、それはポストモダンやU系格闘技をまたたく間に駆逐していくのである。
 しかし前記したように、「PRIDE」の人気が昂まり現在チケットが売れているからと言って、「PRIDE」が面白くなったわけではない。ポスト構造主義者と見做されるミシェル・フーコーやデリダ、ロラン・バルトなどが当初、構造主義者と見做されたように、構造を明らかにしつつそれに「反骨」する姿勢はまだしも意味を有している。

 しかしその意味体系それ自体の根拠を、「何もない」ものとして暴露するポストモダンは、その意味体系全体を脅かす要素を持っているのだ。猪木にすれば長州は「プロレス」を変動させはするが、その「無根拠」を暴いたりはしない点で安全である。
 しかしUWFという存在は「プロレス」それ自体の無根拠性を暴く可能性がある点で危険なのである。それは「何もない」空間を埋めてきた「物語」に対して、それは「図式」なのだという「認識」論として現れた。冒頭に書いた「図式論」から「認識論」への展開とはこのような意味である。

 そしてその認識論的展開の後には、アメリカ型市場主義--アルティメットが到来し席巻する。それは言わば「構造主義・ポスト構造主義・ポストモダン」全てを無化しようとする物質的な影響力--経済、そして何よりも「政治性」の復権と言っていいだろう。
 政治性とは抑圧--無言の抑圧なのである。だが本来は、そのような政治性に対してこそ、思想という抵抗力、免疫力が必要なのだ。そうでなければ人間は、たやすく政治の力に飲まれていってしまう。しかし現在の政治性は経済の陰に、その力を隠して浸透してくる。

 思想体系の意味自体を否定したポストモダンは他ならぬ「思想」そのものだったが、市場原理はポストモダンのような顔をした政治の力に他ならない。その風貌は「思想」を否定する点で似ていたとしても、根本的に異なっているのである。
 ポストモダンと市場原理 (それは市場原理の反動としておこる共同体主義も含む)は、90年代を通してほとんど地続きに見える。しかしどんなに地続きに見えたとしても、本来的にU系団体とアルティメットは、別物だったはずなのだ。「物語」を否定したとしても、U系団体は「見せる」ことまで否定した訳てはない。

 U系は「図式」を見せるのではなく「技術」を見せることに依拠していたのだが、アルティメットは単に「勝者」に光を当てるくだらないイベントにすぎない。それはターザン山本風に言えば、勝者に光を当てる発想--「進化論的」図式に基づくアングロ・サクソン的な見方にすぎない。
 それは一方が一方を「潰す」だけの、一人勝ちの思考なのである。ポストモダンが思想を否定しつつも、究極のところ「思考」することを要請するのに対して、市場原理はむしろ「思考」することを圧力で放棄させるのである。それはアメリカ企業がアジア(特に中国)などで、「アメリカ型」の経営、取引交渉などを「国際基準」として「教化」して回っていることに如実に現れている。

 それは経済的な行為などではなく、間違いなく「政治的」な行為なのだ。それは「普遍性を教化する」という、西欧のいつもながらの、歴史的に幾度も繰り返されてきたあのドグマティックな行為の反復である。ポストモダンが例えば、法の無根拠性から法律それ自体が白人主義的な根拠を有していることを暴露するような倫理性に支えられていたのに対して、市場原理は一人勝ちの勝者が弱者を抑圧することを是認する一つの方便にすぎない。
 市場原理が「思考」を排除するように、「PRIDE」は格闘技を見るということを「貧しく」している。そこにはパンクラスで見られたような高い技術の攻防が生み出す「名勝負」もなく、新日全盛において実現されたような「熱狂」の試合もない。

 素人の観客は血だらけの殴り合いか、応援する日本人選手の勝利が見たいだけ。こんな貧弱な土壌の上で格闘技は進んでいくしかないのだろうか。船木や田村が見せたあの「技術」も、猪木が観客を熱狂させたあの「図式」も、もはやそれは過去のものでしかないのだろうか。

思索の遍歴  ロボットと人間  ③初期条件と生成文法



 ニューラルネットワーク型のコンピューターが、基本的には人間の大脳神経系によるネットワークと変わらないものとして、ではニューラルネットワークの規模を拡大していけば、AIは人間の大脳と同等な機能を有するようになるのだろうか。
 
 この疑問を考える前に、まず立花隆が『電脳進化論』を書いた段階でのニューラルネットワーク・コンピューターの規模がどれくらいのものだったのか見てみよう。日立研究所の主任研究員である山田氏は、次のように答えている。

『このままボードをどんどんつないでいっても4000ニューロンまでは拡張可能ですし、さらにアドレスのビット数を増やすなどの改良を加えれば、もっと増やせます。しかし100万ニューロンはどうかといったら、技術的には可能でも部屋いっぱいの大きさになってしまいます。人間の大脳なみの140億ニューロンまで拡張しろといったら、物理的にはちょっとできないということになります。  』

