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雑断想  『笑い』を考える



 前に書いたことを概括してみると、『笑い』というのは、期待される通常の意味コードが外れたときや、それがずれた時に起こる現象ではないかと考える。

 それを踏まえた上で別シリーズ的ネタではあるが、「ロボットは笑いの機能をもてるか?」を考えてみよう。これは実は、意外に大変な課題なのだということが判る。
 と、いうのはロボットが社会的コミュニケーションに必要な意味コードを学習したとして、その意味コードにそぐわない現象は基本的には「エラー」と判断する、という事が想定されるからだ。つまりロボット的には「笑い」の起きるような意味の現場は、単なる「間違い」でしかないかもしれない、ということである。

 実際、前にあげたように、「笑い」のネタには「間違いを繰り返す」などのものもある。これは考えてみると不思議である。一回目ならただの間違い、二回目だったらイヤになるかも。けどそれが三回、四回と続くと、かえって「笑い」を引き起こす場合がある。
 この場合、意味コードの情報価は、単に「エラー」を複数重ねたにすぎない。情報論的には情報価は最初の一回目が一番大きく、その後は低下していくとされている。しかしこの場合、「繰り返す」ことが、新たな「認識」を引き起こしてるわけである。

 ロボットはこの質の「笑い」を理解、再現することが可能だろうか? 実際、このような局面では、人によっては可笑しいが、まったく笑えないという人もいる。つまり意味コードのずれに対する人の反応は、けっこう個人差がある。
 これを統一的に「Aのケース=笑い/Bのケース=エラー」という風に領域設定してプログラムを組むのは極めて困難と思われる。何がエラーで何が笑いになるかは、全く恣意的な領域だからだ。さらには同じ現象であるにも関わらず、ある場合にはエラーで、ある場合には笑い、ということすら存在し、その境界設定は全く明瞭じゃない。

 逆に言うと、我々が「笑う」というのは極めて不思議なことだ。例えばロックと遊んでるとき、ロックが「喜んでいる」と感じることがある。思い切り走り回って、追いかけっこをし、ボールにジャレついて遊ぶ。そこでは全身に「喜び」が表現されている。
 つまり犬なら「喜」がある。喜怒哀楽というが、その喜もあるし、怒、哀、楽もあると思う。しかし「笑」はどうか? 残念ながらロックに「笑」があるとは思えない。「笑」は、「喜」とも「楽」とも異なる反応だと僕は考えている。

 それは「意味」というものに深く関わっているからだと思うからだ。その意味のコードがまず理解されており、それが何らかの形でずれた時にだけ、「笑い」というのは起きる。しかしその意味のコードは、深く「言語」そして「人間社会」のルールに根深く関わっているのだ。
 そのような深い領域のコード使用の現場で、何故、「笑い」というものが生まれたのかが、逆に不思議に思われる。と、いうのもエラーに対しては修正情報を与えるだけで充分であり、そのエラーに対して何らかの付加意味を加える必要は、合理的にはそれほど重要じゃないのではない気がする。

 しかし恐らくは、「間違い」を初めとする様々な意味使用の現場で、その「意味の重さ」の度合いを「軽減する」必要から笑いというのは生じたのではないか、と思っている。
 大変な間違いをしたときとか、あまりにも緊張した場面で、その意味の「重さ」を軽減する。そういうことが「笑い」の始まりだったのではないだろうか。
 
 『笑い』というのはつまり「意味の重さ」を軽減する装置でもあるわけだが、これが場合によっては、『笑い』が政治批判の手段となったりする所以であると思う。つまり「真面目で重々しい」政治の命令コードを、『笑い』を入れることによって「軽く」してしまうのだ。
 そういう所からか、昔から圧政者というのは大体、「笑い」を嫌う。と同時にまた笑いを提供する側も、「風刺」というような洗練された手法を使い、『笑い』によって政体を批判してきた歴史がある。つまり「意味コードのずれ」を意識的に利用するのである。

