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会うべくして会う

本当に今日は収穫があった。

どれから順に話していけば良いのやら。

まっ、とりあえず、聞いてくれ。

おととい、知人の娘さんがついに赤ちゃんを産んだ。

私も嬉しくて、舞い上がってしまった。


他人なのに、他人のことだとは思えない。


私と同じくらいの歳の人が赤ちゃんを産んだんだ。


嬉しくて、何度も話を聞いた。


それで、私もずっとこのまま生きていてもしょうがないと思って、将来のことを本気で望むようになった。


それで、ちゃんと生きようと思って、勉強を始めた。


っで、頭の中にこんなイメージが広がった。

自分でいっぱいの人は他人のことが見れない。

自分を抱き抱えることで必死だから。


大人っていうのは、そういう小さな自分も大きな自分も、どっかに置いて生きなきゃいけない。


両手に自分を抱えている人は、人とともに歩むなんてできない。

ただ自分の荷物を軽くしようとするばかりで、相手のことを見ない。


自分の理想だけを押し付けて、相手の痛みを知ろうとしない。


そういう人ばかりが増えると、やはり、子供は減る。


なぜなら、不自然だから。


バランスを取ろうとする生きものだから。



何か悪いことがあれば、何か良いことがある。


悪いことも良いこともその両方が同じことなんじゃないか?って私は思う。


自分をすり減らした分だけ返ってくるものがある。

誰かがいなくなったら、また新しい誰かがどこかで生まれる。


世界はそういう風に回っているんじゃないか?


って思う。


それで、赤ちゃんが生まれきて、やっぱり、親戚の誰かが亡くなったって話を聞いた。

みんなから聞く。

とりあえず、二人はそうだった。


っで、起こることすべてが偶然ではなく必然って聞いた時、ハッとしたんだよ。


行くべきところに行き、見るべくして見る。

あるところにはあって、ないところにはない。


それを聞いた時、私は今まで起こったことすべてが自分を育てるための出来事だったんだと思った。


嫌なことも良いことも、好きも嫌いも、苦手なことも得意なことも、全部、あって良いものだったと思う。


逃げ出したいって思ったことあるし、震える足で行かなきゃいけない場所に行った。

争いを避けたくて、できれば悪者は私で良いからって思う自分がいた。


大したことない自分がいて、そんなどうしようもない自分で生きるしかなかった。


そう思うと、全部、自分のためにあったことなんだって思う。


もちろん、終わってからじゃないとこういうことは言えない。


今、ものすごく苦しんでいる人がいて、助けて、逃げたいよって言われたら、動けるのであれば行きなさい。行けないなら、どっか環境を変えるしかない。もしお金がなくて、遠出もできない。そんなことを言うのなら、自転車に乗って遠くに行こうって言うと思う。


それでも、自転車がないというのなら、歩いて行こう。

星だって見よう。風だって感じよう。その川の冷たさ、木々の呼吸、陽の暖かさを感じに行こうって思う。どうしても、人間社会の中だけで生きようとするから、しんどくなる。


右向け右ができなければ、抹殺されるような社会だから、余計に自分がおかしいんじゃないか?間違っているんじゃないか?なんて思う。


そんなこと思わなくて良いし、しんどかったらしんどいって言って良い。

動けなかったら、動けなくて良いから、せめて、誰かのために生きようとしろって思う。


静の時間、動の時間があって普通。

みんながみんな、毎日元気で動けるなんてことはない。昨日までは動けていてもいつどこでダメになるのかなんて分からない。ただ今ある自分が全てなんだから、そこからどうにかしようとしない限り、何も変わらない。