 しかし山田氏はこれに続いて、多くの求められる仕事に対して「大体、1000ニューロンのオーダーでできてしまうんです」とも言っている。それ以上に規模を拡大しても、それを使いこなすだけの課題も、またそういう人もいないというのが、現在の水準なのだそうだ。

 しかしその物理的問題を技術的に克服したとして、ニューラルネットワーク型のAIは、人間の大脳に近づけるのだろうか? それに対して立花隆は、東京大学工学部計数工学科教授である、甘利俊一教授にインタビューしている。甘利教授というのはニューラルネットワークの基礎理論を作った一人として、世界的に有名なのだそうである。

『ニューロコンピューターは学習ができるといってもその構造は人間が与え、コンピューターが自分でやるのは、シナプスの重みづけを変化させるという、いわば微調整の部分でしかないんですね。しかも初期構造も、本当に問題解決にふさわしい構造を考えて与えたというものではない。
 ある程度の階層構造なんか持たせるにせよ、基本的にはランダムにニューロンを結合しただけです。人間の脳というのは、ああいう白紙状態から出発するのではなくて、相当うまくできた初期構造を持っているんですね。そういうものをどうやって作っていくかという問題があります。  』

 この「初期条件の巧みさ」という話しでまず僕が想起したのは、「自然言語」の問題である。例えばオウムや九官鳥は、人間の言語を模倣できる。つまり、発声と記憶能力は充分に持っている。あるいはチンパンジーやイルカは、ある程度の個数まで単語の意味を理解し、単語による指示を理解できることが判っている。
 実際、大人のチンパンジーは人間の五歳児程度の知能があるといわれている。しかし言語という領域に問題を限定するとどうだろう。人間は早ければ二歳くらいから喋りだし、そしてそれはオウムのようなまさに「オウム返し」に言葉を模倣する域に留まらない。

 人間の子供は言葉が使えるようになると、教えたわけでもないのに、次々と「新しい文」を作り出す。そしてその語彙は、チンパンジーの限界をあっさりと抜き去ってしまう。これは人間の子供とチンパンジーの、「知能」の差ではない。
 知能の上ではある部分でチンパンジーに劣る人間の子供は、非常に特殊な初期条件を持っているがために、自然言語を獲得することができると考えられる。この問題に言語学の分野から答えようとしたのがN・チョムスキーである。

 チョムスキーはこの人間が持つ自然言語獲得力の背後に、「生成文法」という機能を考えた。チョムスキーによればこれは「言語」の法則かもしれないし、また「大脳」の機能かもしれない。ただ重要なのは、複雑かつ未知の文章を構成するには、それを統御する一種の「文法的な規則」があり、それを人間は先天的に有しているがゆえに、自然言語を獲得できるのだと考えた点にある。
 この「生成文法」が複雑な言語生成をより単純な規則で統御する法則であり、チンパンジーやオウムのように言語を「模倣」するのではなく、この「生成文法」から言語を生み出すがために、人間は知能が未発達な幼児期から自然言語を駆使できるのだとチョムスキーは論じたのだった。

 このチョムスキーの「生成文法理論」は、一時、時代を席巻した。チョムスキーが極めて論争が得意なこともあり、チョムスキーの考えは非常な説得性を持って言語界や認知心理学の領域で浸透していった。
 しかしその完璧に見えた理論も、厳密な反論もあってチョムスキーは次々とそのたびに、その「文法理論」を刷新していった。しかしその繰り返す刷新の結果、「生成文法」それ自体は段々、複雑なものになっていったのである。

 そうなると、そもそもの「単純な文法規則が、複雑な言語生成を統御している」という当初の理論目的が見失われていった形になってしまった。またチョムスキーは、「大脳の一部」に生成文法を司る部位があり、それが脳科学の発達により具体的に発見される可能性を示唆していたが、それは未だになされていない。
 そういう条件が重なってか、現在ではあまり生成文法理論も省みられなくなった。しかしこれに替わる代替理論がないのも確かである。また、今後の脳科学の成果により、生成文法理論を司る部位が発見されるかもしれない。

 もし今後、この生成文法理論が大脳科学で発見される、あるいは生成文法理論がより完璧な形で整備されたら、これを構造的な形に捉えるかとが可能になるかもしれない。
 この生成文法の構造が解明、あるいは実装が可能なレベルで整備されたなら、それを初期条件としてニューラルネットワークに組み込んだAIを作る、というアイデアが可能になる。…ただし、そういう事が本当にありえるのかどうかまでは、正直、僕には判らないのではあるが。 

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