 記号学者U・エーコの原作の映画『薔薇の名前』では、ある秘密の文献をめぐって事件が起きる。それは教会関係者が、どうしても秘匿したかった書物だったのだ。
 それがアリストテレスの『喜劇論』だった、というのが作品の主題である。無論、アリストテレスには『詩学』(悲劇論)は残っているが、喜劇論というのは発見されていない。それはフィクションである。

 しかしこの「喜劇=笑い」を、教会者が秘匿しようとした、というのが痛烈な主題なのだ。教会が象徴する宗教的言説は、常に「真面目で」「重く」なければいけない。それに対して「喜劇」は、その「重さ」を破壊してしまう力を持っている。他ならぬアリストテレスがそんなものを残したことは、どうしても秘密にされなければならない…というのが、その登場人物の言葉だった。
 「重さ」とか「軽さ」なんていうと、僕は一方でミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を思い出す。どうしても愛の重さを理解せず、浮気をやめない脳外科医の夫に愛想をつかして、妻は「貴方の存在の軽さに耐えられない」といって家を出るのだ。

 しかしその出た先の外国での政治的激変の「重さ」にふれて、その「重さ」にも耐えられなくなって妻は再び夫の元へ戻る。人生は「軽い」ばかりでもいけないが、「重い」ばかりでも大変なのだ。
 と、「笑い」のようなものを「真面目」に考える僕は気質的には、どっちかというと「軽さ」の足りない方である。重いんだね、体重は軽いくせに。……そんなわけで、今、「軽さ」を学習中というわけである。けどこれはどうも、ドロロ君の二の舞になりそうな気配がしてる。
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思索の遍歴  ロボットと人間  ④言語の生成と論理



 言語の生成性は、何に準拠づけられているのだろうか? これを考えたとき、通常は言語の主たる機能と思われる、「論理による対象把握」とか「他者との情報交換」とかを考えたくなるのではないだろうか。しかし実は言語の生成機能は、そういうものとはある種、別なものとして存在することが判っている。

 ウィリアムズ症候群、という症状がある。これは遺伝子の突然変異による精神遅滞の一種で、言葉を発するのが五歳くらいと、大分遅くなってから現れる。そして直観と共感は優れているが、IQはダウン症候群並みの50~70程度に留まるのだという。
 このウィリアムズ症候群の10歳の子供に、食器棚からこれとこれを取ってきてくれと頼むと、訳が判らなくなって違うものを持ってくる。靴紐を結べないし、15+20の足し算ができない。自転車に乗ってる人を描いてもらうと、スポークとタイヤ、チェーン、足などがごちゃごちゃになった絵を描く。

 このウィリアムズ症候群はしかし、「おしゃべり」に特徴がある。リタ・カーターは次のように描写する。
『ウィリアムズ症候群の子どもたちは、おしゃべりがとめどもなく続く。知らない人をつかまえてはいつまでも会話を続けるし、奇妙な感嘆詞を発したり、相手の言葉をそっくりそのまま返したりする。
「……すると彼女は言いました。『どうしよう! オーブンにケーキを入れっぱなしだわ』私は言いました。『それは大変! お茶の時間がだいなしね!』次に彼女は言いました。『すぐ家に飛んで帰らなくちゃ。ケーキが真っ黒焦げになるまえに出すのよ』私は言いました。『そうだ、そうだ!』…」
 スタイルとしては面白いかもしれないが、この手の話は日常茶飯事で、しかもでっちあげのことが多い。だがウィリアムズ症候群の子どもたちは、相手をだますつもりはないし、作り話をすることで優位に立とうとしているわけでもない。彼らにとって言葉は情報を伝える手段ではない。言葉を操ること、それだけが彼らの喜びなのである。  』
 (リタ・カーター著 養老孟司監修 藤井留美訳 『脳と心の地形図』 原書房)