変わらない、変われない人たちを見ていて思うのは、ダメになってもやり続けるっていう癖みたいなものがあって、やっても無駄なことにしがみつく傾向のある人のこと。

ずっと同じことを永遠に繰り返し続けるのであれば、良いが、そんなことはない。

日々、変わり続ける。

同じ自分なんかいない。小学生だった頃の自分がいないように、今日もまた変わり続ける自分がいる。

それが諸行無常ってことなんだ。


だから、自分が自分であること以外は変えられないので、他人に対する僻みや妬みは持っていてもしょうがないってことだけ忘れてはいけない。

同じ人でない限り同じ経験はできない。

言葉上でいくら同じって言ったって、その時の気持ち、温度、心拍数、あらゆる状況が同じになるなんてことはない。

一分一秒、変わり続ける。このことだけは覚えていてほしい。


憎い相手も愛した相手も、そのうちいなくなる。

そのかけがえのない日々をどうか大切に生きていて欲しい。


その瞬間、その場所で起こり得ない奇跡があるから。


その感動を味わうために地を這うような苦しみ、試練を与えられるけど、どうか忘れないでいて欲しい。


自分の中にあるから。ちゃんと大切なものは自身の心のあり方で決まる。

そのことだけは留意していてほしい。

一人じゃないってこと、忘れないでいて欲しい。


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自分に甘いって何?という命題を少し


ひたすら考えても答えが出ない命題を昨日、抱え込んでしまって、寝る前や起きた後もひたすら考えている自分がいる。


納得する答えを探してみても、どうやら、自分の中には、答えがないらしい。


考えれば、考えるほど、いらいらするし、私が自分に対して甘い?って言われる筋合いがどこにあるんだろう?と考えても、答えが出ないから、とりあえず、他人に聞いてみた。


そしたら、甘くないよという答えが返ってきて、ちょっとほっとした自分がいた。


なんだ、そう言ってもらいたいのか。なんだ、認めてもらいたかったのか。なんて思う。



自分で、自分が甘いと判断したら、壊れる何かがあったんだろう。


決して、自分に、甘さがなかったのか?と聞かれたら、もっと苦くすることもできたなという自分もいる。


だが、言われて良い相手と言われたくない相手がいる。


仕事を早く終わらせて、この場から早く帰りたいという気持ち、組みたくない相手と組んで逃げようとする気持ち、そこに甘さはなかったのか?と聞かれると、甘いかもしれない。



ただでも、組みたくない相手と組むことによって得られたものがある。



それは、自分の未来。



ずっと同じ未来を永遠と繰り返し続ける。
一生同じまま。

一生、嫌な相手と組んで、給料を稼ぎ、また愚痴る。



しょうもない。何してんだ、自分って思う。



自分が怯えて、何もしなかったから、そういうことが起こっているのに、なぜ、他人のせいにしているんだ?って思った。



それで、ずっとやりたいと思っていたことを始めることにした。



嫌なことがありすぎて、新たな道を求める方が良いって思ったのが動機。


ずっと同じ未来を歩き続けるなんて嫌だ。


ない可能性を求めても、あるのは絶望だけだ。



だったら、ありそうな可能性を求めて、希望を少しでも見出す方が良いって思った。

それが変わるきっかけになったから、その人と会えば会うほど、自分がなりたかった自分になれると思う。


最初は、憎いし、よくもやってくれたなって思うけど、だったら、こっちから去れば良い。


自分が行きたい場所へと行く準備をすれば良い。


それが、今回怨憎会苦から得たことだと思う。



物語の始まりはすべて何もない自分から始まったように思う

今日、久しぶりに、苦手な人と入った。


昔の私は、嫌な顔をしながら、我慢して行ってた。


本当に、暴れ出したくなるくらい行きたくないときもあった。泣いて、喚いて、壁蹴って、穴をあけたこともある。


そんな私が大人になって、ずいぶん進歩したなと思うのは、嫌なことから逃げないってこと。

すごい嫌だなって思うことも、罵詈雑言浴びせられても、必死でやってた。

そしたら、結局、私に罵詈雑言を浴びせてきた人たち、みんな辞めていった。

でも、あと二人、憎い相手がいる。


どうでも良いが、仕事で関わるから、本当、もう、どうにかなれば良いって思う。


それで、そんな風に苦手な相手と仕事をしながら、気付いたのは、一番最初は、誰だって初めてがあって、みんな必死にやってたんだ。なんとか、やらなくちゃって。


その時のことを、ふと思い出した。


中学生になって、自分でお弁当作ったり、洗濯したりしていたあの頃のことを思い出すと、本当、頑張ったなって思う。


その中で受験勉強もしてたし、部活動も命がけでやってた。


おかげで、成果は出た。そうなるようにって何度も何度も繰り返し、自分を苛め抜いたから。



ただな、その後遺症も残って、あの時のように頑張れる気にはなかなかなれない。


でも、いつだって自分が変われたのは、人と会ったからだと思う。


あの人、ああ言ってたな。私もあの人と同じくらいになりたい。そういう憧れで、生きてきた。



でも、やっぱり、結果は出なくて、どうしようもないことに泣きまくったときもある。


自分なんかって思うから。



でも、大人になってみて、分かるのは、誰にだって最初はあって、何もできなくて、何も分からなくてどうしたら良いのかも見えなくて、さまよって、転んで、血がにじんで、痛んで、泣き叫んだこと、絶対あると思う。



