それが成長なんだろう。
去年、一昨年、その前の年は、占い通り本当に厳しい試練の連続だった。
こんなに筋書き通りトラブルが起こるのか?と思えるくらい、人からああだ、こうだと言われた。
今もなお、その苦しみが襲ってくることもあるけれど、でも、まだなんとかやれている自分がいる。
何度も泣いたし、何度も体が痛くなって、助けを求めたこともあった。
だけど、それに関して、納得のいく回答は得られなかった。
どれもこれも、お金のかかることばかりで、どうしようもない自分でなんとかしていくしかなかった。
あまりに心臓が痛くて、不整脈起こして、しんどいって誰かに伝えても、その誰かには伝わらなかった。
だけど、本当に限界が来たら、しゃがみ込んでしまうことを知った。
夏の暑い日に無理をして、意識がなくなりかけたこともあった。その時、だらだらと汗をたらして、一歩一歩を進めていかなきゃ、ゴールには到達できない。あまりに、辛くて、泣き出しそうだったけど、木陰で休んで、何とか希望を持って歩いた道はやがて自分の細胞になり、弱虫だった私をなんとかここまで運んでくれた。
やって良かったと思う。やるしかなかった。誰かに物を強く言うには、それくらいした後じゃないと言えない。
命張って、頑張ってやっている自分を作っておかなきゃ、誰かに何かを言えるような自分にはなれなかったと思う。
そして、死にかけていた自分に、見ず知らずの人が、塩のタブレットくれたり、もう一回しゃがみこんでいたら、見ず知らずの女性が、背中をさすってくれた。
泣いている場合じゃない。一歩を進めるんだ。なんとか、最後までやるって決めたんだ。
そしたら、色んなことに対して、ぶつかっていける強さが少しずつ生まれてきたように思う。
だから、やる前から、どうのこうの言うより、やった後で、何か変化があったことを心の中に生み出す訓練が必要だって思った。
昔の人は、車もなければ、機械もない。水も川に行かないとない。洗濯ものだって、農作業だって、人の手でやってきた。
その手はひび割れて、腰は曲がり、痛みと戦い、何度も何度も挫けそうになる気持ちを自分の父母を観て、なんとか、前を向いて生きようとする強さがあったんだろう。
体を本気で動かしてみれば分かる。
痛みが出て、熱が出て、それでも、やらなきゃ明日が来ない。そんな気持ちを何度も何度も繰り返して、一人前になっていく。
本気で何かをやることの意味が分かる。
体を動かさずに何か言おうとすると迷いが出る。自分でやってみて、どうか。それが確かなことかどうか。
一流に教えられるのと素人に教えられるの、どっちが良い?プロになるか、ならないか。
自分に対して問うレベルが上がれば上がるほど、気持ちが上昇すればするほど、やる気や負けん気、根気、などが知らず知らずのうちに膨らんでいくんだろう。
体を動かしてみて、やれるかどうかを試してみて、ようやく自分の考えが正しいかどうかが分かる。
いつも私が考えるのは、距離で考える。
行きたい場所がどこなのか。今のここからどこに行けるのか。どれだけの我慢ができるのか。
きっとできる。やれる。っていう気持ちだけは、自分が知っている。
どんな状況に陥っても、その身に起きたことの全部の対処法を知っているから、続きが今日ができた。
だから、やってみて、その日の自分はどうなのか。それが、全部なんだよ。
次の瞬間、変わっていっている自分を知ること。
一秒一秒、変わる自分を味わうこと。
最近、だらしなくなって、攻めることが少なくなった。あそこに行きたいだとか、あそこの景色が見たいだとか思ったら、すぐに行動に移せていたのに、なかなか動けずにいる。
だけど、そんな自分に言葉をくれる人がいて、納得したことがある。
それは、空手を教える先生が、弱い子供を強くするためにやること。
心技体のうち、体を一番先に、教える。
まず、正座をする。
背筋を整え、頭をぴんと天に向かってまっすぐにする。
そして、お腹を骨盤の上に乗せ、呼吸を整える。
やってみれば分かる。気持ちがだんだんと変わるってこと。
体が変化していくってこういうことですよって教えてくれた。
なんか、思うんだけど、変わりたくない、変わりたくないって言っている子って、痛い目に遭うって思っているのかもしれないけど、違う気がするんだ。
ほんのちょっとのことで変わること、その感覚を何度も何度も味わえば、変わることってこわくないと思う。
ほんの少しの変化が、ものすごい変化をもたらし、最後、自分が完成していく。
だから、無理やりやるんじゃなくて、変わる感覚を教えてあげれば、怖くないと思うんだ。
自転車に乗るように、初めはその感覚が分からなかったけど、やりながら、徐々に強くなっていく。
それがきっと、強くなる秘訣。