 このウィリアムズ症候群を見ると、人間と言うのは「意味が判って」話をするのではなく、「単に話がしたいからする」という面が確かにあるのだということが判る。少なくとも言語を生成する機能と、論理的に物事を解釈する知能とは全く別の機能で、恐らくはそれを司る局所部位も別の箇所にあるのだ。
 言語の生成性を司るものとしてチョムスキーが「生成文法」をあげたという話をしたが、これはむしろ多様な言語生成の「統御規則」である。例えばチンパンジーは論理的に単語とその指示対象を判別できるが、彼らはウィリアムズ症候群になることはできない。案外、こういう場所に、人間とそれ以外の動物の決定的な違いがあるのかもしれない。

 このウィリアムズ症候群にちょっと近いと感じられるのが、ウェルニッケ失語症だ。大脳における言語領域を司るウェルニッケ野が損傷した、大脳損傷の例である。
 この患者は文法的に全く正しい発話がよどみなくできるから、離れた所から見たら正常な人と変わりはない。しかし近づいて話を聞いてみると、その話は全くナンセンスで理解できないものだという。間違った単語や、言葉ですらない音が混じっており、自分でも何を話しているのか判らない。

『ウェルニッケ失語症の患者に、ある絵について話してもらうとこんな感じになる。
「え~と、これは…母親がこっちにいて、ここから自分をよくするために働いている。でも彼女が見てる間、二人の男の子は別なところを見ている。彼らの小さなタイルが、母親の時間に入りこむ。彼女はそうなるから別の時間にも働く。だから二人の男のもいっしょに働いて、ひとりは働きながらうろうろして、持っていた時間がさらに×××(意味不明)」
 ウェルニッケ症候群の患者が繰りだす言葉は、とても印象的に聞こえる。ある人は自分が以前にしていた仕事を次のように説明した。
「(私は)その重役だったんです。トネーションについて、それがどういう種類か議論するのが不満でした……だから付き物のコンベンシメントから離れるために、ちがうトリクラには近づかないようにしていました」
 この類の話が、するすると口をついて出てくるのである。奇妙に思われるかもしれないが、当人話すのに何の苦労も感じてない。これは発話自体が脳のなかのまったく別なところで管理されてるからだ。  』(前掲書)

 終わりの患者の言葉に出てくる「トネーション」だとか「トリクラ」だとかは意味不明語だ。何の意味もないのだが、全体を見るとなんだか意味がありそうな言葉のように見える。しかしこれは情報を伝えようとしてる発話なのではなくて、単にその自発性から現れる発話行為なのだ。
 さてここで「ロボット」の問題を考えてみよう。もしロボットが言語を話し、人間とコミュニケーションできるような能力を求められるとしたら、どういう機能が必要になるだろうか?

 この人間における言葉の生成の原理を考えると、人間は「情報処理」のために言語を生成するのではなくて、「とにかく」喋りたいがために喋ってるような面があるということが判る。そこには自己目的的な『欲動』が働いているということだ。
 フロイト流にその無目的な欲動を、「リビドー」と名づけてもいいかもしれない。この盲目的な「リビドー」を積んでなければ、人間は逆に言えば「発話しない」かもしれないのだ(これは次回でとりあげる)。従ってロボットが人間並みに発話するためには、この盲目的ともいえる「リビドー」を『機能』として積んでいなければならない。…かもしれない。

 しかしそうすると、大脳損傷の例やウィリアムズ症候群のように、AIの一部が損傷したりすると、「とにかくずっと何か喋ってる」ようなロボットが現れるかもしれない。…そういえば手塚治虫先生のマンガにそういう作品があったのを思い出す。
 『七色いんこ』に出てくる、「オルガ」の物語である。2巻に収録されている、『ゴドーを待ちながら』という一編がそれだ。美しくも哀しい、アンドロイドの物語であった。