どうにもならないことで、自分だけの力なんてちっぽけで、誰かの力を借りないと生きれないそんなどうしようもない自分がいた。



暴れまわって、どうせって言って吐き捨てる。やっぱりなって言って諦める。





そういう思いを何度も味わってきた。




だからこそ、見えてきたものがある。



今日を確実に生きること。明日、起きられるかなんて誰も分からない。死んでいても良いって思う今日をどうか生きてほしい。その時、その時の、輝きが絶対あるから。




だから、諦めんなって思うし、どうせって言って、辞めるなって思う。




誰だってそうだろ。できなくて当たり前だったんだ。

その中を必死で生きてきたんだ。だから、無理なんて言うな。絶対できないなんて全部生きてから言え。


本当に、大人になって、自分で生き方を決められるようになって、心底思う。


学校という教育現場に助けられていたってこと。


同じという時間を作り出すことによって、その限定条件でしか起こり得ない奇跡があったんだって思う。


大人になると、誰か分からない人と手を組んで、仕事をしなくちゃいけない。でも、学校だけは違う。


同じ年齢で、同じ地域に住む人たちが集う場所。



社会に出ると、本当に、カオス。



大学まで出て分かったのは、幼稚園、小学校、中学校、高校、どんどん範囲が大きくなってくる。


中学校では、今までの世界がもう一回り広がって、さらに、高校では、学力が同じくらいの相手と手を組むことになる。大学もそうだ。


何か同じような要素がある人たちが集まる。



だから、自分が自分自身を見失わないように、みんな自分探しを始める。


同じ共通点がある人を求める。



自分が今、どこにいて、誰なのか分からないから。



探している自分も分からないが、見つけてもらう自分もどこにいるのかも分からない。



だから、また、混沌に舞い戻る。


そもそもあったものなのか、なかったものなのか、分からないものを求め続ける。


でも、ちゃんと覚えておかないといけないのは、誰だって最初があって、誰にだって何もないところからスタートしたということ、これだけは忘れないでほしい。





一番最初の自分には、何もなかった。けれど、歩いて行くうちに、どんどん自分が積もっていく感覚、どうか忘れないでほしい。それが覚悟になり、いつか、情熱となって、自分を守ってくれる武器になるから。



それだけは、どうか知っていてほしい。あの時、できないって思った自分から、できる自分にしたのも自分なんだから。

心が叫びそうになった

ロードバイクに乗って、実家に帰ることがたまにある。



その時に通る道は様々で気持ちが揺らいでいたら、遠回りすることもあるし、頭の中でこうだなと思えたら、すんなり帰れるときもある。


でも、いつも通る道で、宝塚駅の近くに、手塚治虫博物館の標識を何度も目にする。


彼の作品はなかなか面白くて、日本を書かれているなって思う。


仏教についてとか、お釈迦様とか、輪廻転生の話とか前世とか、人々の苦を具体化して書いてる。


彼の仕事の話を林修の生きざま大辞典で観たときは、敵わないって思った。


なぜなら、彼は、誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。仕事人間だった。


なぜ、そんなことができるのか。


それは、戦争が彼をそうさせたんだって言ってたような気がする。


目の前で人が死んだんだ。


それが、彼をそうさせる原因だって聞いたときは、泣いた。


そして、もともと医者であった彼がなぜ、マンガの道を志したのかというと、母の言葉があったからって言ってたと思う。



それで、私も、誰かの死を経験して、その重みを知っているから、彼の生き方に同調できる。


その悲しさや辛さは、その人じゃないと分からないと思う。

トラウマとなって、何度も苦しめたんだろう。

そこにはもうない何かに、苦しめられたんだ。本当、見えないものってマジで厄介。



っで、この話と似た話があって、本当、出会うべくして出会ったんだなって思うのが、バイト先の課長の話。



本当に、この人は人を扱うのに長けてた人だって本気で思う。


でも、その内部には、色々な悲しみや苦しさがあること、なんとなく、分かる。



っで、話を聞いてみると、お父さんが女の人作って、出て行って、母は癌で亡くなったって聞いた。その時、医者になりたいと思ったって言ってた。でも、なれなかったって聞いた。その後、結婚するんだけど、恩師に絶対出て行ったお父さんに会いなさいって言われたから会ったら、号泣してたって聞いた。