特撮最前線  超特撮論  四、自我と倫理  ⑥



 ルーマンは社会学の根本的な問題を「社会秩序はいかにして可能か」を説明することと定義している。逆に言えば「社会」は、既に存在している。それは「何故存在するのか、どのように形成されるのか」不明なまま、現実にただ存在している。

 体制批判とは、そのような既に存在している「社会」に対して、それを可視化するための一つの「モデル」なのである。そのような体制批判により、その体制が倫理的観点から批判され、より別な形態の体制が模索される。体制や秩序はいつも「別な可能性」を有している。
 それは実際に中国と日本といった異なる国家か存在したことや、ギリシアの都市国家(ポリス)が異なる多様な政治体制を有していたことが、その「比較」を通して「別の可能性」の存在を指示していたことにもつながる。

 しかしどんな体制や秩序であろうと、「社会」という土壌はその可能性全てを包括している。抽象的な意味での「社会」とは、全ての現実性と可能性を包括しているのである。民主主義は、それまで不可避的と思われてきた「体制」と「支配者」を、切り離して考えたことに発端を
持っている。
 そのような観点が可能になるためには、倫理的根拠から「社会」を観察することによって、「体制」には必ずしも「支配者」が必要な訳ではないということが認識されなければならない。そこでは「支配者によって体系・秩序が維持される」という、社会の「モデル」が批判されるのである。

 そして新しい「個人によって体系・秩序が維持される」というモデルに代替される。この近代の「個人」とは、発明的な概念である。近代の「個人」とは、そのように「社会」の可能を説明するための一つの「モデル」の産物なのである。
 社会の近代化とは、そのような「社会」の根拠を「個人」という新しい基礎に移し替えることから始まった。その「個人」とは、根本的には「倫理」的な準拠点である。つまりそれは人民が体系・秩序を欲するがために、それを形成する--「個人」の倫理的な意志によって「社会」は形成されている、という説明に他ならないのである。

 そのためにそれまで大半の人民に関係なかった体制、秩序、法律、経済、そして文化といった支配者層によって担われていたものを、新しい「個人」という基礎に植えつける変更が行われた。その変更はそれらの、それまでの存在形態そのものに理解と在り方の変更を迫るものとなったのである。つまりそれまでの「支配層」を基盤にした社会の「モデル」から、全く新しい社会のモデルが必要となったのである。
 それは19世紀末の人文社会科学の台頭は、新しい社会を観察するために新しい「モデル」が必要性だったことを物語っている。それは海外の植民地経営も含めた国際市場の動向を説明する経済理論であり、異なる社会形態に対応して「社会」という普遍的な形態から集団活動を捉えようとする社会学であり、社会階層や民族を越えた精神の営為を説明しようとする精神分析などであった。

 そのような「モデル」は観察可能な領域を拡大し、行為に対する指針を与える。「モデル」が行動に指針を与えるということを軽視すべきではない。最近ではアメリカ型の開放市場が、「成長する経済構造」として語られたことが「モデル」と言ってよい。
 この「開放市場」という「モデル」は、そのモデルが「正常」な構造であるという主張を背景に、現実に複数の経済体制の変更を促してきた。日本では金融ビックバン、規制緩和といった橋本政権によって実現された構造改革がそれであり、またアメリカとIMFが東南アジアに対して行った経済圧力もその主張を背景にしている。「モデル」は、世界を現実に動かす。

 逆に言えば、現実が動くのは「モデル」があってこそである。しかし問題なのは、その「モデル」が必ずしも、正確なモデルかどうかは、そのモデル自体では証明できない点である。実際、談合や終身雇用制、天下り、護送船団方式といっ日本型経済構造は、アメリカが不景気だった80年代には、西欧式経済構造を越える新しい経済体制として注目された時期もあったのである。
 特に会社内部の組織作りに関しては、トヨタの「トヨティズム」などが注目をされた。その「可能性のある経済体制」として注目された日本型経済体制が、15年後くらいには「不健康な経済体制」として批判されることになる。

 その時々の「モデル」の有効性は声高に語られるが、その「モデル」が本当に真実なのかどうかは全く別なのである。しかしだからと言って、我々は「モデル」を全く捨てる訳にはいかない。「モデル」を持たないことは、観察それ自体を放棄することになってしまうからだ。
 あくまで観察は、「モデル」を通すことによってのみ可能になるのであり、そしてその観察を通してのみ、行為ができるのである。

 このような「モデル」のなかでも、20世紀特に大きな影響を与えたのがマルクス理論である。経済を市場分析ではなく、生産と利益の再分配から分析し、「支配/被支配」の社会階層を「搾取する側/搾取される側=資本家/労働者」の経済階層に還元することによって新しい観点を社会観察にもたらした。
 ロシア革命と中国の共存革命は言うに及ばずだが、日本でも55年を最高潮にする労働争議や、60年安保などの学生運動には「モデル」してのマルクス理論が背景として存在する。それが70年代に入って「モデル」としての機能を失ったことは前述した。

 しかし70年代に、それに替わる「モデル」は存在したか。それは存在しなかった。人々は来るべき大衆消費社会に対して、また新たな複雑性と細分化を遂げる現代社会に対して、適切な「モデル」を持たなかったのである。
 話を先取りして説明するが、現在の社会理論として最も精密なルーマンの「社会システム理論」は、その極度に細分化され複雑性を増大させた現代社会を適切に捉えているが、しかしその対象同様に高度に抽象的であり難解で知られる。

 それは確かに観察可能な領域を拡大する力は持っているが、それが「モデルとして社会に浸透する力はマルクス理論に遠く及ばない。その説明法は「個人によって体系・秩序が維持される」という観点から大きく変更し、「システムによって体系・秩序が維持される」という形に変換される。
 しかしこれは「体系によって体系が維持される」と言っているも同然である。ルーマン理論が「同語反復にすぎない」という批判があるが、それはこのような事態に対しての事である。しかし無論それは、ルーマン理論を十分に理解してないばかりか、現代社会の正確な側面を捉えていない。

 それは「体系が、体系自身を維持(生産)する」という「自己準拠」あるいは「オートポイエシス」という問題系として把握されている。その専門的な議論はおいておくが、一つ確かなことはマルクス理論以降、大きな影響力を持つ「モデル」は失われ、現代社会を正確に捉えるのはもはや一筋縄ではいかないことである。

日々の事  ロック、上田城に上陸!



 GW初日、ということで「お出かけしよう!」という事になった。色々考えた挙句、相変わらずの群馬へ。混雑が予想されるので、頑張って5時に起きて、6時前に出発! これがよかった。

 道はけっこう空いていて、なんと9時ちょいくらいには大胡に到着。今日はまだ野菜がいっぱいある!(いつもは大分、減ってる) 野菜をしこたま買った後は、ロック君と思い切り遊ぶ! 今日は天気がいい上、朝なので人も少ない。
 以前に破壊したゴムボールに代わり、オレンジのニューボールを導入。これがロック君、いたく気に入ったらしい。よかった。とにかく時間が早いので、思い切っていっぱい遊んだ。ロック君もみるからに上機嫌、よかった。

 さてひとしきり遊んでみると、まだ10時半だ。予定では岩櫃城跡にでも行ってみるかと思っていたが、突如、別の案を思いつく。

「…上田、行ってみる?」
「今から!? そりゃあ、行けるなら嬉しいけど」
「朝早いからね、多分、お昼すぎくらいには到着できると思うよ」
「ホント! じゃあ、行こう! …お酒買いに」