そんな日、来るんかな?私は父に対する憎悪がすごかったから、疑ってみたけど、距離を取るようになって見えない部分が見えるようになって、ようやく、ちょっとは許せるようになった。


だからこそ、出会えた人がいるとも思う。



それって、あってほしくないことだけど、あったからこそ、生まれた縁なんだって思うから、なしにしたら、いけないものなんだって思った。




誰かを亡くした悲しみって言うのは、本当にどうしようもなくて、稀有なもので、でも、そのうち、みんな経験することだから、自分だけが不幸なんて思う必要もないって最近になって思えてきた。


どうせ、そのうち、そうなる。だったら、最初からそうあるように生きたら良い。背伸びしたって良いじゃん。届かなくても、手を伸ばしたって良いじゃん。だって、じゃないと、自分が後でしんどくなる。今のうちに苦しむか、後になって苦しむか、そんなのは自分で選べば良い。



その人の生き方なんだから。



ありがたいと思う心で生きるのか、はかないものだなと思う心で生きるのか、そんなのは自分で決めたら良い。

誰もが、この瞬間は初めてなんだ。


どうなるのかなんて、今の自分が一番分かってんだ。だったら、そうならないようにするまで。

前と同じ結果に納得してたら、次から次へと来る人に追い越されてしまう。そうならないように、逃げ切る。いつかは追い越されてしまうかもしれないけど。でも、逃げても、ダメなのは、ずっと前から分かってるんだ。


覚悟を決めて、その身をどうにかするしかないんだろう。

昨日まで生きた人の続きを今日の自分が引き受ける

不老不死


どっかで聞いたことのある言葉


死なないし、老いない


そんなこと起こり得ないことを昔の人は願っていた。


生きてみて、実感する。


どうしようもないできごと。


誰だって死ぬし、誰だって老いる。


なんか、もう嫌いだった人も好きだった人もそのどっちでもない人も、いなくなってしまうこの世の中。

確かなことなんかないことが確かなこと。



どうしてこんなこと思ったんだっけ?なんでこんなことになってるんだっけ?


答えなんか見つからない。ただ、人を待ってた。


ただ人に会いたくなった。ただあの時の約束をあの時の気持ちをもう一度味わいたくて、何度も何度も再生する。

終わりがないように。


昨日までの自分、その前の自分、どこまでさかのぼれば、今日が来るんだろう?何をやれば、いつからやれば、いつまでにやれば、どう生きることが正しくて、どう生きないことが正しくないことが分かるんだ?



同じ人間なのに、同じなんかありもしない。自分が敵になる日だってある。あの日、あの時、自分はどうありたかったのか。分からない。でも、確かにある鼓動を感じながら、言葉が出る。


鼓動と感情



体の中に流れる。いつどこでどうなってどうしたらそうなるのかなんて確かなこと誰にも分からない。


ただ一つ分かることは、みんな道に迷いながら、さまよいながら、探し求めている何かがあるってことだけ。


自分は特別なんだ。


その言葉は、どっちにでも行けるんだよ。


人を殺めることもできるし、人を助けることもできる。


なんだって、自分は特別なんだから。


だから、そうじゃないってことを教えてあげなきゃいけない。



自分は特別なんだからこそ、ありたいと望む姿にそのまま自分を投じてみれば良い。



それは、あなたが強くそう望むことによって、発動するものだから。



出会いと別れから見えてくる自分のあるべき姿。


あなたがどう生きてきたのかなんて、その鼓動がちゃんと証拠になる。



ちゃんと思いを重ねて生きてきたんでしょ?


ちゃんとそこまで導いて来たんでしょ?


だったら、それが、答えとなる。



それで良いんだって思える今をどうか築き上げること。それがみんなに与えられている宿題だと思う。



あなたがそうしたいと思ったこと、それがちゃんと誰かのためになっているということ、どうか忘れないで。


たくさんのサポートをしてくれている人がいるから。


ちゃんとそばにいるから。


だから、どうかそのことだけは覚えていてほしい。


絶対、一人ぼっちなんかじゃないこと。それだけは言い切れる。

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