 長野の上田市はけっこう好きな場所で、何度か行っている。ただし、それは全部ロック君の来る以前の話。上田市には上田城跡が残っており、真田氏ゆかりの地。『真田太平記』を書いた「池波正太郎記念館」もある。なぜか池波作品を読む前に、足を運んだことがある。
 で、まだ今ほど 日本酒を飲む以前。上田に遊びに行ったとき、観光会館で、なんの気なしに地元の蔵元の出してるカップ酒を買って帰ったことがあった。それが『亀齢』というお酒で、奥さんいわく「すごく美味しい」。

 これがきっかけでその後、瓶を買ってみたのだが、やはり美味しい。けど、今ほど日本酒を飲む以前のことなので、どちらかというと「イレギュラー」な感じの飲み心地だったのだ。
 しかしこの『亀齢』体験が、「美味しい日本酒」の基軸になる体験で、味を明確に覚えているわけでないにも関わらず、どこかでこれが基準になってる感があったのだ。それで奥さんは事あるごとに、「今、『亀齢』を飲みたいわあ」と言っていたのだ。

 しかし日帰りで長野まで行くと、往復だけで一日つぶれてしまうし、そうするとロック君を思い切り遊ばせる機会もなくなってしまう。それだとせっかく遠出してもロック君がつまらないので、やはり遊べる大胡に来てしまうというのが最近の傾向だったのだ。
 けど、この日は朝が早かったせいで時間に余裕がある。榛名山を横に見ながら、草津行きの山道をすり抜け、山道を上田まで抜ければ充分に行けるんじゃないか。ロック君はもう、すっかり遊んで満足したみたいだし。

 と、いうわけで突如の思いつきで群馬から長野へGo! 榛名山を横手に見ながら、渓流沿いに草津方面の山道へ向かう。ちょっと草津までが込んでたけど、そこを抜けちゃうと峠道がガラガラ。気持ちよくドライブして、上田へと向かった。
 行く途中に奥さんにガイドブックで探してもらっていた、パン屋も兼ねてる美味しそうなカフェに向かう。行っみると、なんだか普通の住宅地の一角にある、ロッジ風の建物だ。『カンパアニュ』というお店。

 ここでチキングリルのランチを頼むと、ちょっと予想外の小洒落た感じの皿が出てきた。チキンは多分、カレーとしょうがを使ってる。トマトと人参が添えてあって、それにスープ、サラダと三種類のパンが付いてきた。
 チキンを一口入れて驚く。美味い。お洒落な外見に負けない上品な味付け。これはビックリ。ついでゴマパン(バケットのカット)を口にして、もう驚愕! 

 このパンの美味さには驚いた。ゴマとノーマル、そしてベーコンを入れた三種類のパンが出てきたのだが、このパンの美味さは半端じゃなかった。
 実は長野は、パン屋の激戦区だと前から思っている。上田市内にも天然酵母だけのこだわりパンだとか、様々な工夫を凝らしたパン屋があり、実にそのレベルは高い。

 東京の人気パン屋なんかに行くと、やたらと柔らかくて口ざわりのいいパンに出会ったりするが、これは我が家的には好みじゃない。充分に「噛む」楽しみを持ちつつもふっくらと、そして噛むごとに小麦自体の美味しさが出るようなパンが、美味しいパンなのだ。
 で、ここのパン屋はちょっと、驚愕的なデキだった。ランチを美味しくいただき、ベーコンバケットをお土産に購入。翌日の昼食が楽しみだ。このベーコンはちょっとコショウの辛味も入れてあり、焼いたときの外のサクサク感と、しっかりした歯ごたえのパンがたまらないハーモニーである。

 それからお酒の『亀齢』を買い求める。しかし『亀齢』の純米酒を求めようと思ったが、意外に見つからなくて苦労した。見つけてみると、普通酒との値段の差にちょっとビックリ。最高レーベルの純米大吟醸は、ちょっと手が出ない。残念。
 結果的には普通酒の一升瓶と、純米の720ml瓶を買ってきた、…ふと思ったけど、なんで『720ml』なんだろう? 一升の半分の五合には満たない単位だけど、この瓶のサイズって一般的だよな。それと観光会館で、「地元酒セット」なんて安めのカップ酒五本セットを購入。当たりがあるかな?

 ちょっと思ったけど、『眞澄』といい『亀齢』といい、値段の事もあるかもしれないが、あまり店に「純米」とか「大吟醸」が置いてない。以前に『眞澄』の蔵元のホームページを見ると、「グレードの高いものはもちろんだけど、地元の人が『普段飲み』する普通酒の水準を高めたい」としてあった。それが長野流のお酒との付き合い方なのかな? 嬉しい姿勢だ。
 余談だけど、上田城に行くと、その「売り出し」方の変化にちょっと驚いた。以前は地味な感じの城下町だったのに、なんだか凄く「戦国で売ってます!」という感じのリキの入れ方が見られた。それに気のせいか、以前より若い人がうろついてるような…。

 奥さんいわく、「もしかして、『歴女』人気?」
「…かも」

 どうやら、去年の『天地人』や、ゲーム『戦国バサラ』で人気の得た真田幸村押しの「ビジュアル」的売出しが増えてる様子なのだ。それと最近作られた、アニメ映画『サマータイム・ウォーズ』がやたらとノボリが立っている。
 見たことないので知らなかったけど、『サマータイム・ウォーズ』は上田が舞台なんだそうだ。ふ~ん。ちょっと静かで、小洒落た感じの城下町が、変に活気付いてるのに違和感を覚えつつも、地元の発展のためには必要なことか、と納得したりする。

 目的を遂げて「群馬へ」の帰路に着く。本来はいつもどおりのホルモン屋にいくつもりだったけど、それから前橋に戻るのはしんどい。ということで、ルートはもう藤岡に向かう254号線、通称「姫街道」へ。昔、どっかのお姫様が、このルートを通ったらしい。
 254の長野側は、「コスモス街道」になっていて、秋になるととても綺麗だ。これを群馬側に抜けると、「荒船山」というちょっと頂が箱舟になったような感じの山を通りすぎる。その中腹の「荒船の湯」で温泉に浸かる。久しぶりに着たけど、ここは中々いいお湯だ。

 夕飯は藤岡市まで入った姫街道沿いのお店『柿の木』へ。これは実は有名な店で、店内にウッチャンとか榎本孝明とか、林屋木久蔵(現・木久翁)師匠、元巨人軍角選手などと店のオヤジが並んで撮った写真が飾られていたりする。しかしその店の奥には、何故か熊とタヌキの剥製が。…ちょっとシュールな風景。
 店自体も全く「小洒落て」なぞいなくて、どちらか言えば「近所の人たち、行きつけの定食屋」みたいな雰囲気。そしてここの名物が「姫ラーメン」。

 出てくるとまず、そのボリュームに驚く。大きな器に満載の野菜と面。そして大きなホタテの貝殻がどんと居座り、真ん中にはこれみよがしに赤いエビが乗っかっている。何故かワキにはレモンスライス。
 …久しぶりに見ると、やはりその圧倒的存在感にビビる。その上、具材は豚肉、イカ、小エビ、ハマグリなどごちゃまぜの感じでぶち込まれており、その上にシイタケ、シメジ、エリンギ、ニンジンホウレンソウなどの野菜山盛り。

 しかしこの色々のダシスープに浸かっているのが、ビックリするほど腰のない麺。もう、よれよれのフニャフニャで、完全に腰砕けなのだ。これがちょっと平べったい。
 こんなんで美味しいのか? と思うのだが、食べて見ると「何故か、美味い」。以前から不思議で、最近はちょっと足が遠のいていたのだが、久しぶりに食べると「やはり美味い」。正直、「騙されてる」気がしないでもないが、「やはり美味い」のである。

 ホルモンこそ食べなかったが、夕飯も「何故か」美味しくいただけた。「姫ラーメン」のぐでんぐでんぶり、その「お洒落でない店」に比べると、長野の小洒落た「カンパアニュ」が隣り合わせの県にあるのが不思議なほどだ。
 けど、どっちも美味しいよ。さて、昼は昨日買って来た新鮮なキノコでパスタを作り、それにベーコンパンをつけてくれるとのこと。夜には『亀齢』の晩酌も待ってるしね! なかなか充実したGW初日、そして二日目である。

 アルバム:http://mixi.jp/view_album.pl?page=1&mode=photo&owner_id=16012523&id=48443363
 動画:http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=16012523&video_id=9004900
 

雑談想  お笑いについて



 落語は相変わらず聞いており、CDも大分増えた。そんななかでふと、「現代のお笑いと落語は、どこまでつながりをもっているのだろうか? また『笑い』の構造的な要素とは?」などという疑問が沸いてきた。

 普段はあまりお笑い番組など能動的に見る方ではないが、好きな芸人さんとかはそれなりにいる。奥さんは特に『しゃべくり007』が好きなので、これは毎週欠かさず見てる。
 『しゃべくり』には出てないが、奥さんの好きな芸人はブラックマヨネーズと麒麟である。そういうわけで、この二組の芸人さんのDVDを借りてみたりした。なかなか面白い。…が、これだけで「お笑いの要素」全般は探求できない。

 で、考えた結果、結局『M-1』を見ることにした。『M-1』なら色んな芸人さんの、力を入れて作った漫才が聞ける。大体、麒麟は何年かのM-1を見ていて、あまりにも面白かったのがきっかけだ。
 それで2001~2003年までのM-1を借りて見たのだが、非常に面白かった。落語とは無論異なるが、幾つか共通する要素もある。僕はあまり「笑い」を解する方とは言えないが、非常に興味深いものだと思った。体系的な分析は別にして、ランダムに目に付いたものをメモって見た。

・模倣芸(電車の発進音を真似るとか、芸能人の真似にいたるまで)

・変わった動き(普段あまり見られないようなオーバーアクションを取る。耳で聴く落語には不向き)

・進行の妨げ(ある目的に向かって進行しようとしてるのに、あえてその進行を妨げること)

・外部の観点(緊迫してる状況に緊迫感のないシチュエーションを導入したり、おかしな状況に常識からの解説を加える。通常の『ツッコミ』とか)

・本筋とは無関係の、細部へのこだわり(進行とは無関係の、どうでもいい細部にこだわる。『進行の妨げ』とかぶる事アリ)

・言葉遊び(聞き違えとか、あるシチュエーション対して、似てるけれど異なる言葉を持ち込む)

・置き換え(見立て、と言ってもいい。いわゆるモノボケ。ある物品を、全く異なるものに見立てる)

・シチュエーションの間違い(本来の意味コードにそぐわない、シチュエーションを導入する。漫才では非常に一般的な方法論)

・間違いの繰り返し(求められる正解に対して間違うだけでなく、それを繰り返すことによっておかしみを増す)

・失敗(失敗を繰り返すと『間違いの繰り返し』とダブる。それ以外にも、必要なものが不足してる、などのケースがある)

・不謹慎芸・罵倒芸(ある対象をこきおろす。歌とか誰でも知ってる民話・芸能人などが対象になる。またオヤジ・オバサン等の一般的対象者も存在する)

・二重テクスト(一次テクストを披露しておいて、その一次テクストの意味を後から全く異なったものとして反復、再解釈してみせる。かなり高度)

 
 …とりあえず、思いついた限りではこんなもんだったかな。何か、特別な基準をもちこめば、体系として意味づけられるのかもしれない。
 吉本にはお笑いの学校があるらしいけど、どういう形でお笑いを分析し、教授しているのだろうか? フランスの哲学者ベルグソンの『笑い』とかは、どういう分析をしてるのだろう? 色々、気になっている。

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